転属
「何があったの?シキと喧嘩でもした!?」
「ち、ちがっ」
嗚咽で、ろくに言葉も出せず、首をぶんぶんと振ると、ユアラはフィオナを椅子に座らせて、優しく抱きしめると、落ち着くまで背中を撫でてくれた。
やっと呼吸がおさまると、ユアラが温かいお茶を用意してくれる。
「それで、どうしたって言うのよ?あなたがそんなに泣くなんて」
フィオナは、泉の事件から、昨日ルティアナに言われた事までを、すっかりユアラに話すと、その美しい顔が不満そうに歪んだ。
「それでシキは?なんて?」
「シキは私に任せるって」
「それだけ?」
「私に居てほしいけど、また同じ事があったら、自分よりも私を優先するって言われちゃいました。だから私、魔植物園に残って、またもしシキを危険な目に合わせたら、どうしようって……」
「それで?フィオナは、魔植物園に居たいの?居たくないの?」
「そんなの、居たいに決まってます!でももう嫌なんです!目の前であんなふうに死なれるのは両親だけで十分ですっ!」
ユアラの目が大きく見開かれた。その様子に余計な事まで話してしまったと、すぐに後悔する。
「あなた……、ご両親をそんなふうに亡くしたの……」
「あ、その、それはもう過ぎた事なので。すみません、つい余計な事まで。でも、また目の前で大事な人を亡くすのは嫌なんです」
「大事な人?」
言ってしまってから、また口が滑ってしまっと慌てて手で押さえる。
「いや、その大事な上司だし、その……」
すぐに言い直すが、ユアラにじっと見つめられて観念する。
「……好きなんです。シキが」
絞り出すように言うと、ユアラが優しく微笑んだ。
「だったら、なおさら自分に正直になれば良いんじゃない?」
「怖いんです。私のせいでシキが死んじゃうような事になったらって思うと」
「じゃあ、あなた、転属して、シキと離れ離れになってもいいの?」
「それは、嫌ですけど、我慢します」
「魔植物園に新しく可愛い女の子が配属されて、二人が仲良く仕事してもいいの?」
想像して一気に泣きそうになる。
自分以外の女の子にシキが口移しでポーションを飲ませたり、一緒に管理棟で仲良く食事している姿を想像して、絶対に嫌だと思ってしまった。
「そんなの、嫌っ!」
「だったらそんなに深く考えなくてもいいじゃない。それに、あなたが転属したって、また新しく魔植物園には誰かが配属されるんだから、その新しい子をかばってシキは怪我するかもしれないし、死にかけるかもしれない。同じ事よ。それなら、あなたがシキをそんな目に合わせないように最大限注意すれば良いじゃない。私は魔植物園の事はよく分からないから、どれだけ危険なのかなんて理解しきれないけど、私はアキとずっと離れ離れになるくらいなら、どちらかが死ぬ危険がある方を選ぶわ」
ユアラの言葉がストンと心に落ちてきた。
その通りだ。
自分がシキをそんな目に合わせないようにすれば良いだけだ。どうにもならない事もあるかも知れないけど、でももうシキと離れる事は考えられない。
「そう、ですよね。私、何を迷ってたんだろう」
「そうよ。何も迷う必要なんて無いじゃない。それに、そんなしょっちゅう死にかけてる訳じゃないんでしょ?」
「はい。シキはいつも憎らしいくらい余裕たっぷりです」
「シキらしいわね」
「私多分、これから先、ずっとあそこに居たいです。シキが好きだからだけじゃなくて、ルティもキノもマッド君も、魔植物園全部が好きで、離れたくないんです」
「その、キノとかマッド君とはよく分からないけど、フィオナがそうだって事くらい、私にだって分かるわよ」
「ユアラさん、ありがとうございます。私もうこの紙はいらないです」
フィオナがポケットから転属希望届を取り出して、破り捨てようとすると、ユアラが待って!と言って腕を掴んで止めた。
「ユアラさん?」
「フィオナ、魔植物園にずっと居たいのよね?」
「はい」
「シキの側で一緒に仕事をしていきたいのよね?」
「はい」
「それなら、私にいい考えがあるわ」
そう言って少し悪だくみする様に笑ったユアラは、あまりに魅惑的で、フィオナはつい、背中がぞくりとしてしまったのだった。
ユアラに相談して、心が決まったおかげで、ぐっすり眠れたフィオナは、翌朝スッキリした顔で二階へ降りると、キッチンから漂ってくる良い匂いに思わず顔がほころんだ。
「シキ、おはようございます」
「おはよう、フィオナ」
相変わらず爽やかに笑うシキは、何も聞いてこない。
手早く顔を洗って支度をすると、キッチンに戻って、シキと一緒に食事をする。
やはり、この幸福を他の誰かに譲るなど考えられない。
ふと顔を上げると、シキにじっと見つめられていたので、同じようにじっと見つめ返してみる。
少し疲れた顔をしているように見えた。
きっとここへ来たばかりの頃だったら、この小さな変化にすら気が付かなかったんだろうなと、不思議と嬉しくなった。
「シキ、昨日寝なかったんですか?」
「うん」
「今日からはちゃんと寝て下さいね」
やんわり叱るように言うと、シキは何か言いかけてやめて、苦笑いをした。
管理棟に着くと、フィオナはさっそくルティアナの元へ行こうと二階の階段に向かった。
シキがこちらを気にしているのが分かって、ポケットから白い紙を取り出す。
それをしっかり手で握りしめ、振り返りシキを見つめた。
「シキ、ルティと話をしてきます」
シキはフィオナの手にしている紙を見て、軽く瞠目すると、少し悲しそうな顔をして、すぐに、にっこりと微笑んだ。
「うん、行ってらっしゃい」
「はい」
明るく笑って返事をすると、シキはすっと視線をそらして地下へと降りて行ってしまった。
フィオナは、もう一度胸のまえで紙をしっかり握りしめると、ルティアナの研究室をノックした。
「ルティ、おはようございます」
声をかけると、扉が細く開いて、ルティアナが顔をのぞかせた。
「よお!フィオナおはよう」
ルティアナは、フィオナが握りしめている白い紙にすぐに気づいて、すっと表情が消えた。
「私の部屋の方で待ってな。すぐ行く」
「分かりました」
向いの寝室で、待っていると、静かに扉が開いて、ルティアナが入って来る。
「座りな」
この部屋には椅子らしい椅子がない。
フィオナはこの前四人で飲んだ時のように、小さな低い丸テーブルの横の床に座り込んだ。
ルティアナはテーブルを挟んで、床にあぐらをかいて座ると、ふっと残念そうな笑みをこぼした。
「あんたは、私があれだけ言っても、ここに残ってくれるんじゃないかって期待してたんだけどね」
「ルティ、私、昨日ちゃんと考えて決めてきました」
「ああ、分かったよ。今更サインしないなんて言うつもりはないさ。さ、紙を出しな。どこに行きたいんだい」
行きたい所なんて、とっくに決まっている。
フィオナは満面の笑みでルティアナに転属希望届を手渡した。
「随分吹っ切れた顔してるね。なんだかちょっぴり転属先に嫉妬しちまいそうだよ」
そう言って折りたたまれた紙を開いて、ルティアナは目をぱちくりとさせる。
そして、にやりと口を持ち上げたと思うと、大笑いして床を転げまわる。
「あーっはっはっは!そうきたか!こりゃあやられたよ!あはははははははっ!」
「もうっ、ルティ。笑ってないでサインしてください。さっきサインしてくれるって言ったでしょ?」
「ああ、してやる、してやる。いくらでもしてやるよ!あー、可笑しい!あんたは本当に私の期待の上をいってくれるよ!最高だ」
「褒めてるんですか?」
「もちろんさ!」
ルティアナは、書面にサラサラとサインすると、折りたたんでフィオナに返す。
「ほら、もう一人サインを貰うやつがいるだろう。さっさと行ってきな。あー、本当なら私も見に行きたい所だけどね。今日は我慢してやるよ」
「はい、じゃあ行ってきます」
にへらっと笑うと、頭をぐしゃぐしゃっとかき回されて、嬉しくてまた顔がにやけてしまった。
階段を降り、作業場に行くと、やはりそこにシキはいなかった。
地下への階段を降りて、ノックをする。
「シキ、ちょっといいですか?話があるんですけど」
少し間があって、扉が開くと、キノが顔を出して、フィオナが入れるように、大きく扉を開けてくれる。
「シキ、入りますよ?」
研究室の中に入ると、シキはいつものように、一番奥の壁際で、椅子に座って作業をしていた。
丁度何かのポーションを作っている最中なのか、こちらを振り返らない。
すぐ後ろに立って待っていると、シキが試験管から手を離して、くるりと振り返った。その表情は、なんだか、無理をして笑みを浮かべているように見える。
「最後の挨拶に来たの?」
「違いますよ?」
「じゃあ、何?」
「シキのサインが欲しいんです」
「転属希望届のサインなら、ルティに貰いに行ったんじゃないの?」
「ルティがシキに貰うようにって」
シキが眉をひそめる。
「僕がサインしてもだめだよ?転属希望届は部署のトップのサインが必要だから」
「でも、私はシキにサインをして欲しいんです」
訳が分からないといったふうにシキは頭を振ると、その顔から無理やり浮かべていた笑みが消えた。
「フィオナ、それは僕に対する嫌がらせ?」
「違いますよ。本当にシキのサインが欲しいんです」
真面目な顔で言うと、シキは大きくため息をついた。
「分かったよ。サインをすれば良いんだろ?それでフィオナの気が済むならするよ」
シキは辛そうに折りたたまれた紙を開き、ペンを取って、紙に目を落とした。
「え……」
ペンを持ったまま、紙を見つめてシキが固まる。
固まったまま動かないので、フィオナは後ろから覗き込み、手を差し出して、まだ空白の署名欄を指さした。
「ほら、ここです。ここにシキの名前を書いて下さい。書いてくれるって言いましたよね?嫌とは言わせませんよ」
「フィオナこれって……」
「私の転属希望届です」
転属希望届にはこう書かれてあった。
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私、フィオナ・マーメルは以下の部署へと転属を希望します。
転属希望部署……シキ・カーセスの専属補佐官
現在所属部署 署名……ルティアナ・イグノーマナ
転属先部署 署名……
魔導士長 署名……
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フィオナが指をさしたのは、転属先部署署名欄だ。
専属補佐官。
それは五年間契約した相手に弟子入りする制度。
「フィオナ、これって……」
「これで、私は今後五年はずっとシキと一緒です」
「これ、本当にサインしてもいいの?」
「だめならこんなもの持ってきません。私、ずっとここにいて、ずっとシキと一緒に仕事したいんです」
そう言った途端、シキが机に顔を伏せた。
「シキ!?」
「ずるい」
「え?」
「今そんな事言うなんて、フィオナずるいよ」
「ずるくてもいいです。だからサインして下さい」
なかなか顔を起こさないシキに業を煮やして、腕を引っ張ると、ガバッと起き上がったシキに思い切り抱きしめられた。
「シキっ!サインー!」
「フィオナ、意地悪だよね」
「な、何がですか!?」
言われてドキリとする。朝ルティアナの部屋に行く前に、シキにこの紙を見せたのはわざとだ。
ユアラに、そのくらいの意地悪をしてやれと焚き付けられて、ついシキの反応を見たくてやってしまった。
「朝の、わざとでしょ?」
「……なんの事でしょうか?」
「僕の事からかったんでしょ」
「そ、そんな事はないです!」
「フィオナの意地悪」
抱きつかれたまま、恨みがましくそう言われてしまい、言い返せなくなってしまう。
「ごめんなさい……。ちょっとだけ、知りたかったの。居なくなったら寂しがってくれるのかなって……」
「本気で言ってるの?寂しくないわけないでしょう?何度ここにいて欲しいって言ったと思ってるの?」
抱きしめていた腕を緩めて、顔を真っ直ぐに見てくるシキの声は怒りが混じっているのに、嬉しくて嬉しくて、泣きそうで、それでもにへらっと笑ってしまう。
「ああ、もう、またそんな顔する。反則だよ」
首をかしげると、シキがむくれたように言う。
「フィオナがそんな意地悪するなら、僕も仕返しに意地悪してもいいよね?」
「え!?なんですかそれ!だ、だめで……んんんっ」
言い終わる前に、大きな手で後頭部をしっかり抑え込まれて、唇を塞がれた。
いきなりのキスに、逃げようとすると、さらにもう片方の腕でしっかり腰を掴まれて、深く口づけされる。
「んんんっ!」
その上舌が入り込んできて、フィオナの口の中を蹂躙していった。
最後に唇を離しがてら、ぺろりと唇の表面を舐められて、背中の奥がぞわりとしてしまう。
「このくらいの仕返しはいいでしょう?」
真っ赤な顔でフィオナがわなわなと唇を震わせていると、シキがふわりと微笑んだ。
一気に頭に血が上る。
「やっぱりやめますっ!紙返して下さいっ!」
「やだよ、まだサインしてないもの」
シキはそう言って、転属希望届を掴むと、サラサラとサインして、立ち上がり、胸ポケットにしまい込む。
「シキ!返して!」
「だめ。そうだ、今から魔導士長に提出してこよう!」
シキはさっさと研究室を出て、階段を駆け上がっていく。
キノが入り口で、口を笑みの形にして立っていた。
そういえばキノも部屋にいたんだ!
さっきの絶対に見らたよね!?
顔を真っ赤にして、キノを見ると、双葉の間から蔓が伸びてきて、頭を撫でてくれた。
見なかった事にしてね。
そう心で呟いて、シキを追いかける。
バタバタと階段を駆け上がって、叫んだ。
「シキー!紙返しなさーい!」
「だーめ。ほら一緒に出しに行こう」
作業場で待ち構えていたシキに飛びかかって、胸ポケットの転属届を奪おうとすると、腕を掴まれて、引っ張られる。
「なんだい!騒がしいね!」
「ルティ!私やっぱり専属補佐官はやめますっ!シキから転属届を取り返して!」
両腕をシキに掴まれているので、ルティアナに頼みこむと、呆れた様にため息をつかれた。
「お前らはまたそうやって、仕事中にいちゃついて」
「ちがーう!」
「ルティ、今からフィオナと転属届出しに行ってくる」
「ああ、さっさと出して、早く仕事始めな」
「そんなあ!ルティー!」
あっさりと見捨てられて、半泣きの声を出すと、トドメとばかりにルティアナが言う。
「なんだいフィオナ。私にサインしてくれって頼んでおいて、やっぱりやめたなんて、許さないよ!それに、シキは私の専属補佐官だから、そのシキの専属補佐官は、私とシキの両方の弟子になれるようなもんなんだよ?ラッキーじゃないか」
そう言われればそうだなと、納得してしまう。
抵抗するのをやめてシキを見上げると、いつもの優しい笑顔が降ってきた。
「ほらシキ、そこの小娘を逃さないようにして、さっさと行ってきな」
「うん」
シキにあっという間に抱きかかえられると、研究棟の外に連れ出された。
「シキ、この状態だと、私胸ポケットから紙を抜き取れますよ?」
「いいよ?フィオナを離さなければ一緒だもの」
「……一緒に出しに行くから、降ろして下さい」
「うん、王宮に付いたらね」
「その前に降ろしてええ!」
「じゃあ、魔導士長の部屋の前で降ろしてあげる」
「距離伸びてるー!」
「嘘だよ。管理棟についたらちゃんと降ろしてあげる」
ふわりと微笑まれて、今日も負けたとフィオナはつられて笑顔になってしまうのだった。
ここまでで、第一章研修期間編は終了です。
引き続き第二章を楽しんでいただければ幸いです。