罪と迎朝
目を開けると、そこには真っ暗な景色が広がっていた。
誰もいない、何も存在しないその空間は『無』とでも言うべきだろうか。
「おーい、誰かいねぇのかよ……!」
そう言って、一歩踏み出したときだった。片方の足が、何かに引っ掛かったように動かない。
見下ろすと、そこには少女がいた。全身が赤い血に染められ、目はくり抜かれたように空洞になっている。銀髪には血がべっとりとつき、その表情は苦痛に歪んでいた。
その手はがっしりと自分の足を掴み、地獄に引きずり下ろすかのように引っ張っている。
「あぁ……あぁぁぁっ⁉」
悲鳴をあげ、それを振り払おうとするが、その手は離れない。
「……シタ……」
「え……?」
「おまエが殺シタ!」
激しいノイズの混じった声と共に、伏真は闇に引き込まれていった。
* * * * *
「ッ⁉」
目を覚ますと、そこには既視感のある光景が広がっていた。木でできた天井に、和を思わせる畳。布団が敷かれ、隣には滝柴が眠っている。そのすぐ側では、あの薄ピンク髪の少女が柱にもたれ掛かりながら、すやすやと眠っていた。
「ここは……」
「あれっ、起きましたかぁ……?」
薄ピンク髪の少女は、あくびをしながら話しかける。起こしてしまったようだ。
「あぁ。寝てたのにすまねぇな」
「ふぁ~、気にしないでください」
目を擦り、頭を起こす。どうして自分がこの場にいるのか、必死に頭を回す。
そうだ。自分は滝柴幽恋と少年を守るために、秘女と戦った。そして、一人の少女の命を奪ったのだ。
この手でナイフを握りしめ、少女の腹部をえぐった。彼女の悲鳴を、肉の断たれる音を、一つの命が散る瞬間を、誰よりも間近で経験した。
あのときは意識していなかった。いや、意識する余裕がなかった。だからこそ、今この瞬間まで気づけなかった。込み上げてきたそれは、一人の少女を殺めたという罪悪感。
その手にはまだ、あのときの感触が残っていた。
「あぁぁ……俺はぁっ……‼」
必死に嗚咽を噛み殺し、目を瞑る。瞼の裏には、夢にも出た彼女の姿が焼き付いていた。
「ちょっ……どうしたんですか⁉」
薄ピンク髪の少女は伏真に駆け寄り、顔を覗く。
伏真は『なんでもない』と吐き捨てると、立ち上がり、深呼吸をした。
「悪い、もう大丈夫だ。それより、これはどういう状況だ?俺達は森をさ迷っていたはずだ」
伏真がそういうと、少女はにこっと微笑んだ。とても優しく、温かい笑みだった。
今頃気づいたが、体中に負った怪我も治っていた。これも、彼女の施しによるものだろうか。
「まさか、またお前に助けられたのか?」
「えへへ、まぁそうなりますね。お二人が意識を失って倒れていたので。でも、大したことはしてないですよ」
そう言いつつも、彼女は誇らしげだった。彼女の笑顔を見ていると、少しだけ気持ちが落ち着いた。
今まで殺伐とした戦場に身を投じていたこともあり、体が緊張していたのだろう。懐かしい日常の光景に、体が熱くなっていた。
「あの、一つ良いですか?」
少女は平穏に浸る伏真の気持ちを遮り、言葉を投げ掛ける。その表情はとても真剣で、自分を一喝した、あの緑髪の秘女の姿を思わせた。
伏真はその表情に圧倒されながら、首を縦に振った。
「あなた達の探していた少年の話です」
「‼」
そうだ。あの子を探し出すまで、まだ非日常は終わっていない。
そもそも、あの子を探し出すために自分達は非日常に身を投じていたのだ。それが、秘女を殺しただけで目的を果たした気になっていた。
伏真は自身の怠慢に虫酸が走り、怒りからその拳を握った。
「探しに行かねぇと……!」
伏真は勢いよく立ち上がろうとするが、少女はそれを制止した。
「その必要はありません。少年はこちらで保護済みです」
「何だって……⁉」
伏真は驚きを隠せなかった。しかし、彼にとってはこれ以上ない吉報だった。
それなのに、少女の顔は暗い。それも、何かに怯えるような様子である。
「えっと、何かあったのか?」
「……これは正直、言うべきか迷っていました。後悔することになるかもしれませんが、本当に聞きますか?」
伏真は息を飲む。これを聞いてしまったらもう、自分は日常に帰ることは出来ないかもしれない。
しかし、聞かなければならないと思った。滝柴とグロッカには何かしらの繋がりがあった。そこには、あの少年の秘密と同じような闇を感じた。
だから、知らなくてはならない。滝柴を守り抜き、平穏を取り戻すためにも、この闇を放っておくことは出来なかった。
しばらくの沈黙の後、伏真は頷いた。
「……あの子に、秘力が作用した痕跡が残っていました。系統は精神干渉。いわゆる、洗脳や記憶操作などです」
「(精神干渉……⁉グロッカとは別に、まだ敵がいるってことなのか⁉)」
少女は一呼吸置くと、再び口を開いた。
「それだけではありません。痕跡となった力ですが、とても細かく隠されてて……私自身、気がつけたのが不思議なくらいです」
伏真は息を飲む。もはや誰が敵であるなど、言っている場合ではないのだ。
グロッカとは別に、動いている者がいる。いや、もしかすれば〝者達〟と表現すべきなのかもしれない。
「その秘女は恐らく、高位の秘力と技術を持ち合わせています。それこそ、痕跡をほぼ完璧に抹消できるほどに」
「つまり、俺達の身の安全が保証されたわけではないと」
「……そういうことになりますね」
強大な敵の存在。しかし、そのおかげで分かったこともあった。
「(グロッカの言い回しからして、連中が少年を連れ去ったのは確定だ。敵に記憶操作を扱える秘女がいるなら、あの子が連れ去られる瞬間を誰も見ていないことにも頷ける。なら、そこまでしてあの子を連れ去る理由は……?連中の狙いが滝柴なら、滝柴本人だという確証を得ることが必要になる。手っ取り早い証明方法……そうだ、秘力を使わせることだ。あの子を連れ去り、森へ誘い込む。そして戦闘に持ち込めば、滝柴は力を使わざるをえなくなる。つまり、あの子は餌で、俺達はまんまと釣られちまったってことか……‼)」
あくまで敵が記憶操作の秘力を持つと仮定した上での憶測に過ぎない。しかし、滝柴とグロッカは既知の仲であったようだ。彼女らの間に何かしらの因縁があったことは間違いない。それこそ本人に聞く他ないのだが、傷が完全に癒えていない状態の彼女を、無理矢理起こすわけにもいかなかった。
「結局全貌は分からず終いで、残ったのは謎の秘女の存在だけか……」
しばらくの沈黙が続く。そのとき、勢いよく襖が開き、長い茶髪の少女が姿を見せた。
「ユリカ様?」
「シャミア!」
シャミア、そう呼ばれたのは薄ピンク髪の少女だ。
ユリカと呼ばれた巫女服の少女は、どうやらシャミアの知り合いらしい。シャミアの言い回しからして、この神社の本来の管理人と言ったところだろうか。
ユリカは総毛立った様子で、こちらを見つめていた。その様子から察するに、穏やかな状況でないことは明白だった。
「今すぐその子達をどこか別の安全な所へ避難させて!大至急よ!急いで!」
「何があったんですか!説明もなしに納得できません!」
ユリカは一呼吸置くと、落ち着いた様子で再び口を開いた。
「……そうね。ごめんなさい。あなた達にも、今の状況を理解してもらわないとね」
そう言って、ユリカは伏真を見つめた。見下ろす瞳は鋭く、秘女らしさを感じさせた。
「南方から巨大な光の塊が迫ってきてる。真っ直ぐこっちを目指してるわ。恐らく秘女の仕業だとは思うけど、目的は分からない。でも、今は気にしていられない。敵の狙いが私達にしろ第三者にしろ、この辺りで戦闘が起きるなら、あなた達は早く逃げないとまずいのよ」
ユリカはそう言うと、シャミアの方へ目をやった。
「本来この子達は、温かい日々を送るべきなの。だからお願い。この子達を日常に帰すために、今だけでも力になってあげて」
伏真は溢れそうになる涙を必死に堪えた。彼女達はどこの誰かも分からない者のために、自らの危険すら犯しているのだ。彼女達はそれを理解してなお、伏真や滝柴、少年を助けようとしている。彼女達への恩は決して返しきれないだろう。
「ユリカ様……分かりました。皆は、私が絶対に守ります。もちろんユリカ様のことも」
「心強いわね。私も私なりに出来ることをやらせてもらうわね」
ユリカがそう言うと、伏真は『なぁ』と話を切り出した。
「俺が少しでも足を引っ張らないために、何か出来ることはないか?」
「そうね……あなたはそっちの女の子を運んであげて。私は男の子を担ぐから」
伏真は頷くと、滝柴を背負った。彼女の熱や鼓動が背に伝わった。
「(せめてこいつにだけは、いつまでも笑っていてほしいんだ)」
滝柴を背負い、伏真は一歩、外へ踏み出した。外では烈風が木々の間を突き抜けていた。光の塊は何かを吸い上げながら肥大化しており、このままでは森一帯を覆い尽くしてしまうだろう。
「クソ、どうなってんだ!」
「……伏真…」
滝柴が声を出した。しかし、様子がおかしい。異様に体が熱く、息が荒い。
「今すぐ滝柴さんと一緒に街へ戻ってください」
シャミアは滝柴を見るやいなや、そう口にした。
「シャミア、どういうことだ?」
「あの光は恐らく、対象として選んだ秘女の力を横取りすることで膨張しています。となれば、滝柴さんは逃げる他ありません。私が時間を稼ぎます。だから早く逃げてください!」
逃げろと、少女は言った。一瞬だったが、彼女の姿がグロッカに立ち向かったときの滝柴の姿と重なった。
「(あのときは散々後悔した。今だって、何が正しいかなんて分からない。でも、このままシャミア一人に戦わせるのは最良の選択なんかじゃない)」
あれが秘女から力を奪うことで肥大化するなら、シャミアも例外ではない。
シャミアにはあれを止めるための算段があるのかもしれないとも思ったが、彼女の表情を見るに、恐らくそんな手立てはない。時間を稼ぐために自らを犠牲にする、ただそれだけだろう。
「シャミア、時間稼ぎなら俺がやる。お前が行ったところで、滝柴の二の舞になるだけだ」
伏真はそう言うと、抱き抱えていた滝柴をシャミアに預けた。
「でも、あなたは人間だから……!」
「あぁそうだ。俺は人間だ。お前らみたいに特別な力なんて無い。それでも、無謀だとしても、そいつだけは死なせたくないんだ!死にに行くんじゃない、守るために戦うって言ってんだよ!」
恐らく、自分では盾にもならない。それを理解した上で、彼は戦う選択肢を取った。
「そんな……!」
伏真はシャミアに背を向け、一言『すまねぇな』と口にした。
「伏真くん!」
ユリカは走り出そうとする伏真を呼び止めると、建物の裏手に回った。
しばらくすると、少年を抱えて手一杯になりながらも、何かを持って伏真に駆け寄った。
「これ、こんなもので良ければ使って」
ユリカが差し出したのは弓と数本の矢だった。
「助かる。俺はこのまま正面から敵を叩く。お前らはその間に安全な場所へ動いてくれ」
ユリカは頷いた。握られた拳は震えており、彼女の中の悔しさに似た感情を露呈させていた。
「(日常へ返すなんて言っておいて、結局この様じゃ世話ないじゃない……!)」
「ユリカ様……」
彼女にとっても苦しい決断だったのだろう。しかし、シャミアの言う通りの秘力の持ち主なら、他に手はないのだ。
「ユリカ、シャミア。その子と滝柴を頼んだ」
「分かりました」
「分かったわ。あなたも気をつけて」
伏真は走り出す。もう振り返ることは許されない。少年は再び、血の撒き散る戦場に踏み込む。
そのとき、朝日すら飲み込むほどの光から、一筋の閃光が地上へ投下された。