種を蒔き、実が生まれた。
生命の鼓動。
生きとし生きるもの。それらには切っても外す事ができないこの世の理。
海のなか、土のなか、大地のうえ、空のした。もしかしたら空の上にもいるかもしれない。
そして、思考する考える。感情、気持ち。これら心をもつ世界の子らはどれほど存在しているのであろうか。
世間では人、動物、昆虫、鳥、魚などのもの達のことをそういわれている。
では、この小さな命の鼓動はどうなのであろうか?
ある朝。ほんのちょっぴりの好奇心によって蒔かれた命は、仲間もおらず、周囲一帯が敵と呼ばれてもおかしくない大地にその命を芽吹かせた。
大海原に船を漕ぎ出した船主のような気持ちだ。
そんな大それたことを起こした当の本人は、当然ながら気が付くことはない。
只でさえ「これは、こうやれば、いい」と未熟な知識と未熟な思考でやったのだ、理解出来る筈がない。
あるのは、無事に綺麗になるかな?
それとも自分自身と同じになるのかな?
追い詰められ、傷心した……。どこか差し迫った雰囲気を醸し出しながらトボトボと重たい足を遠くへ進めていった。
そんな、広大な世界を歩く一つの命によって芽吹きを果たしたか弱き命は、数多の敵が周囲にいるなか。
己の中にある数々の先祖の遺伝子による生存本能が、強烈な深緑となりて、この競争社会の中を生き長らえていた。
これは神々の悪戯か。
はたまた積み重なった経験による神秘の出来事か。
か弱き命を持つものは、己の周りにいる近しい敵であり仲間とも言える存在たちとは自分自身がまるで別物であると確信した。
これは思考。考える力。体内にある無数の細胞が知を得たのだ。
まず最初にかの弱きものが考えたのは、何も知らないし、何も考えれないという、考えているが思考の渦にのめり込めない理解不能の現象。
ここにいる。
生きている。
それだけ。
で、何をする必要がある。する必要性もない。
そう、する必要性がない。自分がどれほど小さく、ちっぽけなものか分かった瞬間に思った。
何日も何週間も、一月が経つと嫌でも分かる。
周りのもの達は、哀れにも打ちのめされ、投げ捨てられ……そして消えていった。
奇蹟だ、そうこれは奇蹟だ。
自らが今も生き長らえているのはそうとしか言えない。
見れば分かる、今日もまた同じちっぽけなものが打ちのめされるのがわかる。
でもこれも糧となる。仲間でもあるが敵でもある奴らが消えるのだ、この競争世界から。敵が消えれば自ずと掌に恩恵が振り降りてくる。
じゃまだ邪魔だ。ここは己の領域だ。消えろ、消えてしまえ。辺り一面から消えてしまえ。
敵は下し、仲間は下僕に。
糧にしろ、糧に。己が更なる存在になるために、あのように醜くならないために。
幾年の時が過ぎたかは、大きな命になったそれは分からない。
煌々とした光が照らした日も。恵みであり、恵みでもない日も、色褪せ、僅かながらも慌てた日も。1日1日が戦いの日も。
そして、また次の日も。
生命にとって外すことが出来ない『生きる』という概念。
今日も明日も、数十年も私は生きていた。
生きる、生きて。楽しんで。笑って、泣いて……怒ってもいい。
きっとそれは自分自身の糧となる。諦めなければきっと、この彼のように。
私や、その子や孫、子孫。きっとこの彼のように美しく立派になれる。
────────お前なんかいらねぇこだば。
胸に突き刺さる言葉。辛く寂しくなるような遠慮ない暴力。
泣きたくても泣けず、助けを呼ぶ声も出せない。
味方……、その存在がものがどれほど愛しく、力になったことか。
やりようもない心を、足元に広がる植物や昆虫にぶつけたことは何度もある。悪戯心で盗った果物を食べ、種を身近な所に放り投げたこともある。
目元から日に日に心という、欠片が流れて地面に浸るような感じもした。
目に写ったのはいつの日か投げた種だったもの。
緑色をした綺麗な綺麗な葉っぱ。小さくて少し可愛いとも思えた。
これがあの大きな木になるのか、美味しい果物を成すのかちょっと気になった。
これが、彼の味方だった。
足にも及ばない小さな命。時に水をやり、時に土遊びという名目の肥料撒きをした。
気がつけば大きな大きな立派な木となり、そして実も付けた。
そして自分もまた、立派な実を付けた。
人も生き物も、植物も、生命もみな変わらない。
こんなにも成長することが出来るのだから。
私は綴る。きっと、この彼も私のように『生きて』いるであろうと。
きっと、そうきっと。私達は通じ会える。そう願わんばかりである。
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