26 「わたくしはとても幸せだわ」
かくりと頭が傾いてアンネははっとした。
いつの間にかにうつらうつらとしていたようだ。手にしていたハンカチが床に落ちている。
泣き疲れてうたた寝するなんて、まるで子供のようだ。久しぶりに自制心が効かなくなってしまった。
アンネは左腕に嵌めてあるバングルを服の上からそっと撫でた。このバングルのおかげで精神の安定を保っていたのに、やはり番の話は心の奥底を揺さぶるのだろう。
アンネは呼び鈴を鳴らした。
きっと涙の跡が残るみっともない顔をしているとは思うが、左半身が不自由な身体では落ちたハンカチを拾うのも一苦労だ。顔を洗って身支度を整えるには人の手が必要だった。
「アンネ、落ちついたか? お茶でも飲まないか?」
すぐにノックがして、夫の声がした。どうやら、一人にしてと言ったから、扉の外で待機していたようだ。
命の恩人であるサムエルはアンネの身体が不自由なせいもあるが、結構過保護だった。
アンネが返事をすると、すぐにサムエルがワゴンを押して入ってきた。ティーセットの他にポットやタオルに洗面器も用意されている。きっと専属侍女が気を利かせてくれたのだろう。
「あなた、ずっと外で待っていてくれたのですか? 申し訳ありません。わたくしがワガママを言ったばかりに」
「なあに、気にするな。誰にでも一人になりたい気分の時はある」
「でも、わたくしを心配してくださったのに、わたくしは・・・」
「君も私が墓参りをした後は彼女の好物を用意して待ってくれているだろう。お互い様だよ」
サムエルは茶色の瞳を和ませた。
彼の婚約者は婚姻直前に事故で亡くなり、本来なら生家の墓に入るはずだったが、サムエルが無理を言ってフルスティ領の墓地に眠らせた。婚約者を無情な生家の墓になど入れたくなかったのだ。
婚約者は子爵令嬢で婚約後に母を亡くしたが、父親も兄も彼女には関心がなく、再婚後に後妻と連れ子に密かに虐待されても放置状態だった。
後妻は裕福な平民の商家の出で娘を甘やかして育てていた。義妹となった連れ子は子爵令嬢の立場になってもワガママ放題で良縁には恵まれなかった。フルスティ家と縁付く義姉を羨んで妬み、事件を起こした。
使用人に馬車の車輪に細工させたのだ。馬車は橋を渡る途中で事故を起こし、前日の大雨で増水した川に落ちてしまった。馬車に同乗していた者は全員溺死した。
フルスティ家の馬車で御者を始めとして侍女や護衛までも被害に遭った。義妹に命じられた使用人は伯爵家の家人を何人も巻き込んでしまって恐ろしくなってフルスティ家に懺悔したのだ。
問い詰められた義妹は怪我をすればいいと思っただけで殺すつもりはなかったと主張したが、疾走する馬車が事故を起こせば人命に関わるのは火を見るよりも明らかだ。
サムエルは婚約者のために伯爵家から侍女や家庭教師を派遣していた。将来の伯爵夫人の教育と称して、婚約者を保護していた。行儀見習いの名目でフルスティ家に招いて彼女を守っていた。後少しで婚姻だったのに、婚約者を失ったサムエルは絶望なんて生優しい激情に呑み込まれた。
徹底的に子爵家を潰して全員を破滅させてやった。元凶の後妻や義妹はもとより、見て見ぬ振りをしていた父親や長兄も許せなかった。平民となった彼らを借金まみれにして最下層の貧民に叩き落としたし、後妻の実家も商売が立ちいかないようにして破産させた。
それでも、婚約者を亡くした悲しみが癒えるものではなかった。
サムエルは領地経営を両親に任せて、考古学者として各国を彷徨った。
婚約者との思い出がありすぎてなかなか領地に戻れなかった。このまま一生独身を貫くかと思われた時に、瀕死状態の天音と出会ったのだ。
「今だから白状するが、あの時の私は死場所を探し求めていたのだよ。もし君と出会わなかったら、私は今こうしてはいないな」
「まあ、そんな・・・」
アンネは息を呑んだ。
夫から手渡されたタオルで顔を拭いて人心地ついたところで衝撃の告白だ。アンネはぎゅっとタオルを握りしめた。
「もしかして、わたくしは貴方の人生を捻じ曲げてしまったのではないかしら? 貴方が婚約者の元へ行きたかったのを邪魔してしまって、意にそぐわない婚姻を押し付けてしまったのでは・・・」
「いやいや、婚姻を押し付けたのは私のほうだろう?
私が君を保護したと知った両親が君を世話した夫妻に婚姻の話を持って行ったのだから。
君のほうこそ、迷惑したのではないか? 夫妻のためにも申し込みを断れなかっただろう?」
サムエルは苦笑と共にお茶を淹れてカップを差しだした。アンネは受け取って弱々しく首を振る。
「まさか、そんな。助けていただいた上に身体の不自由なわたくしを迎え入れてくれて、お義父様とお義母様には感謝しかございませんし。貴方にはお世話になるばかりで申し訳ないくらいよ」
「お世話になったのは私のほうだ。君が両親から領地経営を引き継いでくれたから、私はこの歳まで好きなように考古学にのめりこめた。
復讐に手を貸してくれた友人たちにはエレオノーラの後を追うのは禁止された。彼らに心配をかけたくはないが、彼女がいない世界で生きていくのも辛かった。何よりも、彼女を救えなかった自分が情けなくて不甲斐なくてどうしようもなかった。その想いを昇華できたのは君のおかげだ。
私は君を助けることでエレオノーラを失った悲しみを癒すことができたのだ。私が君の命の恩人だというならば、君だって私の命の恩人なのだよ」
「まあ、ふふっ。わたくしたちは本当に似た者同士ね」
アンネは頬を緩めてお茶を口にした。彼女の好みのお茶に夫の秘蔵酒を少し混ぜたもので、芯から身体が温まる。
サムエルも自分のカップにお茶を注ぎ、多めに秘蔵酒を入れている。アンネが非難の視線を向けると、バツが悪そうな顔になった。
「私のほうが体格がよいからな。多めに飲んだほうが効き目がよいのだぞ?」
「貴方は晩酌にもいただくおつもりでしょう? 飲み過ぎは身体によくないわよ、もうお年なのだし」
「昔よりは控えめにしているのだがなあ」
サムエルはしょんぼりと肩を落とす。くすくすと微笑んだアンネは左腕をそっとさすった。
「貴方がこのアミュレットを手に入れてくれたから、わたくしの心は落ちついたし、体調も安定したわ。
もう心の整理はできていると思ったのに、公子様のお話で動揺してしまって情けないわ。公子様は驚かれたでしょうね、クリスタにも心配させてしまって」
「公家の代替えの際に市井に噂が流れたが、それ以外はさすがに話が出回ることはなかったからな。詳しい後事情がわかって動揺するなと言うほうが無理だろう」
サムエルがもっともらしく頷いてから緊張した顔になる。
「なあ、アンネ。いや、天音。
そのアミュレットなのだが、実は私が用意したものではないのだ。ある人から託されたのだ」
「ある人から? まあ、どういうことかしら?」
「・・・君の安否を探している方がいると聞いて訪れたお宅で、危篤状態の怪我人と出会った。その人から託されたのだ、君の安寧のために」
「危篤って・・・、まさか?」
アンネの顔色が悪くなる。サムエルはそっと妻の手を握って労るように左腕を撫でた。
「当時の久遠公、君の番に頼まれたのだ。彼はもう自分が助からないと知っていた。それでも、君の無事を聞いて喜んだ。番を失って君が廃人になるのは耐えられないと彼は一枚の鱗を渡してきた。
竜人が生涯の最期に形見にするという逆鱗だ。彼の魔力で君を覆えば、欠けた心を埋めることができるだろうと言っていた。そのアミュレットは逆鱗で作られたのだ」
「と、きわ、さまが・・・」
「ああ、彼は君の幸せを望んでいたよ。だから、逆鱗だと知らせないでくれと言われた。
竜人ではなく、人として生きていけるように竜人族の郷のことは忘れたほうがいいと仰っていたが、さすがにあの話を聞いてしまっては黙ってはいられない。
天音、君は確かにあの方の番で最愛だった。周囲もそれを認めたのだ。君に恥じるものは何もない」
「ときわ、さま・・・。ああ、あなた、ひどいわ。せっかく、泣き止んだのに」
新緑の瞳が潤んで睨みつけてくるが、サムエルは優しく微笑んだ。ハンカチを取りだして目元を拭ってくれる。
「どうせ泣くならば、嬉し泣きするといい。あのお方も喜びの涙なら、君が幸せだと認めてくださるだろう」
「わたくしは貴方にも、常盤様にもずっと守られていたのね・・・。ええ、わたくしはとても幸せだわ」
天音はこみあげる想いを抑えきれずに不器用な泣き笑いの顔になった。
クリスタがサンルームへ到着すると、すでにイオリが席に着いていた。お茶の支度が整っていて、イオリももう気持ちの整理ができたのか、いつものごとく落ちついた表情だ。
イオリはクリスタの祖母の事情を聞いた後に、ひょこっと顔をだしたオリヴェルから少し休息をとったほうがよいでしょうと勧められて客間にご案内された。
祖母が落ちつけばもっと詳しい話を聞きたがるかもしれないし、イオリも諸々を呑み込んで整理する時間が必要だろうと配慮されたのだ。もし、よかったら宿泊してはどうかと提案されて、「婚約者の家にお泊り!」とハイテンションになっていた。早速、お泊りの連絡を従者に入れさせて着替えなどの手配を行なっていた。
「クリスタ嬢とずっと一緒にいられる。食事も同席できる」とじんわりと喜ばれて、さすがにオリヴェルもお邪魔虫すぎたかなと反省気味だ。
昼餐に祖父母は現れなかったので、なるべく妹と友人の会話を邪魔するのは控えた。尤も、テンション高めのイオリは終始浮かれていて、オリヴェルの気遣いには気づいていなかったようだが。
イオリはクリスタから昼餐の後にお茶をどうかとお誘いされてサンルームに移動だ。サンルームに併設された温室ではクリスタ好みの花が咲き乱れて目に麗しく、明るく華やかな雰囲気だ。
「イオリ様、お待たせしました。お誘いしたのに遅れて申し訳ありません」
「女性の身支度は時間がかかるものなのだろう? 私のためにクリスタ嬢が着飾ってくれたと思うと嬉しいから気にしないでくれ」
イオリがぶんぶんと尻尾を振り回しそうな全開の笑顔を向けてくる。
うっ、眩しすぎる御尊顔だわ、とクリスタは内心で怯んだ。
無自覚な恋心の芽吹きを自覚してしまったからにはこれまでのようにはいかない。
クリスタは着替えこそしなかったが、昼餐の時とは髪型を変えて髪飾りや装飾品も新しく付け替えた。食後の気分転換というか、明るい雰囲気にしようと華やかさを意識したのだ。
イオリは目ざとく気づいて嬉しそうに青い目を細めている。
「プレゼントした簪を使ってくれているのだな。よく似合っている」
「え、ええ。ありがとうございます」
クリスタは意識したせいか、少々ぎこちなく微笑んだ。イオリが不思議そうに首を傾げる。
「クリスタ嬢、どうかしたのか? なんだか、硬い顔をしているが?」
「えっと、二人きりは学園でお詫びされて以来だなと思って。ちょっとだけ、緊張しています」
「ああ、精神安定剤になってくれた時だな。あの後、オリヴェル殿にぎゅうぎゅうにシメられたよ」
イオリが遠い目になって、ははっと乾いた笑みだ。オリヴェルは遠慮してお茶には不参加でこの場にはいない。
「兄が無遠慮で申し訳ありません。さすがに過保護すぎますわね」
「いや、婚約前に抱きしめたのはまだ早かったから」
なんだか婚約後ならOKだよね、とか言い出しそうな雰囲気だ。クリスタは話題転換することにした。
「イオリ様。祖母は下の義弟、次男が亡くなったことは知っていましたが、詳しい事情までは耳に入らなかったそうです。次男について何かご存知ですか?」
番の悲劇で語られなかった次男のその後を尋ねると、イオリが顔を曇らせた。
「ああ、竜化して暴れた責任を問われて、僻地に療養という名目で幽閉になったが、その地で番と出会ったそうだ。番は不治の病で余命いくばくもなかった。次男は番と出会えた幸運のすぐ後に地獄の底に突き落とされた。
番とできるだけ一緒に過ごして番が亡くなるとすぐに後を追ったという。
彼は日記を残していて、番と出会ってからは父と義姉の仲をさいてしまったのを後悔していた。兄宛にも懺悔の手紙を出して謝罪を申し出ていた。後悔してもすでに手遅れで、罪悪感に苛まれた上に番を失ったショックで最後は正気を失っていたらしい」
「まあ、そんな・・・。おばあ様はまたショックを受けるのでは・・・」
「そうだな、話すのはもう少し様子を見てからにするつもりだ。もし、尋ねられたら、調べるのに少し時間がかかると説明するよ」
「ええ、お気遣いありがとうございます。それでは、養母と長男はまだご存命なのでしょうか?」
竜人族の寿命は人族よりも二十年ほど長い。彼らが存命の可能性は高かった。
「ああ、二人とも地方の村でひっそりと暮らしているらしい。長男は番が見つからなくて婚姻は遅めだった。そのせいか、子供には恵まれなかったそうだ。妻を早くに亡くして、母親と二人暮らしだと聞いている」
「そうなのですか。もし、おばあ様が望まれたら、お会いできますか?」
「おばあ様に我が国までの長旅は無理ではないか? 相手にこちらまで来てもらったほうがいいと思うが」
「そうですわねえ。おばあ様のご意見を聞いてみないと確かなことは言えませんが、できたらそのほうがいいでしょうね」
考え込むクリスタにイオリが優しい眼差しを注ぐ。
「王国と正式に同盟を結べば、我が国との行き来はしやすくなるはずだ。
同盟締結後は叔父が外交官長になる予定で、この国の大使館にしばらく滞在する。私は叔父の補佐役の話がでている。将来的には大使館長になるかもしれない。
公主を継ぐのはその後になると思う。少なくとも十年ほどは本国に戻らないだろう」
「まあ、十年も?」
「ああ、オリヴェル殿も外交官勤務でそれくらいは他国暮らしになるのだろう? 同じ立場だな。
クリスタ嬢は私が公主の座を継いだら、一緒に本国へ行ってくれるか?
もし、フルスティ家の跡取り問題があるならば、子供が成人するまで大使館勤務でも構わないが」
クリスタははっと顔をあげた。
イオリは兄から跡取り問題を聞かされていたようだ。祖母の悪評が鎮まったならばクリスタが竜人族の国へ嫁ぐのに何も問題はなくなる。ただ、跡取り問題だけが残るが、イオリが大使館勤務になるならばそれも解決する。いいこと尽くめで俄かには信じがたいほどだ。
「イオリ様は子供を我が家の養子にだしても構わないのですか? ご両親に相談したりとかは・・・」
「番との婚姻は多産が見込めるから反対はされないはずだ。もし、子供に恵まれなくても、君との離縁は絶対に何がなんでもあり得ないし。
クリスタ嬢、君は私の唯一無二の最愛だ。私の手を取って欲しい。もしも、断られたら、私はショック死する自信がある」
「そんな物騒な自信は持たないでください!」
きりっと自信満々な顔で一体何を言いだすのか、この男は!
クリスタがきっと睨みつけると、途端にしょぼくれて耳が垂れる幻影が見えた。きゅうううんと悲しそうな鳴き声も聞こえる、気がする。
「・・・ダメなのか?」
「ダ、ダメではない、です」
うるっとした青い目に絆されて、クリスタは赤い顔をして頷いた。そっと差しだされた大きな手に恐る恐る手を乗せると、破顔したイオリに大切な宝物のように抱きしめられた。




