僕の前にいるあなたは誰でしょう?
あれから、由香里さんに謝罪のメッセージやメールを送っても梨の礫。
電話をかけても出てもらえず、僕はすっかり途方に暮れていた。
彼女は確かにおびえていた。
おびえさせたのは僕だ。
彼女の甘く柔らかい肌の感触に、止めようがなくなっていた。
最初は確かに怒っていたのに、その唇を味わった途端、何もかもがどうでもよくなって。
彼女の制止の声がなければ、あそこが駐車場で、車の中で、外を動物園に来た親子連れが歩き回っているにも関わらず、僕は自分を止められた気がしなかった。
「どれだけ余裕がないんだ、僕は……」
たった三ヶ月「彼女」がいなかっただけだ。
しかも、僕は「彼女」とのああいう行為にそれほど積極的と言う方ではなかった。
過信していたのか。
由香里さんを前にすると、僕はこれまでのペースを維持できず、動揺することばかりだ。
夕方、今日のシフトはこれで終了なので、僕はスマホを握りしめつつ、帰路につく。
由香里さんの姿だけでも見たいと思い、うっかり彼女の最寄り駅で降りそうになったが、ぐっと我慢した。
万一、彼女が僕の姿を見て悲鳴でも上げたら、もう立ち直れる気がしない。
家に入ろうとしたところで、スマホが震える。
慌ててディスプレイを見ると、由香里さんからのメールが届いていた。
今から、彼女の家の近くの喫茶店で会えないか、というものだった。
家の鍵を出しかけていたにも関わらず、僕はきびすを返して、地下鉄駅に急いだのであった。
黒と白をモチーフとした喫茶店。
ドアを開けると、中は間接照明を利用した静かな空間が広がっていた。
きょろきょろと見回しても、由香里さんの姿はない。
まだ、来ていないのだろうか?
どこに座ろうか、と考えていると、窓際の席に座っていた女性が片手をあげた。
僕の後ろに新しい客が来たのだろうか、と振り返るも、誰もいない。
もう一度彼女を見ると、その女性は明らかに僕の目を見て、手で招いてくる。
静かな店内に遠慮して、僕はその女性に近づいてから、「誰かとお間違えでは?」と尋ねた。
しかし、彼女はしっかりと僕を見て、にっこりと笑ってみせる。
「いいえ、あなたで間違いありません。片桐司さん」
芝居がかった仕草で立ち上がって、丁寧に腰を折る。
「どうぞ、こちらにおかけください。
あ、自己紹介が遅れましたね。前に一度会っていますが。水田万里子、と申します。
あれです、あれ。由香里の保護者だと思ってください」
水田さんは、由香里さんのスマホを手の中で揺らしながら、僕にイスを勧めてきた。
オフホワイトのボレロの下に、ふんわりとしたピンクのワンピース。
長い髪はきれいなライトブラウンで、ポニーテールの先っぽはきれいにカールしている。
甘めの顔立ちは美人と言ってよく、所謂「モテそうな女の子」と言うイメージだ。
そんな女の子が、ニコニコ笑いながら、メニューを勧めてくる。
僕は落胆を隠せないまま、メニューも見ずに、店員にコーヒーをブラックで頼んだ。
辺りを何度見回してみても、由香里さんの姿はない。
「由香里ならいませんよ。ここにいるのは、私だけです。是非、片桐さんと話したくて」
明るいオレンジの口紅を引いた、艶っぽい唇をちろりと赤い舌が舐める。
「二人っきりで、深く知り合えたら、と思ってます」
短く区切りながら、水田さんはいたずらっぽく僕を見つめる。
何故か、背中がざわっとした。
「すみませんが、水田さん。僕は由香里さんに会いに来たんです。由香里さんがいないのであれば、僕は失礼します」
頼んでしまったコーヒー分として、千円札を置いて、椅子から立ち上がる。
水田さんの白い手が、千円札の上の僕の手に重なる。
ひんやりとして、その冷たさがどうしても不快だ。
「由香里のことがそんなに気になるんですか? これでも?」
水田さんは由香里さんのスマホを思わせぶりにぶらぶらと揺らす。
そのスマホには、写真が写っていた。
それは、パーカーを着たラフな服装の由香里さんと、彼女に笑いかけて何か言おうとしている男性の写真だった。
男性は、僕よりやや年上だろうか。
由香里さんの目には、安心しきった色があった。
ズキン、と胸が痛む。
声を失って動けなくなる僕に、水田さんはピンク色の唇をゆがめ、蠱惑的に微笑んだ。
「これでも、由香里に義理立てします?」
何が楽しいのか、彼女の声は歌うように弾んでいた。
その声をかき消すように、僕はテーブルに掌をたたきつける。
水田さんの飲んでいたカップや、シュガーポットがカタカタと鳴ったが、気にならなかった。
僕たちの他に客はいないが、カウンターにいた年輩のマスターが、怪訝にこちらを見つめてきた。
水田さんは、そんなマスターに「なんでもない」と言うように手を振り、実際、僕の乱暴な動作などなかったかのように、優雅にコップを傾けた。
主導権をすべて握っています、とでも言うような余裕の所作に、僕はよけい腹が立ってくる。
「その写真の意味も、僕はあなたから聞きたいとは思わない。もう一度言います。由香里さんと話せないのなら、ここにいる意味はない」
水田さんを睨みつけ、断言する。
水田さんはそれをキョトンと聞いていたが、次第に、今までのニコニコではない、ニヤリと言う笑みに表情を変え、よかったわ、と呟いた。
何かの言い間違いだろうか?
「は?」と聞き返すと、水田さんは勢いよく立ち上がり、僕の右腕の裾を掴む。
「み、水田さん? 僕はあなたとは……」
「いいから、こっち来なさい。由香里が待ってるわよ」
その名前を聞いたとたんに、心臓が別の意味を持って跳ねる。
「由香里さんが……いるんですか?」
「ずっといるわ。話も聞いていたわよ。これで、全部、聞かせていたから」
オフホワイトのボレロには内ポケットがあったようで、そこからもう一台のスマホを取り出す。
こっちのスマホは電話中という表示になっていた。
つまり、ここでのやりとりをずっと聞いていた?
何故?
そもそも、水田さんはどういう立場の人なんだろう?
ハテナが頭の中でぐるぐる回る。
喫茶店の奥には細い廊下があり、何故か小上がりのスペースがあった。
その中の一室、襖の奥からガタン、バタン、と音がする。
水田さんは、「何やってんだか」と呟きながら、音がする部屋の襖を躊躇なく開いた。
「あ……」
「……すまん」
そこには座布団の上にうつ伏せに倒れた由香里さんと、その上に多い被さる写真の男性がいて……。
僕の思考が完全に止まった。
その瞬間、男性の頭にハリセンが勢いよく降り、スパーン! と言う景気のいい音を響かせた。
僕の金縛りが解ける。
男性の頭を叩いたのは、水田さんだった。
彼女は腰に手を当て、小上がりにあがって仁王立ちになる。
「申し開き」
低く呟くと、男性と由香里さんはそろって正座をした。
このときようやく、僕は水田さんが誰なのかが判った。
由香里さんの話によく出てきた幼なじみで親友。
じゃぁ、男性は……。
「誓ってやましいことはしていない。おまえの言ったとおり、江端を押しとどめていた」
男性はすました顔でさらっと言う。
美女が怒ると怖い、と言うが、水田さんのあの憤怒の顔を見て、すましていられるのはただ者ではない。僕の予想はあたっているだろう、と思われた。
「涼介の弁明は聞いた。由香里、あんたは?」
「だって、だって! 司さんをあんなにいじめるなんて、聞いてないから! 確かめるだけって言ってたじゃない? 何であんなひどいこと言うのさ!」
水田さんが顎をしゃくるように由香里さんを促すと、由香里さんは身を乗り出して抗議を始める。
たまに僕を指さしながらも、水田さんの表情に怖じ気付くこともなく。
あぁ、この声だ。
高すぎず、低すぎず。
キラキラする気持ちが隠れている可愛い声。
柔らかく耳に響く、由香里さんの声。
「だから、すぐに出て行って文句言おうと思ったら係長が、ひゃ、ひゃぁ!!」
由香里さんは、急に悲鳴を上げて、抗議を辞めてしまう。
「お願いだから、声を聞かせて?」
彼女を抱きしめる腕に力を込め、耳元で懇願する。
「由香里さん?」
もがく彼女をもう逃がしたくなくて、きつく、でも彼女を怯えさせたくなくて、優しく、抱きしめる。
僕の腕の中で、由香里さんはまた首まで真っ赤に染めて、涙目になって僕を見上げた。
「大切にします。だからもう、逃げないで?」
茶色い虹彩をじっと見下ろし、優しく囁くように、ひたすら許しを請う。
「あ、あの……わた、私……」
由香里さんは、僕の胸元をぎゅっと握りしめ、あわあわと慌てふためく。
幻のしっぽがぽんぽん跳ねるように揺れている。
「まだ……間に合うかな?」
君を失わずに、すむのかな?
交わった視線を逃がさないよう、彼女を見下ろし続ける。
「はい、ドクターストップよ。由香里が限界だわ。片桐さん、色気ダダ漏れだから」
水田さんが僕たちの間に割って入り、由香里さんを背に隠すように立つ。
「そうだな、君の声は確かに破壊力抜群だな。江端が限界みたいだ」
少し離れた場所に正座したままだった男性が、くくっ、と喉の奥で笑う。
確かに由香里さんは、水田さんにすがりつくように座り込んでいて、顔は湯気が出そうなほどに真っ赤になっている。
水田さんは僕と由香里さんを見比べ、呆れたようにため息をついた。
「いい? あんた達に必要なのは会話よ。今までみたいな、一方通行ずつじゃない。ちゃんとした会話。ここはそのための場所。OK?」
つまり、僕は水田さんの眼鏡にかなって、彼女の用意した由香里さんとの会談の場へと通されたらしい。
さっきまでの水田さんがすべて演技だとしたら、とんだ女傑である。
水田女史、とでも呼ぶべきか。
由香里さんを見ると、彼女は僕をちらっと見た後、水田女史に向かってコクコクと頷いて見せている。
水田女史の次のターゲットは当然僕だ。
僕も異論はないから、力強く頷いてみせる。
水田女史は満足そうに頷いて、奥にいた男性を促した。
「じゃぁ、ここからは二人で話し合いなさい。私たちはもう帰るから」
「万里子!」
「ん? 何?」
「ありがとう。大好き」
涙の滲んだ目で、由香里さんが女史に微笑みかける。
何て綺麗な笑顔だろう。素直にそう思う。
多分、造形的には水田女史の方が美女と言うに相応しい。
でも、僕にはこの由香里さんの、ちょっと脱力しちゃうような、口を半分開いて歯を見せたへにゃっといった感じの笑顔を、毎日でも見ていたい、と思ってしまったのだ。
僕の前には、君にいてほしい。
だからこの気持ちをちゃんと君に伝えよう。
僕がずっと見ない振りをしてきた、この気持ちを。
20161123 誤字を訂正いたしました。