慣れって怖い
「フィオナ、腫れが出なくて良かったね」
翌朝、全く異常がなかったフィオナに、シキはふわりと微笑む。
「シキがすぐに薬を飲ませてくれたおかげです。でも良かったんですか?作るの大変な薬なんですよね?」
「いいんだよ。フィオナの首や顔が腫れ上がる方が大変だよ」
フィオナは苦笑いする。
シキは自分に少し甘いような気がしてならない。
今日もシキが作ってくれた朝食を食べながら、昨日から気になっていた事を尋ねた。
「シキ、レオナってここのお手伝いさんですか?」
「ん?なんで知ってるの?」
「昨日、シキが温室で叫んでたじゃないですか。虫を回収するようにって。その時名前を言ってましたよ」
「ああ、そうか。うん、そうだよ。お手伝いさんの名前」
「レオナさんかあ。どんな人だろう」
「ふふっ、それは会えたときの、お楽しみだね」
シキは、すっと、視線をフィオナの後ろに向ける。フィオナは気になって振り向くが、誰も居なかった。
研究棟に行くと、ちょうどルティアナが二階から降りてきた。
「よう、フィオナ、首、腫れなくてよかったな」
「ルティ、おはようございます。シキがすぐに薬を飲ませてくれたので。ん?なんか……」
「どうした?」
「酒臭い」
後ろでシキが一歩後ずさった。
フィオナは鼻をすんすんとして、匂いを嗅ぐ。
「ルティ、お酒臭い!」
「いーだろ。たまに飲んだって。それに昨日はシキだって飲んでたはずだぞ」
フィオナは振り返りってシキに近寄ると、胸元に鼻を寄せてみる。いつもの石鹸の匂いだ。
「シキは匂いませんよ。ルティだけ、沢山飲んだんじゃないですか?」
ルティアナは、ちらりと薬品棚を見てから、ジロッとシキに視線を送る。シキはにこりと微笑み返した。
「シキ、ちゃんと追加しとけよ」
「うん、分かってる」
二人の会話の意味が分からず、首をかしげると、シキは話題を変えてくる。
「フィオナ、今日はまず畑の管理にいこうか」
「はい」
まあいいか、とフィオナはシキに付いて管理棟を出た。
管理棟の外の日当たりの良い場所で、キノが座ってウトウトしていた。
「光合成中でしょうか?」
「うん。そっとしておいてあげよう」
シキはキノを見て優しげな声をだす。
ウトウトしてるキノの可愛さは破壊力抜群だ。駆け寄って頬ずりしたいのを我慢して畑へと向かう。
今日も困り顔のマッド君三号がフィオナの後ろを付いてきた。
いつもの森の道を歩いていくと、これまたいつもの様に蔦達が挨拶してくる。気分よく歩いていくと、わっさわっさと元気なチューリップ畑に到着した。
「フィオナ、じゃあ、このノートに区間ごとの蜜の濃度を書いていって。一から十の数字を使って書いていくんだ。この前の一番良い状態の糖度を五だとする。それより糖度が少し少なければ四。糖度が多すぎると思ったら六と言うように。じゃあ、手始めに、この区間の糖度を確かめて、ノートに書いてみて」
フィオナは、言われた通り、畑に近づくと、手近なチューリップと唇を合わせる。ぬるりと入ってきためしべを舐め、蜜の甘さを確認する。
前と変わらず、いい糖度のように思えた。同じ区間のチューリップ数本も確かめるが、やはり皆良いようだ。
「シキ、この区間は五だと思うのですが、どうですか?」
シキも数本のチューリップの蜜を確かめてうなずく。
「うん、正解。じゃあ、六区画全部チェックしておいて貰えるかな」
「はい、分かりました」
「フィオナもすっかりチューリップに慣れてきたね」
シキに唇の蜜を指で拭われて、愕然とする。こんなとんでもないチューリップに、たった一週間程度で、唇を合わせるのが、当たり前だと考えている自分にびっくりだった。
慣れって怖いなと、ふと遠い目になった。
「じゃあ、フィオナ任せたよ。マッド君三号を置いていくからね」
「シキは?」
「僕はちょっと急ぎでやらなきゃいけない事があって、一旦研究棟に戻る。チューリップ畑からは出ては行けないよ。終わる頃に戻ってくるからね」
「はい」
「あと、畑の中で倒れるほど我慢しないようにね。何かあればマッド君三号にすぐ言うんだよ」
フィオナは前回の事を思い出して、居たたまれなくなる。
シキは、フィオナの頭を軽く撫でると、箒を出して、森の中に消えていった。
「あの森の中を箒で飛んでいくのかあ、凄いな」
フィオナといる時は、わざわざ一緒に歩いてくれているのだなと、きゅっと胸が熱くなる。
「よし!頑張るぞ!」
フィオナはノートを手に畑に向かって行った。
六区画無事に糖度を測り終えて、ふらふらと畑の横の芝生に腰を下ろす。もちろん催淫は回っている。はあはあと荒い息で、最後の区画の糖度をノートに書き込んだ。概ね糖度は良好に思える。一番森から離れた区画だけ、若干落ちているような気がしたが、落ちたと言うほどでもないような気もする。シキが来たら聞いてみよう。
身体はどんどん熱くなっていた。
でもこれもいつもの事だ。
おそらくもう少し経つと、身体がじんじんと痺れて呂律が回らなくなってくるだろう。
「シキ、まだかな……」
座っているのが、つらくなってきたので、芝生に横になる。顔を研究棟の方に向けると、シキが箒に乗って飛んで来るのが見えた。姿が見えただけで、安心してしまう。
シキはすぐにフィオナに気がついて、芝生に降り立った。
「フィオナ、大丈夫?具合はどう?」
「まだ、大丈、夫。けど、もう少し、したら、だめに、なっちゃう」
「うん、そっか」
シキはフィオナの横に腰をおろすと、フィオナの頭を自分の膝に乗せた。
この人はいつもこうやってなんでも無さそうに、そういう事をする。フィオナは一気に催淫が回ってくるような感覚になった。
「ノート見せてね」
フィオナを膝に乗せたまま、シキはノートを見る。
「この区間、五か四で迷ったみたいだね。後で確認してみるよ」
「ひゃい」
「呂律回らなくなってきた?」
フィオナはうなずく。でもまだ少しは身体が動いた。
「まだちょっと動けるみたいだね。まあ、いいか。そろそろポーションを飲もうか」
シキは持ってきたポーションをカバンから取り出し、フィオナの目の前で瓶を見せる。
「フィオナ、ポーションだよ」
うなずいて、シキの唇が来るのを待っていると、シキがくすりと笑う。
「動けるみたいだけど、口移しの方がいいみたいだね。ちょっと待ってて」
シキは自分の口にポーションを流し込む。その言葉にフィオナは、ボンと顔が沸騰した。
催淫で意識がぼんやりしているとはいえ、かろうじてまだ動けたのだ。
なんで自分で飲まないの!とフィオナは壁に頭を叩き付けたい衝動に襲われる。
シキに飲ませてもらう事にすっかり慣れてしまっている自分が怖くなる。
シキの唇がすぐにフィオナを塞いで、ポーションを流し込んでいく。まだポーションは二口分瓶に残っているはずだ。
「シ、シキ、りぶんで、のみゅ……んんんっ」
すぐに二回目の唇で塞がれて、ポーションを流し込まれた。
「ん?何?フィオナ」
「はあっ、はあっ、りぶんで、のみゅきゃら」
ぷるぷるする手を、必死に持ち上げようとすると、その手を掴まれて、最後のポーションを流し込まれた。唇を離して、指でフィオナの唇を拭いながら、シキはふわりと微笑む。
「だめ。それじゃあ、昨日僕が特級飲んだ意味がないだろう」
なんの事か分からないが、もう恥ずかしくて死にたいと思った。
フィオナの状態が少し良くなったのを見計らって、シキはカバンに入っていたタオルをフィオナの頭の下に枕代わりに敷いて、立ち上がり、チューリップの糖度を確認しに行った。
しばらくたってから、確認を終えたシキが歩いてくるのを、ぼんやりと見つめる。
「うん、フィオナ。ノートに書いた糖度はほぼ合っているよ。迷った区画は、確かに微妙なラインだったね。でもまあ、この程度なら糖度五にしておいて大丈夫だよ。もう少し落ちたら、四にしよう」
フィオナは自分の判断した糖度がほぼ合っていて、嬉しくなった。
起き上がれるようになったので、タオルをシキに返して礼を言うと、シキはふわりと微笑んでから腕時計を見た。
「フィオナ、それじゃあ、もう少し休んで大丈夫になったら、水やりをしておいてくれるかな?」
「はい、シキは?」
「また研究棟に戻るよ。そろそろ、さっき魔力水に浸けてきた素材を出さないといけないからね」
「シキ、忙しそうですね……。大丈夫ですか?」
「大丈夫だよ。こんなの忙しい内に入らないさ。それよりこれを渡しておくよ」
シキはフィオナにポーション瓶を手渡した。
「これは?」
「これは、この間フィオナが失敗した上級魔力回復ポーション。効能は普通のより落ちるけど、一般に出回っている上級ポーションと同じくらいの効能はあるからね。三区画まで水やりしたら、必ず飲んでね。それと、無理せず、休憩しながらやること。あともし、何かあれば……」
「何かあれば、マッド君三号にちゃんと言いますよ」
心配性なシキに、フィオナはにっこりと笑ってみせる。
シキはフィオナの頭をなでると、微笑んで、管理棟に戻っていった。
水やりはこの間だいぶコツをつかんだので、順調に進んで行った。
シキに心配を掛けないように、急ぐことよりも、きちんと休憩をはさんで、倒れたりしないように気を付けなければ。
三区画を水やりし終えると、慣れてきたとはいえ、やはり魔力操作で疲弊してきて、頭が重くなる。
魔力自体はまだまだ十分持ちそうだったが、言われたとおりポーションを飲んで、マッド君三号の横に腰を下ろした。
マッド君三号はいつもの困り顔でフィオナをじっと見つめると、おもむろに手を動かして、フィオナの頭にのせた。いつもシキがフィオナの頭を撫でるのをみて覚えたのだろうか。そのまま撫でるように、ぎこちなく手を動かしているのを見て、思わずふにゃっと笑ってしまう。
「ふふふ、ありがとう。マッド君三号」
マッド君三号とは仲良くやっていけそうだ。
ポーションのおかげか、みるみる身体が軽くなってきたフィオナは、立ち上がると、残りの水やりをすることにした。終わってみると、掛かった時間は前回とあまり変わりないが、休憩とポーションのおかげで、前みたいにどっと疲れて、倒れ込むという事はまるでなかった。
研究棟のある方の森を見るが、まだシキはこない。
フィオナは、マッド君三号の横で、腕を頭の上に組んで、ごろりと寝転がる。
ガラス張りの天井の向こうに、青い空に、ぽこぽこと白い雲が浮かんでいるのが見えた。
いい天気だ。少し強めの風が吹き抜けると、チューリップ達がわさわさと揺れる音が聞こえてきた。
気持ちいいな。
フィオナは目を閉じると、ぼうっと、植物の音と、風を身体に感じる。
ここにずっといたいなあ。
自分は本当に三ヶ月後ここに残してもらえるのだろうか。
シキは絶対にフィオナを他に渡さないと言っていたが、魔導士長が本気で権力を振りかざせば、そうも言ってはいられないのではないか。昨日だって、各部署から、申請書が来たし、アザリー室長とシキのやり取りはちょっと怖いくらいだった。
なぜか急に不安が押し寄せてきて、胸が苦しくなる。
不覚にも泣きそうになってしまい両手の甲で目を覆った。
きっと今日がこんなにも気持ちがいいせいだろう。
「フィオナ、大丈夫?具合が悪い?」
いつの間に来たのか、すぐ横でシキの声がした。
ぱっと顔から手を外すと、心配そうにシキが覗き込む。
「シキ!」
「フィオナ、どうしたの?何かあった?」
「いえ、何も、気持ちがよくて寝転がっていただけです」
「そんな顔じゃないよ」
フィオナは自分が泣きそうな顔をしていると気づいて、慌てて起き上がる。笑おうとするが、急に切り替えられずに、変にこわばった笑顔になってしまったのが分かった。
「本当に、なんでもないんです!シキ、私、ちゃんと水やりできましたよ。今は倒れていた訳ではではなくて、本当に、風が気持ちよくて、つい寝転がってただけです」
シキはじっとフィオナの顔を見る。
「僕がついていなかったら不安にさせた?」
「ち、違います!」
「じゃあ、ここで働くのが嫌になってきちゃった?」
「そんなわけないじゃないですか!」
「じゃあ、なんでそんな顔してるの?」
シキはフィオナが話すまで、問い詰めるのをやめない。
「違うの……」
「ちゃんと言って」
「本当に、楽しくて、ここで寝転がっていたら、すごく気持ちよくて……」
「うん」
「三ヶ月後も、私ここに居られるのかなって不安になって」
「君が望めばいつまでだって居られるよ。どうしてそう思うの?」
「昨日の申請書の事もあるし、もし、本気で魔導士長が転属させようとしてきたら、どうしようもないんじゃないかって」
うつむいて振り絞るようにいうフィオナの頬に、シキは両手を添えて、目を合わせ、優しく微笑む。
「大丈夫、僕とルティがそんな事させないから」
「でも……」
「フィオナは何か勘違いをしているんじゃないかな?」
シキはそう言うと、にっこりと笑う。
「この王宮魔導士達の中で一番偉いのは、魔導士長じゃなくて、ルティだから」
「え?」
「ルティは元魔導士長だったんだよ。結構前の話だけどね。今の魔導士長なんか、ルティにしてみれば、ただの部下みたいなものなんだよ。それに、魔植物園は特別なんだよ。金色のローブだからね。金色はね、国王の色なんだ。だから、制服に金色が入っている人物の発言は、国王の発言として受け取られるほどの権力を持っている。だから他がごちゃごちゃ何か言ってきても、ルティが渡さないと言えばそれで終わり」
「ほ、本当ですか」
「うん、本当。僕は嘘はつかなよ」
この前ロアルには、嘘ついたくせにと、おかしくて、吹き出してしまう。
「やっと笑った」
頬から離れていった大きな手は、フィオナの頭を撫でる。
すかさず、横のマッド君が真似をして、フィオナの頭に手を伸ばた。
「おや、マッド君三号が、新しいしぐさを覚えたね」
楽しそうにシキが笑う。
フィオナもそれに満面の笑みを返した。
「さあ、お昼ご飯を食べに帰ろうか」
シキが差し出した手をフィオナは掴んで立ち上がると、もう心配事は吹き飛んで、安心感に包まれるのだった。