私の出番
お待たせいたしました。
続きです。
どこをどう歩いたのか、全く記憶にない。
途中で地下鉄にも乗ったはずなんだけど、憶えてない。
気がつくと私は、レンガ色の屋根の一戸建ての前に立ち、呼び鈴を鳴らしていた。
モニター越しに私を確認しただろう万里子の叫び声が、スピーカーから響いてくる。
「由香里! あんた、……待ってなさい!」
ドタバタと足音が響いて、樫の木に似せた重厚な玄関ドアが勢いよく開く。
彼女の手には大きなバスタオルが握られていて、私は小首を傾げる。
万里子は、ピンク色に可愛いタオルで私の頭を抱き抱えるように包み込んだ。
「さっさと中に入って! いくらあんたでも、風邪を引くわ!」
そのとき初めて、私は雨が降っていることに気づいたのだった。
「ん? どうした? 江端が来たのか?」
奥から、水田係長の声が聞こえてくる。
「こっちに来んな! 風呂の用意、急ぐ!」
万里子が素早く制止し、指示を出す。
その様は、会社とは真逆で、ついつい笑ってしまった。
「……おぅ」
水田係長は、素直に返事をする。
阿吽の呼吸を見せられた気がして、微笑ましいやら、妬ましいやら。
私は複雑な心境を乗せて、重い重いため息をついた。
そうしている間も、万里子は私の頭や体をぱたぱたと拭き続ける。
私は無言。万里子も無言。
物言いたけな大きな瞳が私をのぞき込むこともあるけど、決して何も言わない。何も強いない。
少しずつ。少しずつ。私の耳に届く周りの音が大きくなっていく。
「風呂の用意、できた」
係長が、居間の方から顔を覗かせずに、声だけ響かせる。
万里子はそれを受けて、私を家に上げると、廊下からつながっているバスルームへと誘導してくれた。
係長は、キッチンからつながっている通路を利用して、いろいろと用意してくれたらしい。
正直、万里子以外の人には会いたくなかったので、とても助かった。
「由香里、着替えは私のを後で持ってくる。
脱いだのは全部、その洗濯機にいれておいて。そのジーンズ、おろしたてじゃないよね?」
「うん。何度か洗濯してる」
「了解。じゃぁ、全部一緒にいれちゃいなさい。ネットはこれを使ってね。じゃ、ゆっくり暖まってきて」
万里子が小さい子供にするように、私の頭をそっと撫でる。
私はこっくりと頷き、万里子が脱衣所を出たところで、服を脱ぎ、言われたとおりに洗濯機にいれると、バスルームに足を踏み入れた。
温かいお湯がたっぷりと入ったお風呂。
そっと手を入れると、やけどをするかと思うほど熱い。
でも、何度かちょいちょい手を入れていると、徐々に慣れてきて、それほど高い温度でもないことがわかった。
水を足す前でよかった。
思ったより、自分の体が冷え切っていただけだったみたいだ。
バスルームに備え付けの化粧落としも勝手に借り、自分とは違う香りのシャンプーで洗髪すると、何だか、今までのことが夢のように思えた。
早く中に入りたかったけど他人様の家なので、しっかり体も洗い流してから、ゆっくりと湯に浸かる。
真新しい湯の中に口まで沈み込むと、ぶくぶくと小さな泡が口から漏れた。
泡と一緒に声も漏れる。
大きなバスルームに、嗚咽が響く。
私は変に動揺して、口を押さえながら、慌てて周囲を見回す。
さっき使ったばかりのシャワーを目にして、迷わず激しい雨のように湯を出した。
湯が降り注ぐのはバスタブの中。
それを頭から浴びつつ、私はただひたすら、涙と声を湯の中に落とし込んでいった。
風呂から上がると、いつの間にか洗濯機はぐるぐる回っていて、もこもこの部屋着と未開封の下着一式、そしてふかふかのタオルが用意してあった。
親友の日常が、女子力高めになっていることに衝撃を受け、恐る恐る身につける。
高校・大学の頃は、万里子も私と同じ、Tシャツにフリースという部屋着だったはずだ。
「意外と、ちゃんと恋愛結婚だったんだな」
タオルで頭を拭きながら、親友の可愛らしい変化に笑みがこぼれる。
バスルームから出ると、リビングにはお通夜に参列した友人みたいな顔をした二人が、気まずそうにソファに体を沈めていた。
万里子が急いで立ち上がると、私のところまで駆け寄ってくる。
「部屋に行く?」
水田係長も、何故か緊張感を込めて、私を見つめていた。
私は首を横に振り、「面倒だから、二人一緒に話を聞いて?」と言ってみる。
万里子はすごい勢いで首を縦に振り、係長はそわそわしながら「お茶の用意を」と立ち上がる。
目に見えて挙動不審な二人に、私はつい吹き出してしまった。
「おっかしぃ~」
「由香里!」
「ごめん。でも、本当におかしくて……嬉しい。二人とも、大好き」
へにゃっと笑って言うと、万里子は苦虫を噛み潰したような顔になって、「ダーリンは纏めるな」と呟いた。
多分、二人とも、私が瞼を真っ赤に腫らして、声も枯らして、どうやって声をかけて良いか、わからない故の挙動不審なんだろうな。
そう思うと、本当に二人が愛しく感じられる。
私と万里子で二人掛けのソファに座り、係長は温かい紅茶をティーポットと砂時計まで用意して、一人掛けのソファに座った。
さらさらと砂が落ちていくのをみる。
二人が、私の言葉を待っているのはわかるんだけど、私は、私の中に詰まっている想いを、まだ言語化できていなかった。
係長が立ち上がって、予め温めていたカップの中の湯を捨てると、丁寧にカップの口を拭ってから、紅茶を中に注いでいく。
「砂糖とミルクはどうする?」
「えと、……どっちもほしいです」
「甘めは好きか?」
「はい、そりゃもう」
「ちょっと待ってろ」
係長は用意してある牛乳ではなく、泡立てていない生クリームを持ってきて、カップにそそぎ込む。
最後に、砂糖を入れて、軽くかき混ぜてから、私の前に置いてくれた。
「だまされたと思って、飲んで見ろ」
そっと口に含んでみる。
生クリームの濃厚な味わいが、ふわっと口の中に広がった。
ミルクティとは全く違う。
なんて、美味しい!
「係長!」
「自分の家で係長呼びはされたくないな」
「係長、係長の女子力の高さにめろめろです! その女子力で万里子を落としたんですね?」
「うっさいわ、ぼけ! 気ぃ使って黙っていれば、何、言い出してるのよ!」
私の頭にスリッパが炸裂する。
「話しやすい雰囲気作り出してやってるんだから、さっさとゲロれ! このうすらトンカチ!」
怒りの余りにスリッパを握りしめ、ソファの上に仁王立ちになった万里子を涙目で見上げつつ、私は殊勝な面もちで、ようやく午前中の顛末を語り出したのであった。
「……あの先輩、まだあんたを狙ってたのね。私があれだけ罵倒してやったのに」
聞き終わった後の万里子の感想に、私は恐れおののく。
いったいこいつは、大学時代、何をしていたんだろうか?
怖くて聞けない。
「……つまり、江端はその男性に……その、乱暴されたとかそういうことは……なかった、と思っていいのか?」
万里子と私に任せると、話が先に進まないと踏んだのだろう。
係長は非常に聞きづらいことを、慎重に確認してくる。
乱暴? あの乱暴なキスは乱暴には入らないよね?
私は小首を傾げて、こっくりとうなずいて見せた。
すると、二人は目に見えて力を抜き、ソファに沈み込む。
「え? 何、何? どうしたの?」
「どうもこうもないわよ。雨にびしょ濡れになってるし、Vネックは中途半端に伸びてるし。あんた、気づいてないみたいだけど、首と鎖骨にはっきりくっきりキスマークつけてるわよ」
「え? まじ?」
慌てて服の襟を引っ張ってみるが、自分では見ることが出来ない。
初キスマークに、何だか浮かれそうな自分がいる。
「ちょっと待って! じゃぁ、何で泣いてるのよ?!」
万里子が唐突に、悲鳴のように叫んだ。係長も腕を組んで、うんうん、と頷いている。
私は気まずくなって、美味しい紅茶に逃避……したかったが、二人の、特に万里子の鬼のような形相を前に、カップは力なくソーサーに帰って行った。
数瞬、言葉を探した後、私はゆっくりと口を開く。
「悔しかったの……」
「はぁ? 判るようにいいなさいよ」
私は重いため息をつく。
「あのね……司さんが怖かったの。そりゃ、車の中で、とかびっくりしたけど。キスだって……その先だって……いつかは、って思ってたし。でも、本当にキスされて、息さえ仕方を思い出せなくて。そうしたら……怖くなって」
「……怖かったのは判る。でも、それが悔しいって?」
「司さん、優しいのに……。
前にその……すごくイヤな経験があって……。
あんなキスとは全然違うのに。
か、体が勝手に司さんを怖がっちゃって。
なのに、謝ってくれて。
突き飛ばしちゃったとき、司さん、すごく傷ついた顔してて。
わた、私の都合で司さんを振り回し続けてて……。
自分が情けなくて、悔しくて……。
じ、自分のせいなんだけど、自分でどうしようもなくて。
たった、たった一回の昔の経験で、イヤな経験で、私、司さんにフラれちゃうのかと思ったら、悔しくて……」
話している間にまた涙がこぼれて、鼻水が落ちて、係長が差し出してくれたボックスティッシュを抱えて、私は意味不明な内容をつぶやき続ける。
万里子はソファに戻って、背もたれにもたれ掛かるように背をそらす。
係長だけが、「俺は、今のおまえがうちの会社に来てくれて、よかったと思うぞ」と言ってくれた。
優しい。良い人だ。
私が目線だけで係長に感謝を示すと、万里子がすっと二人の間の視線を遮ってくる。
「片桐さんのこと、あきらめるの?」
幼い頃からの友人に、オブラートは存在しない。
胸に突き刺さった言葉を噛みしめ、俯く。
「あきらめたくない……。でも、司さんに嫌われちゃったと思う」
普通、こんなにお預けばかり食らわせる女なんて、ノーサンキューだろう。
「由香里、あんたのスマホ、数日私に預けな?」
「は?」
由香里は私の返事も待たずに、鞄を漁ってスマホを取り出す。
「ちょ、ちょっと!」
「家まで送ってく。パソコンも禁止ね。ノートパソだったよね。じゃぁ、送ってくついでに回収するね」
「どういうこと? 何がしたいの?」
万里子はにやっと人の悪い笑みを浮かべ、私のスマホを撫でた。
ディスプレイには、メールと電話の着信を示す信号が瞬いている。
胸の奥が痛い。
「ほら。今のあんたに、片桐さんの名前だって凶器になる。いい? 私がいいって言うまで、片桐さんとコンタクトとっちゃだめよ? その間に、私がちょっと確認しておくわ」
「確認しておくって……何を?」
痛む胸を押さえながらも、何とか声を絞り出す。
そんな私を、万里子は優しい苦笑を浮かべながら、やけにきっぱりと言い切った。
「私に任せなさい。悪いようにはしないから」
何だ、その悪役じみた台詞は?
助けを求めるように係長を見るが、係長は欧米人のように肩をすくめて、「言い出したら、きかなくてね」と笑う。
何? その「じゃじゃ馬なところが可愛いんだ」的な表現は?
ってか、しっかり手綱握っとけよ、係長! あんたの奥さん、暴走してるぞ!
決意を込めて拳を握りしめる万里子を見上げながら、私は予測不能な未来におびえることしかできなかった。
20161023 一部訂正しております。
20161123 誤字を訂正いたしました。