器
「聞いているのですか、コハク」
侍女は訊ねた。彼女は背中に茶色い翼を有しており、両手で分厚い本を持っている。その目の前では、虚ろな眼差しの少女が頬杖をついている。コハクと呼ばれている少女の背中には、純白の綺麗な翼が生えている。
「うるせぇなぁ。聞いてる聞いてる」
コハクは気怠そうに答えた。彼女の態度に、侍女は深いため息をつくばかりだ。
ここはとある屋敷の一角だ。二人は大きなテーブルを囲い、金の装飾を施された椅子に腰かけている。
侍女は本のページをめくり、コハクとの話を続ける。
「翼を持たない人類――――通称『ウイングレス』が地球上から姿を消したのは、今から約五百年前です」
「はぁ……」
懸命に歴史を語る侍女とは対照的に、コハクは真剣とは程遠い態度だ。彼女は深い欠伸をし、パーカーの袖で目元を拭った。そんな彼女を目の前にしてもなお、侍女は折れずに話し続ける。
「翼人とウイングレスの戦争は壮絶なもので、守護神と破壊神が戦争の道具として使われていたのはあまりにも有名な話です」
「で、その時に使われた守護神が、今はオレの体に眠っているって話だろ?」
「その通りです」
「だからオレは毎日こんな椅子に座らされて、アンタの授業に付き合わされているってわけだ」
……それが二人の日常だ。コハクは貧乏ゆすりをし、不服そうな顔で侍女の方を見る。当の侍女はすっかり呆れた様子だ。
「良いですか? 愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶと言います。守護神アデルラピスの依り代に選ばれた身として、あなたにはもっと歴史を学ぶ義務があるとは思いませんか?」
「別に? オレは神をしまっておく器じゃねぇからな。オレにはオレの意志があるんだよ。第一、賢者とやらが歴史に学んだところで、それで太古の昔から繰り返されてきた戦争が終わるわけじゃねぇだろ」
コハクは大きな役割を担っている。しかし当の本人には、使命感が足りていない。
侍女は本を閉じ、席を立った。
「コハク。そろそろ『儀式』の時間です」
「……はいよ」
彼女に言われるまま、コハクはゆっくりと立ち上がる。二人はその場を後にし、屋敷の奥にある薄暗い部屋へと向かった。
二人の目の前には椅子のような装置があり、その周囲は管につながれた水槽に囲まれている。各々の水槽の中に浮かび上がっているものは、他の翼人から剥ぎ取られたと思しき白い翼だ。
「さあ、こちらにお座りください」
「……ようやるよ。アストラムの連中は、いつもこうして白い翼を狩ってくるんだもんな」
侍女の指示に従い、コハクは装置に腰を降ろす。彼女は己の手首と足首を輪に通し、静かに瞼を閉じる。
侍女は部屋の扉を閉め、壁にあるレバーを下ろした。部屋は眩い光に包まれ、水槽に浮かぶ翼は光の粒となって管の中へと吸い込まれていく。それに呼応するように、コハクの背に生えた純白の翼は仄かに青白い光を放つ。
コハクは訊ねた。
「なあ、一つ良いか?」
「なんでしょう」
「もしアデルラピスが復活したら、オレの体はどうなっちまうんだ?」
当然の疑問だ。しかし彼女には、その答えを知る権利はない。
「……それにお答えすることは出来ません」
「そうかい」
二人がそんな話をしているうちに、部屋を包む光はゆっくりと収まっていった。水槽の中に残されているものは、翼の骨格を為す骨だけだ。これで侍女の言っていた「儀式」は済んだらしい。
「次は食事の時間です。速やかに動きましょう」
「今日のメシは?」
「コテージパイです。さあ、食堂に向かいますよ」
侍女はコハクを連れ、儀式の部屋を後にした。
長い廊下を歩きつつ、コハクはうつむいていた。彼女はこれまで、侍女に決められたルーティンに従い、守護神の依り代としての人生を歩み続けてきた身だ。
彼女は自由を渇望している。