1日目:イキイキ戦う障がい者②
「ん?ありゃ…オオカミか?クッソ多いな…」
食事を終えて、西に川を下ること半日。
いつしか満天の青空は、薄い黄色い雲が浮かぶ、夕焼けへと変わっていた。
暗くなる前に寝床を探した方が良いだろうか。そんな事を考えている内に、
彼は視線の先に8匹のオオカミの群れが居る事を確認した。
チッ…アイツら魚食ってんな。
すぐさま近くの木々に身を隠した彼は、ゆっくりと頭だけを出して
オオカミの群れを観察する。
…しかもあの時のオオカミと違って、体の肉付きも良い。
こりゃオオカミの狩場に当たったか。
だとしたらこの周辺は奴らの縄張り……迂回するのはどうだ?危険か?
……そうだな…駄目だ。
此処が奴らの縄張りだとして、中途半端に行ったら音や臭いでばれるだけだ。
そうなったら俺の足じゃ逃げきれねぇ……オオカミ共にばれずに迂回すると
なると、かなり遠くを回らなくちゃイケねぇ。
だがもうすぐ暗くなるっていうのにそんな時間はない……。
今の彼に果たしてどれ程の選択肢があり、それを実現できるだろうか。
全てにおいて不安定要素があり、絶対は存在しなかった。
だからこそ彼は自分の好きな方を選ぶ。
近くにあった枝を川辺に放り出すと、彼はゆっくりとオオカミの前に現れた。
右手はやはり掴みやすい拳大の石ころが握られていた。
「…だとしたらよ……正面ブッパしかねぇよなぁ⁉ああ⁉オメエ等!!」
そして彼の叫び声に一匹の巨大なオオカミがその存在に気付く。
するとすぐさま雄叫びを上げ、新たな獲物が現れたことを仲間に知らせた。
「ウオォォオオン!!」
「うるせぇよ獣風情が。さっさと全員掛かってこいよ」
距離のせいで彼の挑発はオオカミ達には聞こえなかった。
しかし、オオカミ達もすぐさまそれに答える様に雄叫びを上げながら
彼に向かって走り出した。
「ボスはあのデカいのか…子供は三匹、その守りに一匹。しかも孕んでいやがる。
つまり攻めはたったの4匹…最高だなぁ⁉お前らがバカで本当に良かった!!」
自然と彼に笑みがこぼれた。それが彼自身の内側からなるものなのか、
はたまた別の何かは分からない。
しかし、彼は間違いなくこの状況を楽しんでいる。
「外せねぇ…」
一瞬、彼の周りだけ空気が重くなった。
彼は両腕と左足を伸ばすと、風を切るように天高く掲げた。
額に浮かぶ汗の量も増えていく。
武者震いだろうか、握る右手と共に前に踏み込んだ脚は微かに震えていた。
「…ふんっ!!」
しかし、彼の右手から放たれた拳大の石ころは、一寸狂わず目標に向かって
垂直に飛んでいく。
「キャン⁉」
そして走る四匹の内、一番左側に居たオオカミの頭が爆ぜた。
血が噴き出し、頭蓋が割れて衝撃が脳を襲う。
頭を打ち砕かれたオオカミはすぐさま地面に倒れる。
そしてそのオオカミの死骸を見て、他の三匹の動きが止まった。
一瞬にして仲間が殺された。それはオオカミ達に怒りを抱かせると同時に、
目の前のゴブリンがただの獲物では無く、早急に抹殺すべき明確な敵へと
変わった瞬間だった。
先程の攻撃を警戒し、自身を睨みつけて来るオオカミをよそに、
彼はニタニタと下卑た笑みを浮かべながら、次の石を投げるためにポーズを取る。
「石ころを投げられたのは初めてか?だったらもっと投げてやんべーよ!!」
もう一度彼の右手から石が飛ぶ。狙いはボスオオカミだった。
しかし警戒していたオオカミたちに簡単に避けられてしまった。
そしてオオカミ達は敵の攻撃がよくよく注意していれば取るに足らないもの
であると分かると、すぐさま走り出した。
「チッ…いいもーん。俺には無数の石ころがあるもーーーん!!」
また石が飛んだ。
しかしやはりオオカミの身体能力では簡単に避けられてしまう。
気づけばオオカミと彼の距離は5mを切っていた。
「ならこれでっ…どうだ!!」
またも石が飛ぶ。しかし今度は先程より小さく、大量の小さな石ころだ。
それがオオカミの頭蓋を割るほどの腕力で、それも至近距離でオオカミ達の
顔面に向かっていく。
「ギャン!」
一匹のオオカミの両目に直撃した。
しかし残りの二匹は少し怯んだ程度で、彼に向かって走るのを止めず、
ついにその首元を狙って大きな口を開いた。
「クッ…ぶっ殺してやらぁ!!」
自身の首元を狙う無数の牙が迫り来る中、彼はいつの間にか両手で握っていた
木の枝を、横一列に並んで飛び掛かるオオカミの頭に向けて、思いっきり
フルスイングで吹き飛ばした。
「ギャン!!」
「グッ⁉」
同時に彼もその反動で地面に転げ落ちる。
しかし彼は吹き飛ばされた力を利用して、すぐさま身体を起こした。
そして折れて使い物にならなくなった枝を投げ捨て、近くにあった二つの石を
両手に握る。さすれば二匹のオオカミも直ぐに体制を整えた。
そしてオオカミ達はあの時と同じ、敵の隙を探すためにゆっくりと彼の
周りをまわり始めた。
ふぅー……落ち着け。
目と耳を使って奴らの動きを予測しろ……。
彼は呼吸を整えながら、腰を下ろして両手に握った石を左右に左右につき出し
威嚇をする。
二匹のオオカミが視界に入るよう、彼はオオカミの動きに合わせて体の向きを
少しずつ変えていく。
中々隙を見せない、そんな彼にボスオオカミは恨み節とも取れるような
低く重い唸り声を上げる。
まだだ…ハシビロコウ理論だ……待って待って待ちまくれ。
敵がしびれを切らして攻めてくるまで…!
そして両者の攻防は突然、終わりを迎えた。
オオカミ側が、それもボスオオカミがしびれを切らして彼に向かって走り出し、
その喉元に飛びついたのだ。
そしてそれに呼応するようにもう一匹のオオカミも彼に狙いを定める。
その瞬間、彼は一気に脚を曲げると、脚のバネを利用して宙を飛んだ。
飛び上がったボスオオカミの更に上、その頭上を飛んだ彼は自身の
体重と共に両手で握った二つの石をボスオオカミの頭に叩き込んだ。
「ギャン!!」
「死ねぇえええ!!」
両手首に走る痛みを無視し、彼は続けさまに怯むボスオオカミの柔らかい
鼻と口元を二つの石で交互に叩きつけていく。
流石のボスオオカミのこの加藤純一の攻撃は避けられず、顔面から血を吹き出し、
脳震盪で倒れ込んだ。
勝ったか。そんな考えが脳裏に浮かび、一瞬だけ彼の緊張が解かれる。
しかし、その隙をついて、影を潜めていたもう一匹のオオカミが、
彼の右太ももに噛みついた。
「がっ⁉……テメェ!この糞オオカミ共がぁ!!」
肉が裂ける余りの痛さに彼は我を忘れて、右手に握っていた石を太ももに
噛みつくオオカミの頭に叩きつけた。
「ぐぐ……ふざけんなよ…テメェ…」
しかし一回では離れない。
だから何度も何度も、叩きつける。
「死ね!死ねよ!いい加減に死ね!!」
何十回叩きつけただろうか。
ついにオオカミは力尽き、彼は今だ自身の太ももを噛みつく死骸を振りほどく。
「馬鹿どもが…惨めに死ね!…っ⁉⁉」
一匹のオオカミを殺し、睨みつけ、視線を先程戦っていたボスオオカミの方へと
無理返った瞬間。
彼の視界には、自分を飲み込まんとする巨大な渦があった。
「わぁ!」
今のは完璧に運だった。咄嗟に避けれた彼はそう判断する。
そしてあの自分の脚に噛みついたオオカミが、倒れ込んだボスオオカミに
この一撃を食らわせるためだけに、自分の命を賭したのだと彼は理解した。
「くっ…⁉⁉」
しかしボスオオカミの攻撃なこれで終わりでは無かった。
最後の力を振り絞り、同胞を惨殺した目の前の、今だ地面に尻をつかせた
ゴブリンに一矢報いようと飛び上がったのだ。
まずい!!
立ち上がる暇もない!!この距離じゃあ避けら……。
世界が一瞬だけ止まっているように見えた。
初めての感覚。しかしそれに驚くよりも前に、彼は直ぐに決意する。
「男ならぁ!!リスクを取ってぇ!!なんぼだろうがぁ!!」
そしてボスオオカミの頭蓋骨が粉砕した。
彼の握っていた二つの石によって、まるで真剣白羽鳥のようにオオカミの頭が
両際から挟まれるようにして潰されたのだ。
本当に一瞬であった。
頭蓋骨が粉砕した事でオオカミの頭はその形を維持できなくなり、
彼の腕力をもって目玉は飛び出て、血は穴と言う穴から吹き出し、
脳漿は頭蓋骨を割った傷口から津波のように流れ出た。
そしてぐったりと力を失ったボスオオカミの死骸を持ち上げていられる
ほど彼に体力は残っておらず、重力に負けて自然とオオカミの頭に食い込む
二つの石を手放した。
すると彼の体もスッと力が抜ける。
そしてそのまま自身の上半身を地面に叩きつけた。
「勝った……勝った…そうだ勝ったんだ!ははっ!!俺は勝ったぞ!!」
動かない両腕を無理やり夕焼けに伸ばす。
微かに残る太陽の光が彼の手のひらを熱くしていく。
「……生きてる……あぁ怖かった……でも俺生きてるよ母ちゃん…」
もう泣かないと決めたのに、目元が熱く熱く充血していくのが分かる。
背中に食い込む砂利の痛みも、口に広がる塩の味も、うるんだ視界も、
全てが自分が生きている証拠であり、なぜかとても心地よく感じられた。
一秒後には喉元を噛まれている――そんな距離まで詰めて来ていた……。
けっきょく寝床を作る時間もなかった彼は、小柄な自分が眠るには丁度良い
木の枝に転がると、オオカミの死闘――それを思い出しながら夜空を見上げる。
あの時、自分の命を賭して隙をつくったあのオオカミのことだ。
彼がそのオオカミの死骸を見て最初に感じたのは、オオカミの忠誠心と
自己犠牲の素晴らしさではなかった。
ただただ生き残れた喜びと、先の見えなかった戦いに微かな希望が見えた事に
対する喜びであった。
なんなら彼は自分を危険に晒したあの死骸に、悍ましい程の恨みすら覚えていた。
ましてや同情などという感情は一ミリも湧かなかった。
「たがが一日で……変わっちまったな俺も」
彼は体を横にずらし、今だ地面に横たわるオオカミたちの死骸を眺める。
眼を潰されたオオカミや、孕んでいた雌オオカミは子供ごと姿を消していた。
恐らく彼が戦っている最中に自分たちが振りである事を悟り、逃げ出したのだろう。
生き残った雌オオカミは相手がゴブリンであろうと群れが崩壊するのを学んだ。
彼女の中に油断と言う文字は消え、それを息子たちに教えるだろう。
そうすればいずれ強くなった息子たちが親の仇を取るために自分を殺しに
来るかもしれない。
そんな下らない、有り得ない考えが彼の中に浮かび上がった。
「だが俺は運に勝った……今日を生き、明日を生きる……力と知恵を蓄えてな」
そしてまた夜空を見上げた。
満天の星々に彼は懐かしみを覚えた。
夜中には外灯も光らない田舎の故郷の夜空に似ていたからだ。
しかし似ているだけで、あの綺麗な天の川銀河と比べればどこか見劣りする。
この世界はやはり自分の住んでいた世界と違うのだろう。
ゴブリンとかなんだとかよりも、身近な存在に違和感を覚えたのがなにより
そう感じさせた。
「根を下ろし、基盤を作り、世界を知る……そして国に帰る方法を探そう…」
なんの力も後ろ盾もない自分にそれが出来るかは分からなかった。
不可能かもしれない、不安しかない、でも家族に、みんなが恋しかった。
だから本当に直ぐ消えてしまうかもしれない、そんな淡い希望を抱いて
彼は目を閉じた。
「…おやすみ」
小さく息を吸って、そう自分に言い聞かせた。
オオカミに噛まれた傷痕が癒えている事も気づかずに――。