余命半年、婚約破棄されたので自由気ままに生きていたら求婚されました
「そう……あなたの寿命が残り半年だというのは、本当に残念なことね。でも、だからと言って王太子殿下との婚約が続けられると思っていたのかしら?」
母のその言葉に、私はただ黙って頷いた。
私の名はリシア・エルトフォルト。辺境伯家の長女であり、聖癒と呼ばれる回復スキルを持つ者として、王都でも名が知られていた。
だが、癒しの代償は大きい。回復のたびに自分の命を削るスキル。それを理解していたのは、ほんの一握りの人間だけだった。
「婚約は破棄よ。王太子殿下は、もっと健やかな妃を望まれているの」
「……承知しました」
痛みも、怒りも、悲しみも、湧いてこなかった。全てはもう、とうに過ぎ去った感情だった。
婚約が決まったのは十歳の頃。初めての夜会で手を取ってくれた彼は、私のスキルのことも、体の弱さも、何も知らないままだった。
それでも、私は彼を想い続けた。片思いでも構わなかった。
だが、今となっては、それすらも無駄だったのだ。
「半年、せいぜい穏やかに過ごすことね。無理をして誰かに迷惑をかけてはいけないわよ」
「はい、お母様」
この家で育った二十年。母は一度たりとも私を抱きしめたことはない。スキルを授かった娘として扱うばかりで、私個人を見てくれることはなかった。
父も弟も、私を利用価値のある存在としか見ていなかった。
それでも、私は家族のために力を尽くしてきたつもりだった。
それが……この仕打ちだ。
心臓の奥に痛みが走る。
だが、それは怒りでも悲しみでもない。ただ、死期の近さを告げるサインだった。
私は丁寧に一礼し、母の部屋を後にした。
使用人たちの視線が冷たいのは、昔からだった。
彼らにとって私は、過労で倒れたり、体を壊したりしてばかりの“役立たず”だ。
それでも、私が癒した傷、払拭した呪い、助けた命の数を彼らは知らない。知る必要もないと、誰もが思っているのだろう。
自室に戻ると、書きかけの手紙が机の上に置いてあった。
宛名は、自由都市からやってきた留学生、セイル・ヴァルシオン。
彼は私の唯一の「元・婚約者」だった。
いや、正確には、私が一方的に婚約を申し込んだ相手だ。
その頃は、王太子との婚約が流れることを恐れて、別の“盾”が必要だった。
彼が冷たく突き放したのも当然だった。
「謝らなきゃね……今更だけど」
私は手紙を破り捨てた。
言葉で詫びるくらいなら、直接会って、頭を下げる方がマシだ。
翌日、王都の外れにある古びた喫茶店。
私が腰掛けている席の向かいに、長身の青年が現れた。
「……リシア」
「……来てくれたんだ」
「お前が“話がしたい”って言うからな」
相変わらず棘のある口調だった。でも、来てくれただけで十分だった。
「……あのときは、本当にごめんなさい。都合のいいことばかり言って、自分勝手で」
「……」
「でも、今日はそのお詫びじゃなくて、お礼を言いたくて来たの」
「礼?」
「うん。セイル君のおかげで、私は少しだけ自由になれた」
彼は目を細めて、私をじっと見つめる。
「……お前、変わったな。前はもっと、貴族らしい言葉使いだった」
「ふふっ、もう、貴族やめようと思って。余命半年だし、せめて最後は、好きなように生きたいから」
「――なんだと?」
彼の声が、少しだけ震えた。
「何言ってんだ、お前。そんなこと、簡単に……」
「スキルの使い過ぎでね。自業自得だよ」
「自業自得で死ぬ奴があるか!」
その怒鳴り声に、店内の客たちが驚いてこちらを見た。
セイルは拳を握りしめたまま、肩を震わせていた。
「……お前のスキルはな、世界に一つしかないんだぞ。そんな力を持って生まれてきた意味を、もっと……」
「わかってる。だからこそ、もう使わない。私の命は、もう誰のためにも削らない。私自身のために残しておきたいの」
「それは……本気で言ってるのか?」
「うん」
セイルは深く息を吐いた。
それから、ふっと笑う。
「じゃあさ、残り半年。俺にくれよ」
「……え?」
「一緒に過ごそうぜ。好きなことして、好きなもの食って。……俺が付き合う」
「……どうして?」
「気になるからさ。あの時の令嬢が、こんな風に変わってるのを見たら、そりゃあ気にもなるってもんだろ」
その言葉が、胸の奥で温かく響いた。
「……ありがとう、セイル君」
「別に、礼なんかいらねぇよ。……まずは、喫茶店から出ようぜ。街、歩いてみたいんだろ?」
「うんっ!」
初めてのデートは、小さな市場の路地裏から始まった。
飾らない店先の菓子パンを一緒に頬張り、行商の演奏を聞きながらベンチで笑い合う。
涙が溢れそうになったけれど、私はそれを飲み込んだ。
この時間が、ずっと続けばいいのに。
でも、そうはならないことを私は知っている。
だからこそ、せめて今だけは――
市場を歩いた後、私たちは川沿いの遊歩道をのんびり歩いた。
初夏の陽気が心地よく、風に揺れる木々の音がやさしく耳に届く。
あの屋敷の冷たい空気とは違って、ここには温かさがあった。
「なあ、リシア」
「なに?」
「……歩くの、速すぎねぇ?」
「あ、ごめん、つい……」
「病人が人より元気なの、どういうことだよ……」
「ふふっ、気分が良くなると、ついね」
自然と笑みがこぼれた。セイル君と一緒にいると、昔のことを少しだけ忘れられる。
屋敷のことも、婚約破棄のことも、余命半年という現実さえも。
「今日、王都の夜会があるんだろ?」
「うん。王太子殿下と、私の妹エミリアのお披露目があるって」
「……あいつ、マジでお前を捨てたんだな」
「うん。捨てられたよ。でも、それで良かったんだと思う。あの人に好かれるように努力した私の時間は、全部間違ってた」
「そっか」
セイル君の返事は短かったけれど、それだけで胸がすっとした。
わかってくれている、それだけで救われる。
だけど――
その夜、私は避けるつもりだった夜会へ足を運ぶことになる。
理由は単純だった。
母が一方的に私の出席を決めたのだ。
「家の名誉のためよ。余命のことは黙っておけばいい。誰も気づかないわ」
言葉は冷たく、感情はなかった。
私はもう、この家にとって“義務”でしかない。
だから私は、最後の義務として、夜会に姿を見せることにした。
王都の中央広場にそびえる、ガレリウス城。
その大広間には、宝石のように煌めくドレスを纏った令嬢たちと、格式高い衣装の貴族子息たちが集まっていた。
私は城の端の方で、目立たないように佇んでいた。
「お姉様、来てくださったのですね!」
聞き覚えのある、けれども最近はあまり交わしていなかった声。
「こんばんは、エミリア」
「ふふっ、今日は私の晴れ舞台なんですよ。どうです? 王太子殿下とのお似合いっぷり」
「とても、お似合いだと思うわ」
私の心を逆撫でするように、妹は無邪気な笑顔を浮かべていた。
だが、それを咎めるつもりはなかった。
エミリアは、ただ利用されているだけだ。あの王太子にとって、誰が妃になろうと、家の格さえ保てればよかったのだろう。
そして、やはり彼は、私の前に現れた。
「久しぶりだね、リシア」
「お久しぶりです、殿下」
「体調はどうだ? 以前よりずいぶん元気そうに見えるが」
「ご配慮ありがとうございます。……おかげさまで、余命半年です」
王太子の表情が一瞬だけ強張った。
だが、すぐに平然とした顔に戻る。
「そうか、それは……気の毒に」
「ええ、とても気の毒です。でも、捨てていただいてよかった。最後の時間を、もう“あなたのため”に使わなくてすみますから」
「……リシア、君は誤解している。私は――」
「殿下」
私の視線は冷たかったと思う。
「王太子としての振る舞いをお忘れなきよう。私はもう、エルトフォルト家の一員としてこの場にいるだけです」
彼は、なにかを言いかけてやめた。
その視線の先には、エミリアの笑顔があった。
その瞬間、心のどこかが完全に冷え切った。
もう、何も残っていない。
その夜、私はひとり城を出た。
月明かりの下、歩いていた道に、一人の青年が待っていた。
「おかえり、リシア」
「……なんでいるの?」
「お前の顔、見ておかないと、俺が落ち着かないから」
「ふふ、ほんと、不思議な人ね」
その晩、私は初めて自分の心の奥を、セイル君に話した。
王太子のこと、母のこと、家族のこと――そして、ずっと胸に抱えていた「生きたかった」という想いを。
彼は黙って私の手を握ってくれた。
何も言わず、ただ、その手を温かく包んでくれた。
「リシア。もしも……お前が望むなら、俺はお前を連れて逃げてもいい」
「それは、誘拐だよ?」
「その代わり、自由もつける」
私は笑った。
そして、答えを出すことは保留した。
でも、ひとつだけ確信していた。
この人と一緒にいると、私は生きていると感じられる。
それから数日後、私はある“決断”を下した。
エルトフォルト家に別れを告げること。
形式的なものではなく、戸籍と地位のすべてを捨てて、完全に縁を切ることを意味する。
母は怒りをあらわにし、父は無言だった。
弟は私のことなど最初からいなかったかのように、目を合わせようともしなかった。
「……リシア、お前は本当に、何も残さないつもりか?」
父のその問いに、私は微笑みだけを返した。
「私には、残された時間しかありませんので」
そうして、私は領主館を後にした。
馬車の荷台に積まれたのは、少しの着替えと、一冊の本。
それは、子どもの頃、まだ夢を語っていたころの私が書き溜めた、旅の記録ノートだった。
旅の目的地は、セイル君の故郷――自由都市エルデリア。
王都からは南東に数日、山と湖に囲まれた穏やかな自治都市。
そこには、王族も貴族もいない。身分の差がほとんどない世界。
“死ぬまでに一度は行ってみたい場所”として、昔から憧れていた土地だ。
その夢が、いま現実になろうとしている。
「おい、乗り心地悪くないか?」
「うん、大丈夫。馬車より、この景色の方が大事だから」
並んで座るセイル君が、ちらりとこちらを見て、小さく笑った。
「お前、ほんと変わったよな」
「よく言われる。自由になったからかな」
「そうかもな。前のお前は、ずっと閉じ込められてた感じがした」
私は、窓の外に広がる草原を見つめながら頷いた。
「このまま、何事もなく旅が終わればいいな」
「終わらせる気か?」
「ふふっ、私の時間は有限だからね。でも……延びるのなら、延ばしてみたいって思ってるよ」
その言葉は、彼に対しての初めての“希望”の表明だった。
自由都市についたのは、旅立ちから五日後。
思っていたよりも開けた街で、石造りの建物と花で飾られた窓枠がとても印象的だった。
「わあ……綺麗……!」
「住みやすいぞ。空気もいいし、うるさい貴族もいないしな」
「なんか、今まで見たどの街よりも“人間らしい”って感じがする」
「だろ? この街は“誰でもやり直せる”街だって言われてるからな」
セイル君の言葉に、胸の奥がじんわりと熱くなる。
やり直す。
その言葉が、今の私にはとてもまぶしかった。
それからの数日間、私はセイル君の家に間借りする形で暮らし始めた。
彼の家は鍛冶屋だった。
父の代から続く工房で、現在は弟と共同経営をしているらしい。
早朝には金属を叩く音が響き、夜には焚き火の明かりで夕食をとる、質素だけどあたたかい生活。
私は知らなかった。
こんな“普通の暮らし”が、こんなにも幸せだなんて。
ある夜、私はセイル君の弟、ユリスと並んで夕食をとっていた。
「兄貴と一緒に暮らしてると大変でしょ?」
「え? ううん、すごく楽しいよ」
「へえ……兄貴に笑顔向けられる人って、珍しいんだよな。昔から“他人に興味がない”って言われてたのに」
「私には、よくしてくれるよ」
「そりゃ、あんたが特別だからだよ」
そう言って、ユリスは軽く笑った。
その後、少しだけ黙った後に、ぽつりと漏らすように言った。
「兄貴……実は昔、婚約者を目の前で失くしたことがあってさ」
「……え?」
「貴族の娘だった。すごく優しい人で、でも身体が弱くて……兄貴はずっと彼女を守ろうとしてた。でも、助けられなかった」
「それって……」
「だから、兄貴はあんたを見て、“また失くすのか”って思ってるのかもな」
私の胸の奥が、きゅっと締めつけられた。
その晩、私は眠れなかった。
静まり返った夜の空気の中で、ベッドの上に座っていた。
セイル君の過去を知って、私の決意も固まった。
私は――生き延びなければならない。
この人の悲しみを、二度と繰り返させないために。
私は私の命を、他人のために使うことをやめた。
でも、唯一この人のためなら――少しだけ、踏み出してもいいと思える。
「セイル君……私、頑張るよ」
小さく、そう呟いた。
翌朝、彼に言おうと決めていた。
生きたい。あなたの隣で、もっと未来を見てみたいって――。
その日、自由都市エルデリアは静かだった。
空は晴れわたり、川のせせらぎと市場のざわめきが日常を描いていた。
私は街の南にある小さな診療所で、子どもたちの手当てを手伝っていた。
「わっ、お姉ちゃん、ありがとう!」
「うふふ、もう痛くないでしょ?」
「うんっ!」
頬を緩める子どもに、私も自然と笑顔を返す。
スキルは使っていない。ただ、簡単な包帯の巻き方と冷湿布の処置。
でも、昔の私にはなかった“時間の使い方”だった。
そんな中、医師のノア先生が私に声をかけてきた。
「リシア嬢、少しよろしいですか?」
「はい。どうかされましたか?」
「……今朝、王都から重篤な患者が運ばれてきました。身元は伏せられていますが、おそらく貴族の方でしょう」
「王都から……?」
「心臓に呪詛が深く刻まれているようで、魔術も薬も効きません。あなたの力が……必要かもしれません」
思わず息を呑む。
私が“直す”力を使えば、患者の命は救えるかもしれない。
でも、それは私自身の命を削る行為でもある。
診療所の奥、小さな隔離室に案内された私は、ベッドに横たわる人物の顔を見て絶句した。
「……王太子、レオナルド殿下」
まさか、こんな形で再会するとは思わなかった。
蒼白な顔、浅い呼吸、乱れた髪。あの夜会で私に言葉を返した時の気配はすっかり失われていた。
付き添っていた騎士が、深く頭を下げる。
「……どうか、殿下をお助けください」
私は迷った。
もう王族には関わらないと決めたはずだった。
でも――
「リシア」
振り返ると、セイル君が立っていた。
彼は何も言わず、私の目を見つめている。
「私は、もう誰かのために命を使うつもりはなかった。でも……」
「使いたいと思ったか?」
「……うん。そう思っちゃった」
苦笑して、私はレオナルド殿下の傍らに膝をついた。
「一回きり。これが最後の“癒し”」
手を翳すと、薄く白い光が灯った。
命が削れる音がする。
それでも、私は止めなかった。
終わったとき、私は膝をついていた。
呼吸が浅く、視界がぐらぐら揺れていた。
「おいっ、リシア!」
セイル君の声が遠くで聞こえる。
彼の腕の中に倒れこみながら、私は微笑んだ。
「生きてるって……感じがした……」
「馬鹿野郎! もうやるなって言っただろ!」
「最後だって、言ったでしょ?」
「お前が言った“最後”は信じない。……俺がどうにかしてやる」
その言葉は、いつかの夜に聞いたものと同じだった。
でも、その時とは違っていた。
私は、心の底からそれを信じられた。
一週間後。
私は診療所のベッドで目を覚ました。
「おはよう、リシア」
「……ノア先生」
「スキルの反動で眠り続けていましたが、ようやく落ち着いたようですね」
「セイル君は……?」
「ずっと付き添っていましたよ。昨日はさすがに倒れて、いまは休んでいます」
その後、セイル君がやってきたのは日が傾き始めた頃だった。
「よう。寝過ぎだろ」
「ふふっ、ちょっと休んだだけ」
「命を削って“ちょっと”とか言うな」
「でも、助けられてよかった。レオナルド殿下、無事なんでしょ?」
「ああ。……退位して、王都を離れるそうだ。しばらく、妹のいる領地で静養するってさ」
「そう……」
それを聞いて、私は静かに目を閉じた。
ひとつの過去が、ようやく終わった気がした。
「なあ、リシア」
「うん?」
「お前のスキルな、俺の“初期化”で無理やり強制停止できるかもしれない」
「え?」
「発動中は無理だ。でも、内部に刻まれてる“スキルの命令コード”に干渉できれば、命を削る条件ごとリセットできる。……そう思って、研究してた」
私は、目を見開いた。
でも、次の瞬間、セイル君の額を軽く指で突いた。
「そんなこと、勝手に決めて……怒るよ?」
「勝手じゃねえ。お前に生きてほしいって思ったからやっただけだ」
私は、彼の言葉をそのまま受け取った。
どんな魔術よりも、あたたかい言葉。
「……セイル君」
「ん?」
「私、きっともうすぐ死なない」
「当然だ。俺が生かすって言っただろ?」
「……そうだね。これからは、生きる練習をしないと」
「それなら任せとけ。毎日デートして、毎日遊んで、毎日喧嘩してやる」
「それ、夫婦じゃない?」
「そうなるかもな」
私は顔を真っ赤にして、枕に潜り込んだ。
でも――そのまま笑った。
幸せって、きっとこういうことなんだろう。
命の終わりから始まった、私の物語。
それがようやく、“生きる物語”に変わった気がした。
「リシア、ちょっと来てくれ」
昼下がりの工房。セイル君に呼ばれた私は、エプロン姿の彼に手を引かれ、裏庭に連れていかれた。
「……なにこれ」
「仮住まいだけど、俺が作った。二人で住む用」
そこには、小さな木造の家があった。
まだ壁には塗装もなく、窓ガラスも入っていない。けれど、不思議とあたたかい雰囲気を感じた。
「この間、話しただろ。俺と毎日喧嘩して、笑って暮らすって。なら、場所がいるだろ?」
「……ふふっ。ほんとに、もう」
言葉にできない想いが胸にあふれてくる。
私のために、ここまでしてくれる人がいるなんて。
「これで“スキル初期化”の準備もできる。装置は地下に置く予定だ」
「本当に、私のスキルって戻せるの?」
「条件付きだけどな。発動の引き金を生命力消費から“自律判断式”に切り替えれば、ある程度制御できる。お前が無理して発動しない限り、削れないようにするってわけだ」
「……それって、やっぱり危険じゃない?」
「だから一緒にやる。俺は、お前を“救ってやる”とは思ってない。お前が自分の力で“生きる”ための土台を整えたいだけだ」
私の目から、涙が一筋こぼれ落ちた。
誰かのために命を削るしかなかった人生。
ようやく、誰かと一緒に生きる選択肢が目の前にある。
「ありがとう、セイル君……。本当に、ありがとう」
それからというもの、私は建設作業を手伝ったり、街の人たちと触れ合ったりと、かつての自分からは考えられない日々を送った。
診療所でも、あくまで“補助役”として手伝い、スキルは絶対に使わない。
不思議なことに、以前ほど症状が出なくなっていた。
もしかしたら、心のあり方が身体に影響しているのかもしれない。
「リシアさん、今日は花摘みですか?」
「あ、はい! ハーブティー用に。先生にも分けますね」
そう笑って答える自分に驚いた。
こんなにも人と自然に会話ができるなんて。
こんなにも、笑顔が似合う自分がいたなんて。
その夜、セイル君が珍しくソワソワしていた。
「なんかあったの?」
「いや、ちょっと散歩に行こうかと……」
彼に連れられて向かったのは、町外れの丘だった。
夕陽が空を茜色に染め、川のきらめきが眩しい。
「……綺麗だね」
「お前に見せたかったんだ。自由都市で一番好きな景色」
「うん。……私も、ここが一番好き」
しばらく沈黙が続いたあと、彼が小さく息を吐いた。
「リシア。もしさ、もしもお前のスキルが戻って、普通に生きられるようになったら――」
「うん?」
「……俺と結婚してくれ」
風の音が、止まった気がした。
心臓が跳ねた。
「え、え……?」
「今すぐじゃなくていい。お前が望むなら、ずっと待つ。でも、伝えたかった」
「私……そんなに立派な人間じゃないよ。まだ怖いこともあるし、不安もある」
「それでいい。俺も立派じゃねえ。お前と一緒に、そういうの全部分け合いたい」
私は、両手で顔を覆った。
涙が止まらなかった。
嬉しくて、嬉しくて、言葉が出なかった。
「それって、今……私が“わがまま”言ってもいいってこと?」
「当然だろ。お前が我慢ばっかしてたの、見てきたんだから」
私は一歩、彼に近づいた。
そして――
「私……あなたと結婚したい。今すぐにってわけじゃないけど、でも……いずれ絶対に」
その言葉を、彼は優しく受け止めてくれた。
「ふふっ、じゃあ最初のわがまま。手、繋いで」
「任せろ」
手と手が触れた瞬間、心がとても穏やかになった。
これはもう、家族の始まりなのかもしれない。
こうして私は、生きることを選んだ。
誰かのためではなく、自分の意思で、自分の未来のために。
次の春には、小さな家に花を植えようと思う。
その時、セイル君の隣で、私はまた笑っているはずだ。
もう、誰にも脅かされない日々の中で。
春の気配が、自由都市の空に満ち始めていた。
私は毎朝、庭に出て花壇の土を耕すのが日課になっていた。
「リシア、今日も早いな」
「セイル君こそ、また朝練?」
「体が鈍るからな。最近は幸せすぎて油断しそうで怖い」
「それ、私のせい?」
「半分な」
笑い合う。こんな平穏な朝が、ずっと続けばいいと思っていた。
でも、平穏はそう長くは続かなかった。
その日、工房に来訪者があった。
「……貴族っぽいな」
「うん、装飾の質からして王都の上級貴族か、領主クラス」
応接室に通されたのは、黒衣に身を包んだ中年の男と、その後ろに控える二人の騎士。
私の顔を見ると、男は深く頭を下げた。
「エルトフォルト家長女、リシア様。あなたにお伝えすべきことがあり、参上いたしました」
「私はもう、エルトフォルト家とは縁を切りました。用件だけを」
「……失礼しました。では単刀直入に。お母上であるカティア様が、重篤な状態にあります」
胸の奥が、ざわついた。
「……だから、私に何をしろと?」
「どうか、彼女の“スキルの継承”をお願いできませんか。リシア様の力を、娘のプリム令嬢へ継承する儀式に――」
「断ります」
私は即座に答えた。
使者はたじろいだが、すぐに態度を取り繕う。
「このままでは、貴族会議の均衡が――」
「関係ありません。あの家のことは、もう私の知ったことではありません」
言い切ったその瞬間、自分の心のどこかが決定的に切り離された気がした。
未練も、情も、残っていなかった。
使者たちが帰った後、セイル君がぽつりと言った。
「……それでも迷わなかったんだな」
「うん。私はもう、“誰かの都合で生きる”ことはしない」
「偉いぞ」
「えへへ、褒められた」
でも――その夜、私は夢を見た。
冷たい廊下。遠ざかる母の背中。震える手で手紙を書いていた、過去の自分。
決して優しくはなかったけれど、それでも母を“愛したかった”自分。
――その感情が、少しだけ胸を締めつけた。
翌日、ノア先生から呼び出された私は、診療所で再検査を受けていた。
「……良い報せと悪い報せがあります」
「どっちから聞きますか?」
「……悪いほうから」
先生はしばし沈黙し、それから言った。
「命を削るスキルの根は、完全には消えていません。まだ、発動の余地が残っています」
「じゃあ……良い報せは?」
「初期化装置による封印、成功率が上がりました。セイル君の計算が正しければ、次の満月に“完全停止”が可能です」
「……っ」
私は息を呑んだ。
あと少し。
あと一歩で、この呪われた力から解き放たれる。
「リシア」
セイル君が診療室の扉を開けて、こちらに歩いてきた。
「満月まで、一緒に準備を進めよう。お前のための未来は、もうすぐそこだ」
私は頷いた。
自分の人生を、自分の手に取り戻すその日まで。
満月の夜。
私は小さな家の地下室にいた。
そこには魔道式の封印装置が設置されていて、スキルを“停止状態”に固定する準備が整っていた。
「本当に……もう、使えなくなるんだね」
「ああ。これで、お前の命はお前のものになる」
「……ありがとう、セイル君」
私は装置に手を置いた。
次の瞬間、眩い光が放たれ、私の身体を包んだ。
熱さも、痛みもない。
ただ、静かに――
何かが、終わっていく感覚。
長年身体に寄生していた“呪い”が、剥がれ落ちていくようだった。
そして、光が収まったとき。
私は、そこに立っていた。
力強く、地面を踏みしめて。
「どうだ?」
「……すごく、軽い。身体が、全部自分のものみたい」
「成功だな」
「うんっ!」
私は、セイル君の胸に飛び込んだ。
涙が止まらなかった。
私は、ようやく――ようやく、生き返ったのだ。
スキルが封印された翌日、私は空が違って見えた。
草の匂いも、風の音も、まるで新しい世界に来たかのようだった。
私は“生きる”ことを手に入れた。
それでも――
「……帰らなきゃいけない気がするんだ、セイル君」
「わかってたよ。だから、昨日のうちに馬車の手配を済ませておいた」
「え?」
「お前のこと、だいたい予想がつく」
彼は照れくさそうに頭をかく。
「一緒に行くよ。お前を“ただのリシア”として迎えに来た人間として、ちゃんと見届けてやる」
「……うん、ありがとう」
向かったのは、私の故郷――エルトフォルト領。
あの陰気で、重苦しい空気が漂う屋敷。
かつての私が死ぬことを待っていた場所だ。
けれど今は違う。
私はもう、命を誰かに握られてなどいない。
門の前で名前を告げると、使用人が仰天した顔で奥へ走っていった。
数分後、母――いや、元・母のカティアが現れた。
その顔は痩せこけ、老けていた。
「……生きていたのね」
「そちらの望み通り死ねなかったことを、謝るべき?」
「……そんなこと、言わせないで。私は……本当に、あなたのことを愛していたのよ」
「それは、あなたの中だけの愛でしょう。私は一度も愛されたと思ったことはありません」
彼女は俯いた。
「もう、何もいらないの。家も、地位も、スキルも。私、あの子――プリムにまで呪いを引き継がせるつもりはない」
「だったら、何を望んでるの?」
「ただ……許されたいと思ったの」
その言葉に、私は何も返さなかった。
過去は、取り戻せない。
私は首を横に振った。
「許すとか、そういうのじゃない。ただ、私はこれからも生きていく。その中にあなたの居場所はない。ただ、それだけ」
彼女の肩がわずかに震えた。
「……さようなら、お母様」
それが、私が口にした最後の“母”という言葉だった。
屋敷を出た帰り道、セイル君がずっと無言だった。
「……どうしたの?」
「いや、すげえなって思って」
「なにが?」
「ちゃんと自分で、終わらせたんだなって」
「……うん、やっとね」
道端に咲く花が、風に揺れていた。
私たちはしばらく黙って歩いた。
でも、それがとても心地よかった。
帰りの馬車の中で、私は彼に言った。
「私ね、ちょっとだけ未来のこと、考えてる」
「お、まさか結婚式の話か?」
「ふふっ、それもあるけど……もっと先」
「たとえば?」
「自由都市で、スキルを持つ子どもたちのための学校を作りたいなって。私みたいに、力のせいで人生を狂わされる子が、少しでも減るように」
「……いいな、それ」
「やっぱり、苦しかったから。自分の命の価値を他人に決められるのって、本当に辛い。だから、そういう子に“選ぶ力”を与えられる場所を、作りたい」
「絶対、作れるよ。……俺も手伝う」
「うん、よろしくね、パートナー」
自由都市に戻ってから、日々はまた穏やかに流れていった。
私は診療所での手伝いを続けながら、学びの場の設計に取りかかっていた。
子どもたちに必要な知識、スキルの制御、安全な使い方。
“力”を“呪い”に変えないために。
私のこれからは、誰かのための犠牲じゃない。
誰かの希望を支えるための力だ。
そして、ある日。
私はセイル君と、再びあの丘に登った。
「なあ、リシア」
「うん?」
「“もしもの話”じゃなくて、“本気の話”していいか?」
「なに?」
「結婚しよう」
私は、笑顔でうなずいた。
「うん、しよう」
夕陽が私たちを包んだ。
過去の痛みも、苦しみも、全部抱きしめたまま、私はようやく未来を選べた。
春が過ぎ、初夏がやってきた。
自由都市の朝は早く、日差しと共に市場がにぎわいを見せる。
私は小さなバスケットを抱えて、診療所に差し入れを届けた帰り道――
「リシア先生!」
背後から駆け寄る元気な声に振り返る。
「シーナ、走らないでって言ったでしょ」
「でもでも! 今日は先生のおうちに行ってもいい日でしょ?」
「ええ、もちろん。……でも、その前に手を洗って着替えること、忘れないようにね」
「はーい!」
無邪気に笑う少女の姿に、かつての自分の影はもうない。
あの頃の私は、命の終わりに怯えて、誰かのためにしか存在できなかった。
けれど今は違う。
私は、自分の意思で生きている。
あの後、セイル君と私の結婚式は、小さな礼拝堂で行われた。
友人たちに囲まれ、質素だけれど温かな式だった。
白いドレスに身を包み、鏡に映った自分を見た時、私ははじめて“幸せ”という言葉を実感した。
それから数ヶ月。
私は自由都市の郊外に、“癒しと知恵の学び舎”を開いた。
スキルを持つ子どもたちが、自分の力と向き合い、安全に学び、誰かを癒やすための術を身につける場所。
かつての私が、欲しかった場所だ。
「リシア、そろそろ午後の授業始めるぞー」
「はーい、行きます!」
校庭ではセイル君が、木陰のベンチで子どもたちを呼び集めていた。
彼は鍛冶の仕事を弟に引き継ぎ、今は学び舎の管理と授業の補佐をしている。
思いがけず“子ども好き”という一面を発揮し、生徒たちからも大人気だ。
「先生、先生! この前の“回復の手順”もう一回やって!」
「はいはい、落ち着いて。順番に教えるからね」
この声が、未来へと続く。
この小さな空間に集まった命の輝きが、誰かの希望になる。
その一助になれることが、私にとって何よりの幸せだった。
夕方、授業が終わり、生徒たちが帰ったあと。
私はセイル君と並んで校舎の裏手に腰を下ろした。
「今日もお疲れさま」
「おう。……リシア、最近すげえ顔してるな」
「え? 変な顔ってこと?」
「いや、マジで幸せそうって意味だよ」
「ふふっ、そうかな。……でも、確かにそうかも」
私は空を見上げた。
あの頃は、空の青ささえも怖かった。
命の終わりを知った日、世界は全て灰色に見えた。
けれど今は、違う。
「ねえ、セイル君」
「ん?」
「生きててよかった」
「……ああ、本当に」
彼の手が、私の手にそっと重なる。
あたたかい。
ずっと、探していたぬくもりだった。
「昔、丘の上で言ったこと、覚えてる?」
「んー、どれだ?」
「“選ぶ未来”の話。……私はね、あの時、生きたいって初めて心から思えたの」
「そっか」
「だから、ありがとう。セイル君が、私に“選ぶ自由”をくれたから」
「礼なんかいらねえよ。俺は、お前が隣で笑ってくれるだけでいい」
「ふふっ……ほんと、ストレートだなあ」
言葉は尽きない。
でも、もう言葉がなくても分かる。
私たちは、ちゃんとここまで歩いてきた。
あの日、誰にも必要とされなかったはずの私が。
今は、たくさんの子どもたちに慕われて。
優しくて、ちょっと不器用な夫に愛されて。
自分の命を、自分の手に取り戻して。
――それは、奇跡みたいな人生だ。
でもこれは、私が“生きる”と決めたからこそ掴んだ、たしかな現実。
どこまでも続く空の下で、私はこれからも、きっと何度も悩んで、笑って、泣いて、歩いていく。
その全部を、自分の足で進んでいく。
だからこの物語は――
余命わずかの少女が、ひとつの恋と、未来を見つけた、“生き直し”の物語。
……そして、きっとこれからも続いていく。