微睡
マドロミは幼い少年だ。彼はメノウの写った写真を眺めつつ、荒廃した街を宛もなく練り歩いている。その道中、彼は何やら不穏な怒号を聞き取った。
「何故お前は父さんの言うことを聞けない! 何故他の子のように出来ないんだ!」
野太い叫び声に続き、幼子の声も聞こえてくる。
「ごめんなさい! ごめんなさい!」
両者の声は路上まで響き渡り、マドロミに生々しい恐怖を与えた。
「…………」
彼はおそるおそる建物の裏を覗き込んだ。子供が地面にうずくまり、そこに成人男性が何度も蹴りを入れている。この光景を前にして、マドロミは息を荒げながら震えた。同時に、眼前の子供と男性は気を失い、周囲の野鳥や野良猫も眠りに落ちる。
「はぁ……はぁ……」
マドロミは右手で頭を押さえ、千鳥足でその場を去る。左手に持っているメノウの写真を見つめつつ、彼は自分がここに来る前のことを思い出す。
彼がこの街を訪れたのは、ミカドの命令を受けてのことである。
「マドロミ……妾はお主の力を気に入っておる。さあ、メノウを仕留めよ」
それがアストラムの首領である彼女の出した指示だ。この判断に異議を唱えるのは、赤い眼鏡をかけた女性だ。
「子供一人では……危ない。せめて……ワタシに……同行させて欲しい」
彼女はそう言ったが、ミカドは聞く耳を持とうとはしない。
「気に入らん。我々の仕事は子供の面倒を見ることではなかろう。ツヅリよ……アストラムの目的を見誤らぬ方が良い」
「し……しかし……マドロミは……喋ることも……出来ない子で……」
「だが、アストラムの一員に相応しい力を持っておる。さあ行け、マドロミ。これは命令だ」
かくして、マドロミは一人で任務に向かうこととなったのである。
そんなことを思い返し、マドロミは空高く飛翔した。彼は小さな街を上空から見渡し、標的の姿を探す。地上には、路上で物乞いをする者もいれば、違法薬物の売買をする者たちもいる。酒に溺れる者もいれば、娼婦に暴力を振るう男もいる。酒とドラッグと性と暴力がものを言う街で、マドロミは標的の登場を待ち続ける。
そして約十分後――――コハクとメノウはこの街に到着した。
この場所にアストラムの刺客が待ち受けていることなど、二人は知る由もない。彼女たちは警戒心を抱かず、雑談に花を咲かせていた。
「うーん……」
「どうしたの? コハク」
「いや、昨日オレらの前に現れたキメラについて、色々と引っかかることがあってな」
「引っかかること……?」
メノウは首を傾げた。コハクは小さなため息をつき、己が抱いている疑問について説明し始める。
「ハザマだっけか? アイツの容姿、確か二十代前半くらいだっただろ? キメラ計画が実行されていた時代を考えると、明らかに辻褄が合わねぇんだ」
「それは……どういうことなの?」
「陰と陽の魔力の性質が解明されたのは約五十年前。つまり、五十歳未満のキメラが現存することは普通じゃあり得ないんだよ」
彼女の話が正しければ、ハザマはキメラの中でも極めて異質な存在ということになる。それはすなわち、二人が型破りな男と敵対していることを意味している。
メノウは不安を覚えるばかりだ。
「ボクたち、本当の本当に大丈夫? そんな不審な男に目をつけられて……」
「上等じゃねぇか。キメラだろうと守護神だろうと破壊神だろうと、オレたちの力でぶっ潰してやりゃあ良い」
「本当の本当に大丈夫かなぁ……」
「わかんねぇよ。けど、オレたちはもう引き下がれねぇ」
気弱なメノウとは対照的に、コハクは相変わらず強気であった。
そんな中、マドロミはようやく二人を見つけた。彼はすぐに地上へと降り立ち、目を大きく見開いた。直後、コハクたちは膝から崩れ落ち、そのまま眠った。