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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

ヒツジに背を押された僕は

作者: 榛名白兎

 時刻は零時を回っており、田舎町の道路に動くものの気配はない。ひんやりとした風に揺れる木の葉、カーテン、それから自身の前髪が時の流れを教えてくれた。

 窓辺に置かれた学習机に向かいながら、僕は学活の授業内容を思い出してぼんやりと窓の外を眺めている。

 学活の授業では、地元にある火山とその噴火の歴史についての話を聞いて、各自調査した。

 視界の奥に聳える黒々とした影をじっと見詰めて、噴煙か雲かもわからない影を目で追いかける。噴火の周期はとうに過ぎているが、あの山は今日も沈黙していた。

 噴火すればいい。

 それは中学生にありがちな破滅願望。中二病の戯言。親の前では決して語ることの無い、僕のちいさな望みだった。


 部屋に視線を戻す。

 卓上電気スタンドひとつに照らされた部屋は薄暗く、天井には照明器具が設置されていない。

 左にシングルベッド、右に押し入れ、正面に窓と学習机があり、床には身体を折れば寝転がることができるくらいのスペースがある。

 押し入れの横に扉があり、ドアノブについている鍵は物理的には機能しない。

 ここが僕の城だった。いつからか、ここに入ってカチャリと鍵の音を鳴らすと外の音が聞こえなくなった。

 そうでなければとっくのとうにこの家から逃げ出していただろうというくらいには、家庭は荒れていた。

 帰宅してから何も食べずに部屋に籠っていた僕は、うすい腹を撫でて椅子から立つ。鍵に手を伸ばしつまみを回すと、テレビの音が聞こえてきた。

 心臓がどくりと脈打つような錯覚をおぼえて、僕は鍵を回したあとの体勢のまま硬直した。零時を過ぎれば大抵寝ている親が、今日に限って起きているのだろうか……という悪い予想が脳裏にちらつく。

 僕は不安を抱えながら音をたてぬように扉をほんの少しだけ開くと、その隙間から居間の様子を覗き見ようとした。すると白い光が自室に差し込んで、僕の目を貫いた。慣れない強い明かりに狼狽える。

 僕が部屋に籠る前には明かりはついておらず、部屋を出ようと考える頃には外が明るくなっていることがほとんどなので、眩しい居間は新鮮だった。

 だがその眩しさが親が起きていることを表しているように思えて、目が明るさに慣れて居間に人気がないことを確認して尚、僕に扉を大きく開くことを躊躇わせた。

 それからしばらく居間を覗き続けてようやく「親は寝ている」と確信を得た僕は、それでも物音を一切たてぬように気を配りながら部屋から出ると、キッチンの引き出しからコーンフレークと深めの器、大きなスプーンを取り出して持ち帰る。

 部屋に戻る際には、しっかりと居間の照明を落として殺人事件の真相を追うテレビも黙らせておいた。

 部屋に戻り薄暗さに目が慣れると、学習机に夕食を並べて一言。

「いただきます」

 手を合わせると、何の加工もせずに口に運ぶ。口内の水分が奪われるのを感じながら、それでもそのやさしい甘さをじっくりと味わって、器一杯のコーンフレークを完食した。

 時間を置かずに再度部屋を出た僕は軽くシャワーを浴びて歯を磨くと、髪も半乾きのままベッドに倒れ込む。

「おやすみなさい」

 眠くて眠くて仕方がなかった。

 そしてタオルケットにくるまった僕は、こんな時間まで待たないと静かに飯も楽しめないのだから、やっぱりこんな家は灰と溶岩に呑まれてしまえばいいのだと思った。


「ただいま」

 僕は玄関に並ぶ靴を見て親がいないことを確認してから、声を出した。

 今日はいつもより帰宅時間が早かったので先に食事と寝る準備を済ませようと思い、僕はリュックを自室に投げ入れてから足早にキッチンへ向かう。

 そしてコーンフレークにかけるために牛乳とプレーンヨーグルトを冷蔵庫から取り出して、部屋に持ち込んだ。

 そのまま流し込むように夕食を終え、シャワーを浴び、歯を磨き、部屋に飛び込んだ。まだ外灯も点いていない時間帯に髪の毛が濡れているのは、久しぶりだった。

 髪は自然乾燥させることにして、その間に宿題を終わらせようと机に向かう。数学の課題に苦戦しているうちに黄昏時を過ぎ、全ての課題を終わらせた頃には夜の帳が下りていた。

 そして、夜になると親が帰ってくる。玄関から物音が聞こえると、僕はそっと鍵を鳴らす。

 もう寝よう。

 そう考えてベッドに横になるが、目が冴えていてなかなか寝付けない。瞼を閉じて深く長く呼吸をして、それでも眠気は訪れなかった。

 そんなとき、部屋に白い光が差した。それは瞼に突き刺さり、僕を叩き起こす。

 飛び起きた僕の左手首を、母の細い手指が掴んでいた。力は、強かった。

「                 !!」

 何を言われたかわからなくて、瞬きを繰り返した。

「忙しいおかあさんの手を煩わせないで!!」

 そうしていると、母は腕を振り上げる。

 そこまでしか僕の記憶には残っていなくて、気がつくと薄ら寒い外に立ち尽くしていた。左頬が熱くて、それ以外は氷のように冷たく感じられた。

 悪いことをしてしまったのだろう。そう思い至るまでにそう時間は要さなかったが、何をしたかはわからなかった。

 ただなんとなく、今日は家に入れないと察していた。こういうことは、たまにあった。

 だから僕はいつものように家の敷地外に出ると歩道をふらふらと歩き、近所の、通学路の途中にある立入禁止の公園跡を目指した。

 錆び付いたジャングルジムと支柱に鎖を固定されたブランコ、シーソーは板と支点が分解されている。鉄棒の周囲には資材が積まれているが、それらは既に腐れていた。

 そんな誰にも忘れ去られたような公園跡に辿り着いた僕は、傾いたジャングルジムのうえでしゃがみこんでいる大きな人影を見つけ、面食らう。

 大人だと思った。しゃがんでいても体が大きくてごつごつと骨張っていることがわかり、靴も僕の顔くらい大きいのではないかと思った。

 元々僕のほうを向いてしゃがんでいた人影はそのまま右腕だけを動かしてこちらに懐中電灯の光を向ける。

 突然照らされた僕は思わず顔を両腕で覆った。

 しばらくすると懐中電灯の光は大きく揺れて僕の顔から足元へと移動する。ジャングルジムに……その頂上にいた人物に目を向けようとして腕を除けると、目の前、50センチ離れた程度の距離にシンプルなTシャツを着た平たい胸板が見えた。

 人と顔を合わせる際に先ず気になる顔を見ようと視線を動かすと、その人物がヒツジの被り物をしていることがわかった。

 不審者に出会ってしまったと思い言葉を失っていると、ヒツジは懐中電灯を再び僕の顔に向ける。一歩後退れば、ヒツジは一歩こちらに踏み出した。

「あの、やめてください」

 僕は言葉が通じるかも不確かなヒツジを制止する。どうやら意味は伝わっているようで、ヒツジは懐中電灯を下に向けた。

 そこでようやくヒツジをじっくりと観察する時間ができて、僕は半袖半ズボンのヒツジ男の首元を注視した。

 ヒツジの被り物はどうやって装着しているのかわからないくらい頭を通す穴が小さくて、一瞬ぞわりと背筋が冷たくなった。モコモコの毛の中にチャックが隠れているかもしれないとも考えたが、どちらにせよ夏の夜に被り物をして懐中電灯片手にジャングルジムで遊ぶ青年は不審者だ。

 それでも一定の距離を保とうとするヒツジ男から逃れて家に帰ることは僕には出来そうにないので、なるべく刺激せずに関わろうと思った。

「……何を、していたんですか」

 そう問いかけると、彼は首を傾げるような仕草を見せる。それが不気味で、僕は頬を引き攣らせる。

「遊んでいたんですか」

 へらりと笑みを作りながら、僕は彼との対話を試みた。

「他に人はいますか」

「僕は眠れなくて、散歩の途中だったんですけど」

「ここ立入禁止なんで、驚きました」

 YesかNoで答えられる質問にさえ反応がなかったので、途中からは僕がただ話しているだけになっていた。

 僕が歩けばヒツジもついてくる。だから僕は話しながら公園の敷地を歩き回って、最終的にシーソーの板の上に腰を下ろした。

 彼はそれに倣うように隣に座り、懐中電灯を二人の間に無造作に落とした。

「帰らないんですか」

 腕時計の針は、思ったよりも遅い時間を指していた。いつもなら部屋でぼうっとしたり、勉強をしたり、読書をして親が寝るのを待っている時間。いくら歳上に見えるとはいえ、ヒツジは帰るべきなのではないかと思った。

 しかし相変わらず質問への返答はなく、ただ隣にいるだけ。言葉も発さずただただついてまわるだけのヒツジは、何かの鳥の雛を思い出させる。

「何か用があるの?」

 そう言った僕の声は、先程までよりも響きがやわらかいように感じられた。

 すると、それが引き金になったかのようにヒツジが動いた。彼の左手が僕の右肩を掴み、右手が左の耳を覆うように頭に触れる。

 そのままやや強引に右を向かされた僕は、母に張られた頬を見せつけるような体勢になっていた。

 なるほどこれが気になったのか、と妙に納得していると、ヒツジは肩を小刻みに震わせ始める。

「いやこれは帰ったら湿布貼るし」

 眉尻を下げて笑うと、彼は僕を掴んだまま立ち上がった。そしてシーソーの板の上に乗ると、僕の首に両手をもってくる。

 いよいよ危機感を覚えて逃れようとするが、ヒツジのほうが素早く、力も強かった。ヒツジの腕を引っ掻き足をばたつかせると、懐中電灯がどこかに飛んでいった。

 そのうち、筋肉も無さそうな骨張った体つきをしているのに、彼は軽々と僕を宙吊りにする。

 何故、警戒を解いたのか。後悔しているときに、ふと、ヒツジの被り物……の、口の部分に視線が吸い寄せられた。

 人と目が合って、僕は意識を手放す。


 目覚めたのは、自室のベッドの上。左頬には湿布が貼られていて、宿題は全て終わっていて、時刻は零時を回った頃だった。

 慌てて鏡を見るが、首に手指の跡なんて残っていない。湿布を剥がすと、平手打ちの跡も消えていた。

 夢だとしたら、どこからどこまでだろう。


「ただいま」

 今日は遅くなったが、親はまだ帰っていないようだった。それでも僕はご飯を食べる気力がわかなくて、さっさと自室に籠ることにした。

 親の帰宅を確認することも億劫で、部屋に入ると共に鍵を鳴らした。静かになった。

 すぐに部屋着に着替えてベッドに身を投げ出し、目を瞑る。そうすると、登下校の際に公園跡の横を通るとき、意識して早足になったことを思い出した。


 目を開くと、僕はシーソーの上に座り込んでいた。息苦しい。背中を丸めて咳き込み、僕は視線を上にあげる。

 すると、そこにはヒツジ男が立っていた。彼の両手は真っ直ぐ前に突き出されていて、その手の形から先程まで僕の首を絞めていたのだと察する。

 口の端から垂れていた唾液を拭う。僕はがらがらの声でヒツジに話しかけた。

「何、お前」

 声を出しながらも、頭の中ではどちらが夢で現実で僕は今本当は何をしているのかをずぅっと考えていた。

 そのうちに、僕は何故かまたヒツジに対する不信感や恐怖、警戒心がすっかり消えてしまっていることに気付く。そう気付いてもハリボテのような恐怖しか浮かんでこないせいで、異様な程に頭が冷静になる。

 外に出るまでの記憶が無い。湿布を貼った記憶が無い。起きたとき湿布は貼られていた。頬には腫れも跡も残っていなかった。左頬は、今は痛む。首にはヒツジの指の感触も体温も生々しくまとわりつくように残る。

「……何が起きて」

 僕がうわごとのように呟くと、ヒツジは頭をぐらぐらと揺らしながらしゃがみこむ。僕の顔を覗き込む。そして、僕に手を伸ばす。

 数瞬その指先を眺めてからハッとして彼を突き飛ばそうとするが、腕のリーチの差に考え及んで手を引くと、そのまま逃げ出そうとする。

 シーソーから飛び下りて走り出すが、何かに足をとられて転ぶ。立ち上がりながら視線を後ろに向けると、足元に転がっている懐中電灯と今にも足首を掴もうとしているヒツジの手が見えた。

 急いで足を引っこめようとするが、それより先に足首を掴まれる。うつ伏せに押さえつけられながらも抵抗するが、込められた力が増していく。暴れているうちに靴が半分脱げてしまった。

「はな、せよ」

 ヒツジは何も言わない。力を緩めない。

 ヒツジは空いた手で懐中電灯を拾い上げる。そして僕の上に馬乗りになると、懐中電灯の硬いプラスチックの角を、頭に……顔を上に向けていた僕の額に向けて振り下ろしてきた。

 僕は反射的に目を瞑って、なかなか予想していた痛みが訪れないことを訝しんで目を開ける。


 そこは自室のベッドの上。卓上電気スタンドはつけっぱなしになっていて、しかし窓からは朝陽が差し込んでいた。

 鏡を見ると、額にはガーゼが貼り付けてあって、左頬には湿布が貼られていた。背中は嫌な汗でぐっしょりと濡れていた。

 恐る恐るリュックの中身を確認すると、宿題が……やった覚えのある、提出した記憶もある宿題がファイルから出てきた。

 視界が狭まるような息苦しさを感じながら鍵を回してドアを開け、いざ部屋を出る前に壁掛けの電波時計に目を向けると、既に過ぎたはずの日付を示している。

 一日過ごした記憶が夢だったのかもしれないとも考えるが、痛みがあったのは覚えている。しかし痛みの有無が夢と現を判別する指標だとすると、ヒツジに会ったことも現実だということになる。

 もう一度鏡に向き直った僕は、ガーゼと湿布を乱暴に剥がしてその下に隠れていた肌を見る。怪我の跡など見当たらず、その一方でガーゼには薄く血痕が残されていた。


「ただいま」

 玄関にはひとつも靴が無かった。だから今日も僕は声を出した。

 運動靴を脱いできっちりと揃えて置いてから、いつも通りの夕食を自室の学習机に用意する。コーンフレークと、あるときは牛乳やヨーグルト。

 今日の登下校は公園跡を避けて遠回りしたため、食欲がまだあった。

 そんなことよりも、授業内容におおよそ聞き覚えがあったことの方が僕にとっては重要だった。本当に同じ日を繰り返しているようで、それがなんとも不気味に思える。

 十分に咀嚼したコーンフレークを嚥下して、スプーンを器に再び突っ込みながら、僕は考えた。

 夢と現実の区別がつかない。

 自分だけの空間にいるのに、どうしても落ち着けなかった。今も夢を見ているのかもしれないと思うと、足元が崩れてしまうような不安定な感覚が襲い来る。

 椅子に座っていて良かった。そうでなければ自分は床に倒れていたような気がした。

「…………疲れてるんだよな」

 器に盛ったぶんのコーンフレークを食べ終えると、僕はドアの鍵を鳴らしてから部屋着に着替えてベッドに寝転がる。それから目覚まし時計を一時間後にセットすると、目を閉じた。

 きっと次に目が覚めたときには公園跡の地面に倒れているのだろうなと思いながら。


 目を開くと、土の匂いが鼻腔を満たしており、視界は半分赤かった。熱をもって痛む額に手をやれば、ぱっくりと割れた皮膚から血が流れているようだった。

 相変わらず頬の痛み、足首を掴まれた感覚も残っている。

 起き上がると目の前でしゃがみこんでいるヒツジの頭が視界に入って僕は無意識に距離を置いた。今回は、彼は距離を詰めてこなかった。

 僕の心には警戒心がじわりと浮かぶだけで恐怖は無く、それなのに背中にはじっとりと汗をかいていた。本来なら今すぐに逃げ出すべきだろうと思いながらも、実行することは無い。

 ……意識を失う度に次の朝を迎えて、夜眠る度に今に戻るのだろうか。この場合、どちらが現実なのだろうか。

 僕はこの問いの答えを知っているのはヒツジだけだと感じていた。

「ここは何だ」

 僕はヒツジの被り物の口元に、その中に広がる闇に視線を縫いつけた。中身と目が合った記憶は鮮明に残っているため、ヒツジの中身はちゃんと人間なのだと判断して対話を試みる。

「どこからどこまでが現実なんだ」

 額の傷の痛みが、血が、思考の邪魔をする。

 それでもヒツジを見詰め続けて、ようやく引き出したヒツジの言葉は。

「逃げなさい」

 鼓膜を揺らしたバリトンは、予想に掠りもしない返答を奏でていた。かっとして僕は言い返そうとするが、それは無謀なだけで。

 ヒツジは立ち上がる勢いのまま僕の顎を下から殴り上げた。視界と意識がぐらついて、それでもどうにか抗った。

 でも、二度目の殴打に身構えることもままならず、意識を失うことになる。


 僕は着替えなど学校へ行くための準備を全て終えた状態で、自室から出ようとしてドアノブに手をかけている状態で目覚めた。

 治療された跡があるだけで、身体に傷はない。朝だ。全て回答が記入された宿題があって、壁の電波時計が示すのは過ぎたはずの日付。


「ただいま」

 当然、家には誰もいない。

 どうせ戻るのなら、と思うとコーンフレークを食べる気にもなれず、ベッドにうつ伏せに倒れ込む。


 目が覚める。冷たい地面に倒れている。ヒツジが見下ろしている。

「逃げなさい」

 立ち上がる。殴打。意識を失う。


 意識が戻ったときには、通学路を歩いていた。湿布やガーゼを乱暴に剥ぎ取りながら、外傷がないことを確かめる。


「ただいま」

 寝る。


「逃げなさい」

 殴られる。


 学校にいた。


「ただいま」


「逃げなさい」

 殴打。殴打に次ぐ殴打。


 放課後。


「ただいま」


「逃げなさい」


 目が覚めると、僕は疲れた表情で自室に突っ立っていた。部屋は薄暗く、日がほとんど落ちきってしまっている時間帯であることが分かる。

 さらに言えば、この時間は数度繰り返した一日の後半も後半、眠りにつくほんの少し前であり……ベッドに視線が釘付けになって動けずにいるうちに、親が帰ってくる音が聞こえた。

 早く寝てしまおうと考えたのと殆ど変わらないタイミングで何か叫ぶような声が聞こえて、部屋に鋭い光が射し込んでくる。

 入ってきたのは母ではなく、ヒツジの被り物を身につけた男で、僕はいよいよ現実を見失った。


「逃げなさい」

 それしか話せないのだろうか、ヒツジは照明器具の白い光を背に負いながら、繰り返した。

「逃げなさい」

 今回はすぐに殴りかかってくることはなく、ただ何度も何度も繰り返し言葉を発するだけだった。

 それが不気味で、立ち竦む。そのうちに、もう一度玄関から誰かが入ってくる音が聞こえた。母は、いるはず。いや、先程の音がヒツジなら、今のが母か?

 そして唐突に夢のような出来事は終わった。目の前の羊が大柄な男に殴り倒されて、その身体がダンボール製だったかのように簡単にひしゃげて、床にくずおれる。僕は侵入してきた男を見て、目を合わせて、口を、舌を空回りさせた。


「おとうさ」


 目が覚めると、ベッドで飛び起きた僕の左手首を、母の細い手指が掴んでいた。力は、強かった。

「                 !!」

 何を言われたかわからなくて、瞬きを繰り返した。

「忙しいおかあさんの手を煩わせないで!!」

 そうしていると、母は腕を振り上げる。そこでようやくこのあとの出来事を思い出した僕は、母の顔を見た。

 殴られた跡が沢山残っている。鼻血を流している。そして、泣いている。そんな母は僕の頬を平手で打つ。そして、そして、父が帰ってくる前に、僕を家から追い出した。

 玄関先にはヒツジの頭が落ちていた。

「……母さん、一緒に逃げよう」

 その言葉が零れ落ちたのは、独り言のつもりだったから。しかしそれは確かに母の耳に届いていたようで、玄関の戸を閉じようとした彼女の手が止まる。

 それは、このときに逃げ出せば良かったなという後悔を写し出した夢だった。


 意識を取り戻したのは、自室のベッドの上。身体中が軋むように痛んでいて、ガーゼや湿布、包帯やらで飾られているらしく、肌の至るところがごわごわして違和感がある。

 電波時計は深夜零時過ぎを示し、日が変わっていた。卓上電気スタンドは電源が入っていて、勉強机に腰掛けた行儀の悪い男を照らしている。

 ヒツジは言った。

「おとうさんはもういないよ。さぁ、逃げなさい」

 部屋の中にはもうひとつ、人のかたちをしたものが落ちていた。

「逃げようって気持ちを抱けたのなら」

 でも、少なくとも僕は生きていた。

「現実逃避おつかれさま」

 向けられた懐中電灯の光の眩しさに目を細める。一日を繰り返すような夢が、現実逃避が、取り返しのつかない結果と入れ違いになって霧散した。

 僕もヒツジもこの家も、全て灰と溶岩に呑まれてしまえば良いのに。破滅願望も山の静けさも相変わらずで、自室の鍵も鳴らしてないのに外の騒音は聞こえない。

 僕とヒツジの手には、お揃いの真っ赤な手袋とナイフ。

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