1話 初めての朝
リディアがゆっくりと瞼を開けると、天井が白く霞んで見えた。
橙色のランプの灯りではない。天から降り立った純白の光だ。
頭の奥がぼんやりとしていて、まだ夢の中にいるような気がする。眠り足りないような、けれど奇妙に満ち足りた感覚が胸の奥に広がっていた。
耳を澄ますと、どこかで人の声が聞こえる。小声で何かを話し合っているようだが、切羽詰まったような響きが混じっていた。それも自分自身が目を覚ましたことが原因のようだ。
混乱の波が押し寄せ、思わず身じろぎすると、足元のシーツがかさりと音を立てる。
それに気づいたのか、扉の開閉音がして、誰かが慌てた様子で廊下に走り出していった。
やがて廊下から軽やかな足音が近づいてくる。ノックもそこそこに、扉が開き、誰かがベッド脇までやって来た。
「おはようございます、リディア様」
その声は穏やかでありながら、どこか張りつめていた。
驚きを隠せないような、少し慌てたような口調だ。先ほど出て行った人は、彼女を呼んできたのだろう。
寝惚け眼で、視線を向けると、メイド服をまとった女性が立っていた。
カフェオレ色のボブ髪にキリッとした整った顔立ち。ナイフのような鋭い目つきで、リディアを見下ろし、毅然とした雰囲気をまとっている。リディアの専属メイドであるベアトリスだった。
「あら、おはよう。ベアトリス」
無意識のうちに口をついて出た言葉に、リディアは自分で小さく眉をひそめた。
彼女におはよう、と挨拶されたのは、これが初めてだった。そしてつい自分も同じように返してしまった。
知識としては知っていた。人は朝になれば「おはよう」と言い交わすものだと。しかし、実際にこの口でその言葉を紡ぐと、胸の奥がむず痒いような、どこか現実味のない感覚が湧いてくる。
「……今、何時?」
おもむろに問いかけると、ベアトリスは背筋を伸ばしたまま、すぐに答えた。
「午前8時12分です」
その声音はいつもと変わらず落ち着いているようでいて、ほんのかすかな緊張がにじんでいた。
カーテンの隙間から差し込む柔らかな陽光が、部屋の中に金色の筋を描いていた。暖かい光が頬を撫でるたび、リディアは新鮮な刺激を感じていた。
太陽というものが、こんなにも白いとは知らなかった。
絵本や挿絵で見た太陽は、赤く燃え上がり、怒りのような炎を撒き散らしている姿だった。
けれど、窓の外に漂う光は違った。柔らかく、どこか人を拒まない色をしている。白金の輝きがゆらりと揺れて、カーテンの隙間からリディアの頬に落ちる。
これが、本物の太陽。
肌を撫でる風もどこか温かい。夜の冷たい空気に慣れきった体には、それさえも奇妙に思えた。
「……リディア様がこうして目を覚ましていらっしゃるなんて」
ベアトリスはベッド脇に立ち、深く息をついた。張りつめていた肩の力を、ようやく抜いたようだった。その声音には、安堵と喜び、そしてわずかな緊張が入り混じっている。
目覚める時間が朝だということは、リディアにとっては非日常だった。
これまで、瞳を開けるのはいつだって夜。深い闇と静寂が彼女の世界のすべてだったのだ。
「病気が治ったの?」
「いえ、それはまだ分かりません」
「そうね。これが初めてだもの」
リディアは口元を緩めて、小さく呟いた。
毎日20時間以上も眠り続ける体。意識があるのは夜の数時間だけで、世界の大半を夢の中で過ごす生活。
そんな生活を4歳のころから10年間も続けてきた。
「これまで新たな治療法が見つかるたびに、リディア様に処方して参りました」
ベアトリスは穏やかに続ける。その声は主を気遣う優しさと、メイドとしての使命感に満ちていた。
「昨晩は、東洋で採れたルクスフローラという花を用いた料理をお出ししました。もしかすると、その効能がこの変化の要因かもしれません」
リディアはゆっくりと瞼を閉じる。
脳裏に、昨夜の夕食のことがぼんやりと浮かんだ。あの青い花。淡い光を放つ花弁が、スープの表面に儚げに揺れていた。味はあまり好みではなかった。少し渋みがあって、せっかくのスープの味が濁っていた。
あの花が、この朝を連れてきたのだろうか。
昨夜、眠りについたのは深夜の11時ごろだった。
そこから目覚めるまでに経った時間は、わずか9時間程度。リディアにとっては信じられない睡眠時間の短さだった。
そんなことがあるのかと、ぼんやりとした頭で考える。けれど、体は不思議と重くない。夜には感じたことがない、全身に満ちる微かな活力に、胸がざわついた。
「これが朝なのね」
リディアは感慨深そうに、息を漏らした。