走馬灯
星を見ていた。
静寂を唄う夜闇を引き裂くような波音が、空高く、遠く響いていた。
海を見ていた。
夜空に散った星々と、雲を透かした淡月が、儚く海を照らしていた。
私は生きていた。
遍く生きる人類と寸分違わず、まるでそれが生来の義務であるかのように呼吸し、眼前の景色を見つめていた。
私は死んでいた。
何をも美しく思えなかった。
僅かにも心が動かなかった。
ただひたすらに願っていた。
余生の終わりを願っていた。
月は未だ、真暗な海を照らしていた。
人はなぜ、人類をたった二色に塗り分けようと
するのだろう。
そこにどんな違いがあると言うのだろうか。
はっきり言って、私はその区分が嫌いだ。
私のように、二色のどちらにも染まりきれない
人間にとって、その区別は忌むべきものだった。
私のような人間も認めるなどと、社会は嘯く。
くだらない。上っ面だけの理解など誰も求めてはいない。
世間の無価値で薄っぺらな言葉の数々は、僅かにでも自らの生活環境の改善を期待した私に、失望と言うには些か大きすぎるほどの苦痛を齎した。
小学一年生の頃、私は授業中に将来の夢について聞かれ、
大真面目に「可愛い女の子になることです。」
などと答えた事がある。
紆余曲折を経て、その一連の受け答えは両親や後の担任なども知ることになり、以来私を心配してか、或いは揶揄いのためか、周囲の大人や級友から「将来の夢は何か」と
繰り返し尋ねられることとなる。
そして、繰り返される質問と好奇の目の数々に、
やがて私は、自らの夢が社会から大きく外れたものであることを知った。
小学生高学年に上がる頃には、幼くも悟ってしまった自らの異常性に、私はその気持ちに蓋をして生きることを決意するより他無く、嘘をついて生きる事を常とすることになったのだ。
女の子になりないなんて思ってないよ。
将来の夢は○○だよ、などといった具合に。
同時に、日常を過ごすコミュニティにおいても
私は、居心地の良い女の子達の輪から離れ、
苦手で仕方がなかった男の子達の輪に混ざることとなる。
やがて中学生になって、周りの男子が大きな声で
低俗な会話をするようになり、私は更に苦労した。
どうしても低俗なその話題に私は着いていけなかったのである。孤立しかかって、それでも何とか繋ぎ止めて、その果てに私はやはり今度も嘘をつくしかなくなってしまった。今度は自分に対してだ。
「私は男の子だから、大丈夫。」そんな具合に。
その後の生活は息が詰まるようなものだった。
馴染めないコミュニティの中から、羨ましさと共に、
可愛い、好き、などと言い合って軽々しくハグをし合えるような女子らの姿を見て、私はひたすら消えたくなった。私がそういうコミュニティに入れない事が苦しくて仕方がなかった。
加えて、林間学校や修学旅行も地獄だった。
大浴場に入るにあたって、見たくもない男性器が目を背けてたとしても目に入ってしまう。
吐き気が止まらなかった。死にたいと思った。
死んでしまえば良いと願った。変わらない生活に、この世の全てを呪った。
私が高校生になっても、世界は相変わらず本当の私を排斥し続けていた。
男として過ごす事にも随分慣れ、ある種男としての自分をほんの僅かにでも確立しつつあった私は、
女子と仲良い男子、程度の立場を手に入れつつあった。羨望はなおも埋まらずに広がるばかりであったとはいえ、ほんの僅かな希望がそこにはあった。
高校三年生になったある日、私は思い立った。
女の子としてのありのままの自分で、ネットの人と関わってみるのはどうだろう、と。
結果は直ぐに現れた。私は女の子として、家庭環境や身体について悩みを抱えた、同じような境遇の女の子達とコミュニティを形成することに成功した。
自分の理想としていた関わり方を、自分の本心をひた隠しにし始めてから、既に8年程が過ぎていた。
幸せだった。私が求めていた関係性がそこにはあった。軽率に可愛いと人を褒め、可愛いと褒められ、好きだなんて言い合って、はしゃぎ合うような関係だ。幸せに満ちゆく心とは裏腹に、心のどこかが荒んでいくのを感じていた。
ああ、私は気づいてしまったのだ。
どれだけ関係を深めても、どれだけプライベートを教えあっても、私はこの子達と声でお話する事ができない。私はこの子達と会うこともできないのだと。
だからこそ、思ってしまった。
私はなんでこんな見た目で生まれてきたの?
私はなんでこんな声で生まれてきたの?
私はなんでこんな身体で生まれてきたの?
私はなんでこんな思いをしなくちゃいけないの?
なんで?なんで?なんで?なんで?
生まれて初めて女の子として人と関わって、
生まれて初めてあんなに幸せに人と話せて、
なのに私は死んでしまいたくて仕方がなかった。
来世は女の子になれるかなんて、考えてしまった。
心がぐちゃぐちゃになってしまっていた。
男の人に可愛いと言われたのが何故か嬉しかった。
女の子とはしゃげたのが心底幸せだった。
女の子に対して同性だって感覚があるのに、
長い努力のせいで、男の子に対してもそんな感覚を持てるようになってしまった自分が嫌いだった。
女の子を好きになれてしまう自分が嫌いだった。
男の子が怖いのに男の子と笑って話せる自分が気持ち悪かった。吐き気が止まらなかった。
堪えきれずに吐いて、吐いて、吐いて、泣いた。
理解が出来なかった。私を排斥した世界よりも、自分自身が、何より理解出来なかった。
分かりたくもないと思ってしまった。
寄せては返す波の前で、私は自らの生を呪った。
何に泣いているのかも分からないまま、私は泣いていた。
えずいて、もがいて、倒れ伏して、そうして私は、
星を見ていた。
静寂を唄う夜闇を引き裂くような嗚咽が、静かな海に響いていた。
海を見ていた。
砂浜に散った涙と、それらを攫う波の傍で、儚く月は咲いていた。
私は生きていた。
遍く生きる人類に排斥され、まるでそれが生来の義務であるかのように周囲に同調し、自分自身すらも理解出来ないほどにぐちゃぐちゃのまま、ただ息をしていた。
月はどこかに消えてしまった。
塗りつぶしたような、或いはインクを零したような
暗闇の中、波の音だけを頼りに私は歩いていた。
徐々に高さを増す海は、私の体から確かに体温を奪っていった。私は…
私は生きていた。けれど、
私はこの世界で、皆と同じようには笑えなかった。
私はこの世界に、希望を持てなくなってしまった。
だから、私は今、ただひたすらに願っていた。
来世こそ、私も皆と同じになれますように。
私はきっと、とっくに死んでいた。