5日目:襲来
デカイ。
強い。
怖い。
自分の何倍も鋭い牙と、太く武骨な角や肉体を有した、目の前の大木に
寄りかかる鬼を見て、彼はそう率直に思った。
これまで生きてきて初めて生まれた畏怖という感情。
彼は鬼に対し圧倒的上位の生物に対するの恐怖と尊敬のまなざしを向けると
同時に、口を半開きにしたまま体を硬直させてしまう。
それはまさにあの、どこか聞きなれた、されど理解できない怒号が
頭の中に入らない程に。
すると鬼もそんな彼の存在に気付いたのだろう。
両肩を上下に荒く揺らしながらも弱弱しく息を吸い、その肺の振動と共に
全身の傷口から血を吹き出す鬼は、ゆっくりとこちらの方を向いて彼に
話しかけた。
「そこの小鬼よ…我を助け賜え」
「ッ⁉⁉……喋った……」
それは懇願であった。
弱小の、取るに足らない、簡単に殺せる小鬼に対し、恥も惜しんで心の底から
助けを乞う程に目の前の鬼は弱っていたのだ。
そして目の前の小鬼もそんな鬼の姿を見て、謎の怒号が段々と近づいて来る
事に気が付かない程に、この、初めて言葉を通わすことの出来た鬼を
どうにかして助けてやれないかと思った。
「なにが…襲われたのか?……仲間は……あんた一人か?」
傷だらけの弱った鬼に、一度に聞くべきでないことは彼も理解していた。
しかし仲間になりうる可能性のある――少なくともあのオオカミ共と比べれば
十分に敵対的ではない――鬼を前にして、少しでも情報が欲しかったのだ。
「人間に――」
「人間⁉やっぱり人間もいるのか⁉国は⁉人種は⁉日本人か⁉」
そう鬼が話すのを遮って彼は叫ぶ。
彼が少しでも冷静で有れば、先程から段々と近づいて来る謎の怒号の正体が、
目の前の鬼を襲った者達であることくらい簡単に判断できただろう。
しかし今の彼にはそれが出来ないほど人間の存在に興奮していた。
やはりここは自分が住んでいた世界なのか、例えそうでなくとも文明が
存在しているのであれば元の世界に帰れる術を知っているかもしれない。
そんな希望的観測がグルグルと彼の頭の中を走り回っていたからだ。
「お前が…何を言っているかは分からんが…奴らは――グフッ!!」
そう何かを言い終える前に、鬼は口から大量の血を吐き出した。
彼はその咳と共に垂れ出る血の量を見て、鬼が想像以上に命の危機に
瀕している事に気付く。
「大丈夫…じゃないな。外傷は浅い……内臓損傷か……」
鬼は今しがた目の前の小鬼が喋った内容を半分ほどしか理解できなかったが、
小鬼であれば仕方がないと、それを無視して事の経緯を簡単に話した。
「先程な…貧弱な魔術師にこうも遅れを取るとは……」
「魔術師⁉えっ…え⁉おい待ってよ!この世界って魔法まであんのか⁉」
「……まさか魔術も…知らんのか?小鬼は…」
その鬼の言葉には多少ばかりとはいえ、侮辱の意が込められていた。
ただそれは彼個人に対するものばかりではなく、これまで共に住んでいた
ゴブリンたちへの感情も含めたものであった。
しかしそんなゴブリンが鬼からどう思われているかなど、魔術と言う存在を
知ってしまった彼にとってはささやかな問題であった。
なにせ魔術があるという事は、此処が異世界であることを確定させると同時に、
魔術と言う謎の力をもってすれば、元の世界に帰れるかもしれないという
可能性を秘めていたからだ。
「そうか…魔術があるのか……」
そんな風に感慨めいた様子で彼が上の空を眺めていると、不意に鬼の耳が
ピクピクと揺れた。
そしてそれと同時に茂みの向こうから一人の、まるで言葉で表せないような
輝かしい鎧をまとった男が現れたのだ。
「わあ⁉誰だお前!!」
突然現れた騎士に尻もちをついて驚く彼をよそに、鬼は恨めしそうに呟いた。
「奴らだ……人間だ」