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薔薇と金木犀  作者: 長尾
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傷痕

 朔之助は本棚の掃除をしながらこの頃来る華族のお嬢様について考えていた。征一が女と話しているのは面白くないが彼女は純粋に本が好きなようであるし、黙って聞いているぶんには作家同士の話をしたがっているようだった。


 彼女は文筆を生業にしたいと願っているらしかった。女流作家は珍しいが、文壇に咲く才ある華、憧れるのも無理はない。だが、朔之助が言うのもなんだが征一に教えを乞うのはなんだか違うような気がしなくもない。もちろん征一にも好んでくれる読者はいるが、万人受けはしていない。作風が作風だから仕方ないのかもしれないが……。


「お朔、また少し上に籠もるよ」


 征一は締め切り前に決まって部屋に三日ほど籠もる。仲間うちで発行している雑誌に載せる原稿の稿料だけが彼の主な稼ぎだ。邪魔はしない。


「征一、無理はするなよ」


「はいよ、ありがとう」


 征一のふんわり笑った顔に朔之助は弱い。自分たちがなぜ惹かれ合ったのかを考え始めると、それもまた征一のふとした仕草に朔之助がやられてきただけのような気がしなくもない。



 征一を拾ったとき、母を流行り病で亡くしたばかりだった。父は物心ついた頃からいなかった。どこにいるのかは知らない。聞いたことすらなかった。


 自分にも伝染るかもしれない不安はあったが、せっかく出会って死なれるのは嫌だった。ただ、寂しかったのかもしれない。幸い征一は、流行り病ではなく、ただ風邪を拗らせていただけだったのでしっかりと看病したら治った。心の底から安堵したのを覚えている。


 すっかり治った征一はいろいろなことを話してくれた。家を飛び出して放浪しながら作家活動をしていること。その中で見てきた様々のこと。自分の生い立ちのこと。男色家であること。


「僕はね、自分の敵になり得ない人しか安心して愛せないんだ」


と言った。征一は、母に手酷い虐待を受けていたと言った。腹に包丁で切りつけられた痕があるのを見せてくれた。ああ、この人は、女性に酷く裏切られたのだ。


「女の人も抱いてみたさ。だけどね、冷や汗が止まらないのさ。怖いんだ、情けないけどね」


 征一は話しながらくしゃりと笑っていた。


「笑ってごまかすなよ。辛かったんだろう」


「いや、今となっちゃ別になんともないさ」


 朔之助は自分のことではないのに涙がつうと頬を伝うのを感じた。


「なぜ君が泣くのさ……」


 また困ったように笑う征一の顔を見ていられなかった。


 自分は男色家ではないし、女が大好きなわけでもない。征一くらいの線の細い男なら、どっちとも変わらない。思わず抱き寄せたその肩は少しだけ震えていた。


「温かい……」


と呟く声を聞いてさらに抱く腕に力が入った。


 その後も、原稿に向かう姿や、アイデアが尽きて床に伸びている姿、書物に目を落とす横顔、突如始まる文学論、どんな料理も食べるところ、いつでも笑っているところに惹かれ続けていった。いつでも笑っているのは、ときに欠点でもあるが、とかくに征一の笑顔に朔之助は弱いのだった。



 征一の方はというと、


「笑ってごまかすなよ」 


と言ってくれた朔之助の顔が切なくて、心がきゅっと掴まれたような心地がした。他人のために泣ける優しさはときに欠点でもあるが、征一にはありがたい温かさであり、体中の傷跡が泣き出したのを感じた。朔之助の頸に縋りつきたい気持ちが抑えられるかわからなかった。


 ちょうどそのときに抱き寄せられたので、嬉しかった。少し泣いていたのは、朔之助には伝わっていないと思う。震える声で、「温かい……」と言ったのだった。


 命の恩人であり、最大の理解者であり、自分を心から愛してくれている。これ以上のことがあるだろうか。


 いまもこうして原稿を書くために籠もりきりになるのを許し、そっとしておいてくれる。ありがたいというのを通り越して、なくてはならない存在だった。



 ペンを持ち上げたとき、ふと征一の中で壱加の声が響いた。


「浦部先生は、どんな信念を持って執筆をなさいますか」 


 そのときは瞬時に答えられなかった。自分の信念とはなんだろうか。ひとりでいたときは日銭を稼ぐのに精一杯で、けれどそれは芸術のひとつと勘違いしていた。現に『パラノイア』はそこそこ売れたわけで、それは芸術性の高さを認めてもらえたのだと信じた。


 だが、今となってはそうとも一概には言い切れない。万人受けするような内容だったから、そこに芸術は関係なく、ただ面白いだけのものを、ただの商品を書けたから売れただけなのではないかと。


 いまの方がよっぽど文芸について考えている。文章にしか為しえない芸術のなんたるかを。けれどもあまり売れないのは、人々が求めるものと、征一が突き詰めたい幻想文学の芸術性の方向性が少し食い違っているからだと思う。


 けれども信念と言われると難しい。何を信念に、筆を執るのか。壱加にとってはなにげない質問だったのかもしれないが、こういった思考の渦に足をとられると抜け出すのに時間がかかる。いま物書きをしている人間の何人が、信念はと聞かれて瞬時に答えられようか。


 それとも壱加にはまだ発表に至らぬうちからなにか信念があって創作しているのか。


 聞かれたときは、とりあえず


「自分が面白いと思うものを書く、としか言えないなぁ……」


などとごまかしたが、それができているのか、だんだんわからなくなってきた。


 原稿用紙はまだ白紙のままだ。脱稿までには少々時間がかかりそうだ。


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