第八話 とある夫婦の会話 キャナル
文中には近親婚に関する描写があります。
不快に思われる方はご注意下さい。
夕陽が完全に沈む前にマリアを家に送り届けた私は、斜向かいの自宅へ向かって歩く。
別れ際、マリアが心配していたけど大丈夫なのを私は知っている。ここ、元貴族が住む住宅街は拠点の中でも特に治安はいい場所だ。
元がつくが、貴族は幼少の頃から高い水準の教育を受けているために、団員となった者たちは総じて即戦力になっている。
私の夫のフォートレスは人身掌握術や領地経営学を生かして副団長の地位に就き、傭兵団の運営をしているし、私だって文官として日々書類をさばいている。
マリアの家族もそう。御父上は一国の財務大臣の経験者。細かな違いはあるけれど、その処理能力は得難いものがある。
なにせここは膨大な数の人間が行き交う自治都市であり、戦闘集団でもある。
お金の管理は大切で、必要不可欠。
だから年がら年中財務関係の部署は忙しい。常に仕事があり、また高水準の計算や事務処理が求められる。
だからとは言わないが、常に人手不足だ。
そんな所に最高の人材が入ってきたので財務関係者は両手を挙げて歓迎した。
というよりも。いくら即戦力で年上だからって先輩が新人の能力に助けられるのはどうかと思うわ。
いえ、私も分かっているの。一国の大臣という、文官の最前線を戦い抜いてきた猛者なのだから、人を使うことにも長けているのだし、自身も一級の人材なんだから。
お陰で滞りがちな仕事が驚くほど速やかに処理されていっているし。
まぁ、これは一例だけれど、他の者たちだってそれぞれの分野で頑張っている。
そんな者たちの住む家の周辺が治安の悪いはずがない。
ただでさえこの拠点内は【拠点防衛戦士団】が交代で巡回している。彼ら彼女らは対人戦においては無類の強さを発揮する猛者揃いだ。その上、訓練と称した殺し合い一歩手前の戦闘をこなして生き残っているのだから、弱い訳がない。
さらに言えば、この一帯には信頼できる防衛戦力も揃っている。何かあればすぐに対応してくれる。
「ただいま」
「おかえりなさいませ、キャナル様」
自宅に戻れば、出迎えてくれたのは使用人のディエナ。
私たちのような元貴族の自活能力は最低。なのでこうして専属ではなく、依頼して派遣してもらう使用人経験者たちに協力してもらっている。
私も貴族でなくなってから自炊能力を高めようと頑張ってはいるのだけど、どうもうまくいかない。それに、仕事があるとどうしてもそちらにかかりきりになってしまう悪循環。
なので彼女たちに頼ってしまう。
「ごめんなさい。任せてしまって」
「いつも言っているではありませんか。こういった仕事こそが私たちの為すべき事。今さら別の職業につくよりも、こうして経験を生かせる現状はありがたいことです」
「もう貴族じゃないんだから、あまり甘えていちゃいけないのにね」
自嘲する私に、ディエナは生真面目な顔で首を横に振る。
「人間、誰しも得手不得手があります。それに、皆様が自立してしまったら、私たちが困ってしまいます」
そこも問題なのだけどね。
自立しようと思うけど、したらしたで彼女たちが職を失ってしまう。でも平民になった私たちがいつまでも使用人のいる生活を享受している訳にはいかない。でも彼女たちが今の生活を捨てるには多大な苦労があるし、私たちも同様だ。
「その点については、追々、ということでいいのではありませんか。ささ、御夕食もできております」
「ありがとう。あ、旦那様は戻っている?」
「いえ、少々遅くなるそうですが、夕食はこちらで御取りになるそうです」
「そう。よかった」
副団長としての仕事を日々こなしている夫は忙しくて、帰宅できない時も多々ある。
……それもこれも、あの男がロクに仕事もせずに遊び歩いているからよ!
大体なんなの!? 愛し合う夫婦には時間はあればあるほどいいのに、それを無視して仕事を全部丸投げした上でそれが当たり前のような顔をして!
自分は独り身だからって、嫉妬? 嫉妬してるの? だったらさっさと相手を見つけてしまえばいいのに! そうすれば愛する人との時間を奪われる苦しみがどれほどのものか分かるのに!
「どうしました?」
「……いえ、なんでもないわ」
落ち着きましょう。
食堂には美味しそうな夕食が並べられている。私が作ったらこうはいかない。
ありがたく食べよう。
「いただくわ」
「はい」
食事をしながら、思う。
誰かと一緒に食べる食事というのは、とても美味しいものね。
今日の昼食は四人でお喋りしながら、とても楽しかったわ。
……いつか、私もここで、子供と一緒に食事をすることがあるのよね。
夫が仕事をこなすのは能力もさることながら、大きすぎる恩を返すため。それは私も一緒だ。
私たちは国を追われ、絶体絶命の場面を団長に救われた。その後、こうして二人で暮らせる場所と能力を生かせる職を斡旋してくれた。
さらには、私の治療まで。
これだけでも私たちは一生掛かっても返しきれない恩がある。それを思えば夫がこうして働いている状況で文句を言うのは筋違いだと分かってる。
理性では分かっていても、感情では納得できないの。
それに、私たちの間に子供が出来るのは少なくともあと数年は必要なのだから。
しばらくはこのままの生活のまま。
「御馳走様。おいしかったわ」
「ありがとうございます。湯の準備も出来ておりますが、如何します?」
「少ししたら、入らせてもらうわ」
ディエナが流れるように食器を片付けると用意してあった食後のお茶を淹れてくれる。
こういうのを普通に受け入れてしまうから、ダメなのよねぇ……。
「本日は新しく入団された方をご案内されたのですよね?」
「ええ。私と、ミティと、エムリンの三人でね。あと、正確には団員の家族よ。私の二つ年下の女の子」
そう言えばまだディエナはマリアの所には行っていないのよね。
派遣される使用人たちは皆優秀で、家事はどれもこなせる。大概の事は一人いれば事足りる。
でも、新しく入団した者たちを担当するのは、決まって年嵩の者たちだ。これは単純に人生経験の差でしかない。
貴族から平民になってここに来たということは、国を理不尽に追われたということ。
団長が動いたのだから、そこは確定。欲にまみれて没落したのなら、あの人は絶対に動かない。確実に見捨てる。
保護された元貴族は情緒が不安定で、若い使用人では突発的な事態に対応することができないから、そのあたりを心得た者が様子見も含めて受け持つのだ。
しばらくして落ち着き、大丈夫だと判断されれば彼女のように若い使用人たちが派遣されるようになる。
でも、マリアの家族はそこらの貴族とは胆力もバイタリティーも違う。お父上は清々したと言わんばかりだし、お母上も平民としての生活を前向きに楽しんでいる。ご兄弟は……元々貴族生活に何の未練もないみたいだし。
ただ……、マリアだけは違う。
それが、今日のことで分かった。
「そろそろ湯浴みするわ」
「はい」
お腹も落ち着いたし、早めに済ませてしまおう。
今日のことも報せなくてはならないしね。
◇◇◇◇◇
湯浴みを終え、寝室で報告書をもうすぐ書き終えようとした頃、ドアがノックされる。
あら、もしかして?
「キャナル様、フォートレス様がお戻りになられました」
「そう、今は夕食を?」
「はい」
「分かったわ。ご苦労様」
ナイトガウンを羽織って部屋を出る。
出来ることなら玄関でお出迎えしてみたいけど、さすがに帰宅時間がまちまちだとどうしても、ね。
「おかえりなさい」
「ああ、キャナルかい。ただいま」
ゆったりと食事をとるのは、夫のフォートレス。傭兵団【獅子の咆哮】の副長にしてこの拠点の最高責任者。いわば領主だ。
団長が武力のトップなら、夫は文のトップ。なのだけど、あの男が実際には団と街の運営を夫に丸投げしているのだから、一番偉いのは夫なのだ。誰がなんと言おうと。
ふと気がつけば、食事の手を一旦止めた夫がクスクスと笑っていた。
「眉間に皺が寄っているよ」
「それはそうよ。もっと一緒にいる時間がほしいわ」
外では絶対に言わない言葉。
対外的には私は出来る女として隙を見せない。見せたくない。
でも私だって一人の女として、愛する人に甘えたい。
「ハハ、ごめんごめん。でも新しく入った人がいるからね。これから先はもう少し楽になると思うよ」
「マリアの家族のこと?」
「うん。カインズ殿は財務の文官としては頼りになる人だね。三男のトリステスも文官としての能力は高い。これからどんどん仕事を覚えてもらうさ」
そう。良かった。割り振れるなら割り振っていかないと。ただでさえ目一杯仕事を抱えているんだし。
でも不思議なのよね。普通なら嫡男に仕事を継がせるのに、三男が文官で、上の二人は武官なんて。
「そこは家庭の事情というものだろう? 彼らにも色々あったのさ」
あまり詮索しても仕方がない、か。
「そういえば、今日は一日、楽しかったかい?」
「ええ、いい気分転換になったわ。あの子、すごくいい子ね」
「そうか。それは良かった」
他愛ない会話。
でも、こういう事が出来る環境はとても大事ね。
ゆっくりと、でもしっかりと夕食を平らげた夫は満足そうにお腹を撫でる。
「ディエナ、今日はありがとう。おいしかったよ」
「ありがとうございます。この後はどうしますか?」
「う~ん、湯浴みをしたらゆっくり休むよ」
「かしこまりました。では、食器類を片付けましたら、私は失礼させていただきます」
「また何かあったら頼むよ」
「はい。それでは」
夫が湯浴みに向かい、その間にディエナは素早く丁寧に食器を片付けてしまう。
本当に、どうしたらああなるのかしら。私は丁寧にやると時間がかかりすぎるし、素早くやるとお皿を割ってしまう。
不器用ではないのよ? 本当よ?
「それでは、私はこれで」
「あ、うん、ありがとう。気を付けてね」
ま、彼女をどうこうできる輩は拠点には数人しかいないけどね。その数人も、老人か恐妻家かヘタレだし。
さて、夫は湯浴みにはそこまで時間をかけない。今のうちに家の戸締まりを確認し、寝室へと戻る。
書きかけの報告書を素早く仕上げた後、夫のために湯上がりの一杯を用意する。
あの人はあまりお酒に強くないから、嗜むのは果実酒。よく冷えたお気に入りの一本を備え付けの小型冷蔵庫から引っ張り出す。
この冷蔵庫というのは本当に便利ね。飲み物を適度に冷やしておけるし、氷も作って保存できるのだから。これだけの魔道具を使えるのは王族クラスでもそうはいないわ。
あ、そうだ。ツマミも何か用意しようかしら。
そうこうしているうちに夫が寝室へと入ってきた。
「どうしたんだい?」
「あ、オツマミ、いる?」
「さっき食べたばかりだから、いいよ」
夫はそのままベッド脇のソファーへ座った。
いらないというのなら、グラスを二つに果実酒のビンを持って私も夫の隣へ。
「今日も一日、ご苦労様」
「ありがとう」
二人でいつものように乾杯。
軽く口を付け、本日の報告会だ。
「いやぁ、マリアルイーゼ君が来てくれて助かったよ。団長が素直に起きてくれるから朝から仕事が進む進む」
「あの寝坊の常習犯が、ねぇ」
ウチの団長は本当に朝が遅い。放っておけば昼を過ぎても起きてこないこともあった。仮にも団長なのだから、その辺りはしっかりとしてほしいのだけど。
ただ、不可思議なことが一つ。
こんなにも迷惑を被っているというのに、一部の者は団長を擁護する。それも古参とも言える初期メンバーが。
古参たちはほぼ団長の崇拝者と言えるほど彼を信頼しているから、そのせいだと最初は思っていた。
けれど、最近はなにかしらの理由があるのではないか、と思っている。それだけ私にはおかしく見える。
「団長は、なにかの病気? それとも、何か理由があるのかしら?」
「う~ん……まぁ、団長のことはもういいよ。マリアルイーゼ君に頑張ってもらうから。あ、そうだ今日はどうだった?」
そう言って夫はグラスを空にする。
少し、苛立つ。
ここの傭兵団は結構団長の扱いが軽い。いえ、その裏には彼への信頼がある、いわば気心知れた友人たちの間のやり取りなのだけど。
それでも夫の台詞は、どこか誤魔化しが含まれている。ずっと一緒にいた私には分かる。
でも、聞かない。
夫が話さないのなら、何かしら理由があるのだろう。
それに、団長のことよりも今日のマリアのことよ!
今日のマリアのことについて語りに語ったわ。だって可愛いんだもの! ミティやエムリンも可愛くて仕方ないけれど、マリアもマリアでそそるものがたくさんあって言葉がどれだけあっても足りないわね。
「ハハ、相変わらずキャナルは可愛いものが好きだね。でも、外では出来る女の仮面を外せなくて、思う存分可愛がれなかったってところかな?」
「仕方ないじゃない。そう簡単には素の自分は見せられないわ」
私は可愛いものが好き。
可愛いにも種類があるけれど、私は自分より年下の子供を特に可愛いと思う。小さな子供たちは力一杯抱き締めてしまいたい。ヤンチャでおませな男の子は頬擦りも追加で。女の子なら膝の上に乗せて絵本を読み聞かせたい。
ある程度成長した男の子には食指が動かなくなるが、女の子は別だ。
マリアは私の二つ下。十分に範囲内。
でも、幼い頃から公私の切り替えを叩き込まれた私は、外では真面目で仕事の出来る女としての仮面を装着してしまう。
さすがに貴族ではなくなったために仮面にも綻びが生じ始めていて、たまに本音が漏れてしまうことも多くなったけど、素の自分をさらけ出すにはまだまだ時間が必要よね。
決して恥ずかしい訳ではないわ。
「うん、でも、そうか……。マリアルイーゼ君は、楽しんでいたか」
「? どうしたの? 何か気になることでも?」
随分と喋っていたせいで渇いた喉に果実酒が染み渡る。酒精がほとんどないからどんどん飲めちゃう。
「いや、どうにも、マリアルイーゼ君は、その、なんだ。あまりにも、一般的な貴族令嬢とは思えないんだ」
「どういうこと?」
空になったグラスにお代わりを注ぎながら問いかけると、夫は眉間に皺を寄せながら天井を仰ぎ見る。
どう言ったらいいのか、思案している時の癖だ。
「マリアルイーゼ君は、ジェシカさんの服を見て、どういう反応をしたって言ったっけ?」
「もちろん、質の良さに感動していたわ。普段着を数点、買ったし」
「それは、誰が選んだの?」
「もちろん、マリア自身よ」
いまいち、夫が何を言いたいのか分からない。
「じゃあ、おやつに甘いものを食べたと言ったけれど、メニューを見た彼女の反応は?」
「どれにしようか悩んでいたわね。どれも美味しいから」
「一個一個、どのような菓子か、説明した?」
「え? ……いえ、してないわ」
そう言われると、どれも美味しいとは伝えたけれど、どれがどのような品かは説明をした覚えはない。もちろんミティやエムリンも。
「何が言いたいの?」
「マリアルイーゼ君は、以前にここに来たことがあるのかな?」
「いえ、ないでしょう」
「それにしては、順応しすぎてる気がするね。僕たちがそうだったけど、ここは外の国々とはモノが違いすぎるから、最初は何が何だか分からなくて混乱していたものだ」
ええ、そうね。
ここに来た時はそれはもう驚いて、驚きすぎて、疲れてしまった。
だって、生まれ育った国よりも文化水準が高いのだから。何よあの魔道具の数々は。当時は今のものよりも旧式だったけど、それだってとんでもない代物に変わりはないし。
「服だってそうさ。製法は詳しくないけど、素人の僕でも分かるほど質もいいし、何より着やすいし着心地もいい。貴族の礼服よりもね」
確かに。
今のように寝るための寝衣だって、ここで買った物の方が着心地が良くて楽だ。令嬢だった頃のものはもっと繊維が固く、たまに肌に擦れて痛い時があった。
「食事、特に先程言った甘味などは、ここにしかないものが多い。つまり、他国ではお目にかかることはまずない」
女性に嬉しい甘いもの。
入っているかどうか分からないくらいの量の砂糖やハチミツなどではなく、口一杯に頬張れるほどのクリームを使ったシュークリームを食べた時のあの衝撃……!
「僕の予想では、彼女のような箱入り娘は終始混乱し続けるものだと思っていた。でも、話を聞いていると彼女はまるでここにある物を予め知っているような印象だ」
「団長が教えておいたのでしょう?
自慢したがりだから」
団長のことだからそれはもういい笑顔で説明したんじゃないかしら。そもそも実際の製作はそれぞれの職人が担当したけれど、言い出したのは団長だ。
茶飲み話には最適ではないのかしら。
「……それなら、いいんだけどね」
「さっきからどうしたの? 何か、マリアのことを疑っているように聞こえるのだけど?」
「……不信感は、あるよ」
「なにそれ?」
声が、思わず低くなった。
「あの子は、疑われるような娘じゃないわ。根が真面目で、ちょっと考えすぎるのはいただけないけど、善良な女の子よ」
触れあった時間はまだ少ないけど、あの娘は信用できるわ。私が可愛いものが好きっていう性分を差し引いても、ね。
誰かを騙したり、貶めたりできるほど心が汚れている人間があれだけ無邪気な笑顔で甘いものを食べないわ。買い物の途中で人混みではぐれそうになったエムリンを気遣って手を繋ぐ? それを羨ましがったミティとも手を繋いで、照れくさそうにしながらも嬉しそうに笑う?
友人として、もっと砕けた口調で話してほしいと言ったら、顔を真っ赤にして、ぎこちなくでも口調を変えてくれたあの娘の、何を疑うというのか。
「団長もおかしな知識を持っているけど、マリアルイーゼ君も少々おかしな点がある。団長が欲しがっていた調理法を知っていたんだ。あのミソとかいうのを使ったスープの」
団長が態々転移魔法を使って遠方から買って来たという、あの、見た目の悪いものね。調味料と言っていたけれど、あれを嬉々として食べようとする団長の気が知れないわ。いくら豆が原料とはいえ、腐っているのだから。
……マリアがあれを使ったスープの調理法を知っていた?
「団長が試行錯誤していたのは知っているだろう? それなのに彼女は容易く調理して、団長はそれに満足したんだ。おかしいとは思わないかい? 侯爵令嬢が手際よく調理器具を扱っているのは、まぁ、よしとして。僕らでも初めて見るような食材の、よくわからない調理法を何故彼女は知っているのか。良くも悪くも予想の出来ない団長が満足できるものを何故知っているのか」
夫はグラスに残っていた果実酒を一気に煽り、
「彼女は、いや、オルソフォス家の人間は全員、わざと送り込まれたのかもしれない。【獅子の咆哮】の柱である団長をどうにかするために……」
「フッ」
思わず、鼻で笑ってしまったわ。
夫はそんな私を驚いた表情で見つめてきた。
「あの娘は心に傷を負っている。それも重傷よ。ほんの少しの切っ掛けで傷口が開くほど、ね。驚いたわ。瞬きしたら表情が抜け落ちて、今にも倒れそうになるんだから」
どの部分が彼女の心の傷に触れたのかは分からない。でも、そんな状態に陥る原因は分かる。
あの娘は生まれた国で頑張って、頑張って、頑張り抜いた結果、陥れられた。たかが令嬢一人が城の宝物庫に忍び込めるはずないじゃない。彼女の証言とウチの諜報員の調査結果からの判断だけれど、罠に嵌められたのだ。
箱入り娘がそんなことに巻き込まれれば、確実に心を病む。実際、マリアもそうだし。
その家族に至っては、当主も奥方も兄弟たちだって国から酷い仕打ちを受けて最早未練の欠片もないほど清々した表情だ。
監視している者たちからも、祖国と連絡をとっていたりとか不穏な動きはないという。
あとは、団長が受け入れているというのも理由の一つ。
もし私たちすら気が付かないほどの演技上手だったとしても、彼はそれを見抜く。そして、処理するだろう。
それが無いというのなら、マリアもその家族も、団員として受け入れられる人材ということだろう。
「考えすぎよ。それに、マリアが何故そんなことを知っていたのか分からないなら、直接聞けばいいわ」
「いや、それは」
「それで怪しい動きをすれば対処すればいいし、何もなければそのままでいいじゃない? 私は特に何もないと確信しているけれど」
私の言葉に不満があるのだろう。眉間に皺を寄せて唸る夫。
そう心配しなくてもいいと思うけど、夫の立場ではそうはいかないのも理解できる。
【獅子の咆哮】は私たちにとって、失いたくない新しい故郷なの。
力が足りず、元いた場所を追われ、絶望のまま死ぬしかないと思っていた私たちを温かく受け入れてくれた場所。
ここを守るためなら、どんなことも厭わないと誓った夫。
私の愛しい旦那様。
あ、ダメ。我慢できない。
「ねぇ、お兄様」
「キャ、キャナル?」
ゆっくりと夫の腕を抱き、胸の膨らみを押し付ける。すると気難しい表情が一転して真っ赤になる。
こういう所、好きだわ。
「お兄様は悩みすぎよ。私たちだってここが好き。ここを奪おうとするような輩とは断固として戦うわ。もう、あの頃の無力な子供ではないのだから」
私と夫は、元はとある国の公爵家の人間だった。父も母も同じ、血の繋がった実の兄と妹。血を分けた家族。
欲にまみれた貴族たちによって両親は殺され、私たちは何とか命からがら生き延びた。
それから紆余曲折あって、元から一人の殿方として慕っていた兄と結ばれたの。
貴族の中には純潔主義というものがあって、近親婚も度々行われてきた。だからという訳でもないけど、兄も最終的には受け入れてくれた。
とはいえ、純潔主義に傾倒している訳ではないの。ただ、愛した人が実の兄で、結ばれるための理由付けに引用しただけだけど。
その事実を知っているのは、拠点では団長含めて片手で足りるほど。特に言いふらす必要ないしね。
「んふふ、ねぇ、お兄様ぁ」
「な、なんだい?」
二人きりの時だけ、昔のように呼ぶ。
おねだりの、サイン。
「あまり悩んでいても、いいことはないわ」
「そ、そうかな? そんなことは……」
「あ・る・の」
声が裏返って、慌て出す夫は可愛らしい。
「もうお仕事は終わり。あとは、夫婦の時間にしましょう」
「そ、そうだね!」
夫の許可も取ったことだし。
いただきま~す♪
フォートレスさんは未だに奥さんに迫られると声が裏返ります。
キャナルさんは肉食系。