秘女
「どこ行ったんだ……あいつ」
静寂に包まれる森の中。滝柴とはぐれてしまった。かなり歩いたはずだが、少年はおろか滝柴すら見つかる気配がない。
木々の隙間からは月光が差し込み、伏真の顔を照らしていた。
森に足を踏み入れたときから、世界がまるごと塗り替えられてしまったような妙な感覚を覚えていた。非日常に対する興味や、特別なものに対する憧れといったところだろうか。こんな危機的状況でさえ、平凡な自分が非日常に介入できたことに気が抑揚している。自分だけが特別であると、そう思い込むことさえ出来た。心底クズだと思った。この状況で、友人が死ぬかもしれない世界で、自分だけが喜びに浸っているのだ。平凡な日常から解放されたことに、快感すら覚えている。
くだらない、特別なんて興味ないと自分に言い聞かせるが、それすらも挫折した。沸き上がる解放感に身を委ね、木々を掻き分けて進む。
奥に一際明るい所があることに気がついた。拓けた場所なのだろうか、月光が何にも遮られることなく差し込んでいる。
伏真はそこに出ると、一瞬にして心が黒く染められたように、何かおぞましいものを感じた。
そこにいたのは、銀に赤色のメッシュが入った、ショートヘアーの少女だった。その瞳はガラス玉のように美しく、獣のように鋭い。
伏真は確信した。間違いない。秘女だ。
「人間か、丁度暇してたんだ。遊んでくれよぉ」
一瞬にして、視界が光に覆われた。
「ッ⁉」
伏真は反射的に体を反る。眼前を青い光線が通りすぎ、同時に薙ぎ倒された木々が目に入った。
「あららー。はずれちゃったか。よく避けたねー、ご褒美に自己紹介してあげる。私はグロッカ。言うまでもないだろうけど、秘女よ」
「あぁ…あぁぁっ‼」
伏真は一目散にその場から離れようと走り出す。
しかし、轟音と共に伏真の体は宙を舞った。
足元を撃ち抜かれた伏真は、無様に地面に叩きつけられた。
「待ちなさいって。動物は動物らしく、狩人を楽しませるために働きなさいな」
再び地面を撃ち抜かれ、伏真は太い幹に叩きつけられた。
さらに射出された青い光線は付近の木々の根を撃ち抜いた。支えを失った大木は、伏真に向かって倒れていく。
「嘘だろっ‼クソ‼」
直撃こそ避けたものの、衝撃によって地面に叩きつけられた。
しかし、目の前には青い光を周囲に浮遊させているグロッカがいた。見下ろす彼女の目を見ると、正気の沙汰でないことは明かだった。間違いない。彼女は殺しを楽しんでいる。
「つまんないね、あんた。はぁい、お疲れ様」
青色の光は次第に強くなっていく。それは絶望という名の閃光。狙いを定めた光は、伏真に対する殺意を露呈させている。今度こそ、本当に死んでしまう。
「お願いだ、誰か助けてくれ……!」
そう口にしたときだった。背後から何者かがグロッカの背を蹴り飛ばした。
見覚えのある黒い髪に、赤い瞳。
「滝柴⁉」
「早く逃げて。ここは私が戦うから」
そう言った彼女の瞳は、グロッカと同じ獣のそれだった。
「ははーん、やってくれんじゃん。結構痛かったよ……ベリアドーラ」
グロッカは滝柴のことを知っている様子だった。それよりも気になったのは〝ベリアドーラ〟という呼び名だった。
「ベリアドーラ……?」
伏真は無意識にそう呟いていた。
「私の本当の名前だよ。ごめんね、今まで騙してて。私、本当は秘女なの」
「…え、は……?」
滝柴は、いや、ベリアドーラは秘女だった。今まで当たり前に子供達をあやし、当たり前に自分と会話してきた少女は、殺しを楽しむ連中の一人だったのだ。
彼はその現実を受け入れられなかった。いや、受け入れたくなかった。
「とにかく、早く逃げて。子供は私が探し出す。だから伏真は早く逃げて!」
「俺は……ッ‼」
伏真はベリアドーラ達を背に走り出した。
今まで、ずっと騙されていた。彼女だけは自分と同じ〝特別ではない存在〟だと思っていたのに、それすら裏切られた。
「平凡なのは俺だけかよ……俺に味方はいねぇのかよぉ‼」
世界の全てが自分を見下しているようにすら感じてしまう。今まで滝柴幽恋を信じていた自分が間抜けで仕方なかった。
「うっ⁉」
木の根だろうか、何か固いものが足に引っ掛かり、盛大に転んだ。
顔をあげたときだった。そこには、緑色の髪の少女がいた。間違いない。彼女も秘女だ。
「人間…か」
「あ、あぁぁぁっ……⁉」
伏真は頭を抱え、目を瞑った。
少女の周囲には無数のハサミが浮遊していた。それは放たれる直前の矢のような威圧感を纏っていた。
「もうやめてくれよぉ!なんで俺ばっかりこんなに傷つけられなくちゃならないんだ!こんなに裏切られて、こんなに苦しんでるのに、まだ傷つけられなくちゃいけない理由って何なんだよ!俺が一体何したってんだよ!」
「はぁ、おい人間」
「そうだ!ここに俺の友人が来てる!そいつを差し出すから、俺の命は助けてくれ!なぁ、頼むからぁ……‼」
少女は舌打ちをすると、伏真の側頭部を蹴り飛ばした。困惑する伏真を見下ろしながら、少女は不快そうな顔をした。
「何があったかは知らないけど、あんたが弱いクズだってのは理解したよ」
伏真はその言葉を聞くと、顔を上げて少女を睨み付けた。
「テメェら秘女に何が分かるんだよ!そうだよ俺は弱いよ!テメェらみてぇに特別な力も無ければ、技術も持ち合わせがない!正真正銘の〝失敗作〟なんだよ!」
失敗作、少女はその言葉を聞いた瞬間、伏真の胸ぐらを掴んで木の幹に叩きつけた。
「何が失敗作だ。あんたは自分が弱いことを、強くなる努力をしない言い訳にしてるだけじゃないか。あんたは失敗作なんかじゃない。ただ辛いことから逃げてるだけの弱者。本当に強くなりたいと思うなら、特別でも何でもないその手で、何かを変えてみせな」
そう言うと、少女は伏真を投げ捨てるように離した。少女の周囲に浮遊していたハサミは、少女が背を向けると同時に落下した。
少女は『殺す価値もない、クソ野郎が』と吐き捨てると、森の奥へと消えていった。
「ふざけんな……俺に何が出来るってんだよ……!」
そう言いながらも伏真は、こんな自分でも何か出来ることがあるのだろうかと、必死に頭を回す。しかし、それよりも先に体は動いていた。自然と、体は逃げることを拒んでいる。
落ちたハサミの一つを拾い上げると、少女の言葉が甦った。
「分かってるよ……このままじゃいけないんだってことぐらい」
少年は進む。恐怖が消えたわけではない。しかし、恐怖だけではなかった。
欠片ほどの勇気と共に、少年は月光の照る森を進んでいった。