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薔薇と金木犀  作者: 長尾
7/11

 結局原稿用紙が白紙のまま一日が過ぎた。信念だとかそういうことを意識しだすと書き出しが迷子になる。どこから言葉を掴んでくれば良いのかわからない。傍から見ればぼーっとしているだけだが、征一は征一なりに既に執筆に入っているのだ。言葉の海に深く潜って、欲しい響きの言葉を掴んでくる。この作業がいちばん時間がかかる。一行目ならなおさらだ。


「征一、飯はどうする? 」


 助け舟を出すように朔之助が声をかけてくれた。


「食べるよ、ありがとう」


「……相当詰まっているらしいな」


「なんだかね、今日はちょっとダメみたいだ」


 そういう日は決まって征一は酒を飲む。素面では書けないのなら、多少酔ってしまえば少しは引き出しやすいだろうと考えてのことだ。


「僕はどうして字書きになったんだっけか……」


「なんだ、そんなこと考えてたのか」


 酒を注ぎながら朔之助は軽く笑った。


「そんなの、お前にいちばん合っていたからに決まるだろ。お前の意思じゃないんだろうよ」


 里芋の煮物をつつきながら、征一は黙って聞いている。


「これはあくまで俺の考えだが、人は生まれたときに、何がいちばん長けているのか既に決まっているんだと思う。征一は字書き、俺は本を売ること、それだけのことだろう」


「だが、いまの僕は字書きに長けているとは決して言い難いよ」


「だとしても、だ。お前が自分の文学を信じなくてどうする、今日はやけに弱気だな?」


 征一はぐっとお猪口の酒を飲み干した。


「そんなんじゃない。ちょっと迷子になったのさ」


 ふわっと笑った征一の顔につられて朔之助も笑った。



 こんなふうにして朔之助に助けられることばかりだ。たしかに、信念というと小難しいように聞こえるだけで、壱加が聞いたのは『なぜ字書きになったのか』ということだけだったかもしれない。それならば簡単だ。自分にはそれしかないからだ。楽しいと思えるものが、いちばん自分に向いていると思えるものが、これしかないからだ。


 思考の渦から足が抜けると、一行目が思いついた。すらすらと文章が溢れでてくる。


「あ! 紙、紙紙……紙……」


「よかったな征一……」


 慌ただしく隣室に帰っていく征一を見送りながら、朔之助は嬉しいような寂しいような気持ちになって、煮物をひとりつつくのだった。



 その頃、壱加は梓への手紙をしたためていた。


『 可愛らしい梓さん


 隠していたわけではないのだけれど、聞いてほしいことがあるの。

 わたしが憧れている作家さんの話をいつかしたことがあったと思うの。浦部征一という人なのだけれど、その方が学校の近くに住んでいらっしゃることが最近わかったの。

 それでね、わたし何度か通ったのよ。どんな方なのかしらと思って。そしたら、思ってたとおりの良い方で……わたし、梓さんと違う気持ちで征一さんのことが好きなの。気づいてしまったの。わたし、どうするべきなのかしら。こんなことを言われても困惑するだけよね。許して頂戴。


   雨の夜に   壱加』


 壱加は手紙を書き終えると思いきりため息をついた。まさかこんなことになろうとは思いもしなかった。梓への気持ちは変わらず堅い。けれど征一への憧れの気持ちも堅い。果たしてこれが憧れだけなのかすら怪しい。更には縁談も進みつつある。お相手の方は偉い軍人さんのご子息だと聞いた。どんな人なのか未だ知らない。


 どのようにしても気持ちの整理がつかない。梓とは絶対に結ばれないが、大切な愛しい人なのだ。書き上げたはいいが、この手紙を送ることさえ、どうしようか未だに迷う始末だ。


 きっと征一への気持ちは『不良』とされる気持ちに違いないことはわかっている。わかっているのに、どうしても殺しきれない。苦しい。これがもしかすると本当の恋なのかもしれない。


 現にお母様から古本屋通いについて注意されている。ただの本屋通いではないことを、アヤが洩らしてしまったのだ。



「先生は、どのような信念を持って筆を執るのですか」


と聞いたときの征一の表情を思い出していた。困ったように眉間にしわを寄せつつ、笑って


「……難しいことを尋ねられますね」


と返事をした。


 壱加はただ、文筆で食べていこうと決めた心境について聞きたかったのだが、すこし難しく聞こえてしまったらしかった。


 ただ、その苦い笑みが美しくて。苦しかった。



 翌朝、壱加は昨夜の手紙を梓に渡すことを心に決めた。それで嫌われるのなら、それまでだ。


「お姉さま、その方へ思いは打ち明けましたの?」


 梓の反応は思っていたのとは違うものだった。


「いいえ。なにも……」


「……では告白されてみたら? それで了承されても、断られても、長く片恋を嘆くよりはずっといいように思いますの」


 それはたしかに梓の言うとおりな気がした。


「私のこと、嫌いになったりしていない?」


「なぜそんなことを聞きますの、お姉さま。私からお姉さまを嫌うことなんて、天地がひっくり返ってもありえなくってよ」


 梓はふわっと微笑んだ。その顔を見ると、壱加は安心して涙ぐんでしまった。


「泣かないでお姉さま。でも縁談はどうなさるの?」


「了承されたら、おおっぴらにお付き合いするのよ。私が不良とわかれば、向こうから破談にしてくださるわ」


「……そうね、そう思いますわ」



 梓の胸中は複雑だった。梓は本気で壱加を好いていたからだ。けれど、好いているからこそ、愛する人には幸せになってほしい。できるだけ安定した幸せを、掴んでほしいと思うのだ。だから本当は縁談がとんとん拍子に進んで早く結婚してくれたなら、想いが報われるのにとさえ思っていた。そんな気持ちを秘め、告白を勧めたのは、その方が壱加にとっては幸せなのだろうと梓なりに考えたからだ。


 壱加はそんな梓の気持ちを知らず、これからどのように気持ちを打ち明けるべきか、ドキドキと考えているのだった。


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