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薔薇と金木犀  作者: 長尾
3/11

折れた簪

 前田壱加はずぶ濡れのまま学校の側の教会にいた。一度は家の方角へ向かったが、いまさら帰るのは体裁が悪い。雨風が凌げて明日になればなんでも良いのだ。


「あら……? 」


 懐にしまっていたものがなくなっていることに今更気がついた。大切な簪と、愛読書。もっとも、簪の方は折れてしまっていたのだけれど。


 あの殿方とぶつかったときだろうか。それ以外に心当たりがない。綺麗な顔の殿方だった。女学校生活の中では殿方は先生方以外に接する機会がない。少しばかり恋の予感を期待してしまう程度には免疫がない。だから私たちは女同士で恋愛ごっこをするのだ……。



 学内での思慕の関係をシスターの頭文字をとって、エスと呼んでいる。壱加にも相手がいる。二年下の青木梓さん。彼女は壱加のように華族出身ではない。上流階級の平民だが、エスに身分の差は関係ない。外の世界よりも、もっとずっと、いっとう純粋な気持ちで結ばれている関係なのだ。


 もちろん、卒業してしまえば、それより先に結婚してしまえば、関係は消滅することはわかっているし、どこまでいってもごっこ遊びに変わりないことは重々承知している。それでも、真剣にやっている。それを馬鹿にされたならば、誰だって怒るというものだろう。


 思い返せばまた怒りが湧いてきた。



 きっかけは縁談の話題だった。壱加は十六歳、自分ではまだ結婚は早いと思っている。それに、二人のお兄さまがもうお嫁さんをもらって、他家との関係は良好にいっている。いまさら壱加がこんなに早く結婚せずともいいはずなのだ。


「せめて卒業させてほしいのだけれど……」


 お父様のご意見は絶対だから、お母様にしか言えなかったけれど、勇気をだして言ったのだ。それなのに、


「壱加、お父様は女に学は不要とのお考えよ。それとも何か、なりたいものでもあるのかしら」


「……と、特にはないけど」


「それならば、悪いお友達になにか吹き込まれたのかしら」


 お母様はスッと私の髪の毛から簪を抜いてそのまま踏み折った。


「なにを――――」


 壱加は言葉を失った。それ以降のことはあまり覚えていない。家を飛び出して、そして、あの殿方にぶつかった。


 あの簪は、梓さんとお揃いで買ったものなのだ。それを知っていて、お母様は簪を折った。知っていて、お母様は心を破くようなことをした。安物であったと梓さんは言ったけれど、それでも、私の中では唯一無二なのだ。


 それに、だれにも言ってはいないが、壱加は作家になりたかった。男にできるものが女にできないわけがない。ましてやペン一本と紙があればよいのであれば、自分にだってできていいはずだ。拙い短歌や俳句を詠んではひとり満足している。


 憧れている作家は浦部征一。彼の繊細な描写が自分にも真似出来たなら、と毎日のように読み耽って、既に表紙が汚れてきたので、百貨店の包装紙をかけてよんでいる。



 ああ。寒い。もうすっかり暗いから、いつもはステンドグラスの色彩で華やかな教会内もひっそりと闇が沈んでいる。その中でなんとなく正面のキリスト像が光を帯びているような気がする。


 誰か迎えに来たら、私は帰るだろうか。あの家に。とりあえず着替えはしたい。女中のアヤは今頃顔を青くして私を探しているのだろう。可哀想に。見つけてくれたなら、帰ってもいい。


 しかし簪はあの殿方が拾ってしまったのだろうか、それならばありがたいのだが。本に掛けた包装紙には名前が書いてある。もしかすれば一緒に返してくれるかもしれない。そうでなくても、綺麗な顔の殿方だった。顔を見れば思い出す。あんな出会い方をしたのだ、そうそう忘れてくれるわけがない。


 口からはため息が溢れるばかりで、頭の中は変わらずモヤモヤとしている。涙さえ滲んでくる。


「……西洋の神様ならば、平等に救いをくださると…」


言いかけて急におかしくなった。私はそういうことには冷めていて、神に祈ってもなにも変わらないことを知っていたはずなのだ。なにを神頼みしているのか。


 それに、救いってなんだ。結婚から逃げる口実か。そんなものを神が与えてくれるのだとしたら、結婚相手が事故や病で死ぬだとか、そういうことか。そうだとしても悪くないと思えるくらい今の壱加は悪いことを考えてしまう。


 いまさら正直なところ恋などはわからない。梓さんへ向けている気持ちが恋なのなら彼女ひとりで十分なのだ。ただ、お父様に背いたらどうなるかわからないから、家を飛び出したきり、帰る勇気もなく、こんなところにいる。


 いよいよ本当に寒くなってきた。寒気とくしゃみが止まらない。


 そのとき、扉が開く音がした。まさか、無信仰の壱加がこんなところにいるとは、長い付き合いの女中でも思わないと思っていたのだけれど、存外早かったな、と諦めを携えて立ち上がった。


「お嬢様、御無事で……」


 紛れもなくそれは女中のアヤであった。


「アヤ、ごめんなさい。酷く叱られたでしょう」


「いいえ、まさかこんなところにいるとは、思いもしませんで……お迎えが遅くなり申し訳ありません」


「いいのよ。……帰りましょう」


 抱き締められたアヤの腕の中は震えていた。


「本当によかった……私はとても心配で……こんなに冷え切って、寒かったでしょうに」


 壱加の身体もまた震えていた。アヤが母親であればどんなによかったか。


 滲んで溢れた涙を飲み込んで、二人は教会を後にした。


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