僕は勿論余裕です
ちょっと続きます。
これまでの一話完結と異なりますが、ご了承下さい。
続きはまったりお待ちいただけると幸いです。
「おぅ。片桐、今上がりか?」
「はい、今日はもう上がりです」
ベテラン運転士の小藤さんに声をかけられ、僕は制服を着替えながら、申し訳程度に頭を下げる。
「じゃぁ、一杯、どうだ?」
手首をくいっと返す小藤さんに、僕は苦笑いをした。
「すみません。今日はこれから用事があって」
「何だ、これか?」
今度は小指を立ててくる。
良い人なんだけどなぁ。
僕は笑みを深めて、「失礼します」と挨拶した。
小藤さんは「明日も平日だ。ほどほどになぁ~」と声をかけてきた。
悪い人ではない。ただ、デリカシーってものと無縁なだけだ。
僕は肩をすくめてから、私服に着替える。
ここ一週間ほど、僕は彼女に電話をかけ続けている。それを受けている彼女は概ね無言だ。
相変わらず、僕の声に弱いらしい。
最初は、声を嫌っているのかと思ったけど、正反対だった。
昔から疎まれてきた声を、こんなに気に入ってくれるというのは、正直びっくりしたし、眉唾だとも思った。
でも、僕の声を聞く度に、彼女の目が潤んで、真っ赤になって、座り込んでしまって。
電話の向こうでもそうなっているんだろうな、だから余計声が出ないんだろうな、と言うのが容易に想像できて。
うっかりするとニンマリと顔が弛んでしまうから、職場ではできる限り電話をかけないようにしていた。
それでも何とか最近、はい、とか、いいえ、とか短い音節なら電話越しに返ってくるようになった。
つまり僕は、スマホに向かってずっと独り言を言い続ける苦行から、やっと解放されつつある、というわけだ。
今日は夜勤がないから、早めに会話を始められるし、長いこと話していると、彼女の言葉が返ってくる回数も増える。
遅々とした歩みではあったが、確実な一歩である、とも感じていた。
正直、自分がこんな面倒くさいことを続けていられるとは思っていなかった。
前に付き合っていた彼女とは、もっと淡泊で、僕はどちらかというと構われる方、追われる方だった。
江端さんは、僕が追わなかったら、あっという間にフェードアウトしてしまうだろう。
困った顔をしながらも、僕に手を伸ばしてくれないのではないか、そんな想像がどこかにある。
だから、この関係は僕が主導権を握り、僕が進めるしかない、と思っていた。
いつでも、関係を解消できる、だから、今は続けているだけだ。
少し面倒くさい、アプリゲームを無課金で遊んでいるような。
無言の相手に行われ続ける電話に対して、僕はそんな理由をずっとつけていた。
電話は必ず僕からかける。
僕の時間の方が不定期なので、仕方がない。
今日も誰もいない家に戻ると、薄い鞄をベッド脇に置き、カップ麺のためのお湯を沸かし始めたところで、彼女に電話した。
彼女がでるまでの数瞬、僕はいつも緊張して落ち着かなくなる。
「はい、江端です」
僕が声を出すまでなら、彼女はまともに喋ることができるようだった。
夜の空気を震わせるような、柔らかい声が耳に届く。
「片桐さん、お疲れさまです。今日はとっても早いんですね。夜ご飯、食べましたか?」
当然、着信履歴で誰からの電話なのか判っているわけで。
落ち着いた喋り口調に、うっかり僕の方が黙って聞き入ってしまう。
彼女の声が疑問符を乗せて、僕の名字を呼んだ。
「片桐さん?」
「うん。あ、ごめんね。ちゃんと聞いてるよ。夜ご飯はこれから。カップ麺、食べながらのお喋りになっちゃうけど、いい?」
慌てて答えると、今度は向こうの口数が少なくなる。
電話口からは、「はぅっ」と言う謎の音が聞こえて、少し待ってから「どうぞ」というおずおずとした肯定が返ってきた。
「大丈夫?」
「はい! ……いいえ」
ふむ。よくわからない。
でも、たった数回しか会ったことのない彼女の表情は、頭の中に鮮明で、相変わらず犬の耳やしっぽが見えるような、あからさまな一喜一憂をしていることだろう。
彼女が目の前にいないことが、いつも少し寂しい。
それからしばらく、僕は思いついた話題を適当に話していく。
途中、テレビをつけて、彼女にもつけてもらって、同じ番組を見ながら、僕の感想を述べる。
カップ麺は少しふやけすぎていたけど、あまり気にならなかった。
行儀が悪くたって、彼女のリハビリ時間を少しでも増やすためには、仕方ない、と言い聞かせる。
一時間半くらい喋っただろうか。
見ていたテレビ番組も終わり、程良い時間だ。
今日は早めに電話したから、彼女はこれから風呂やら何やら用意をするだろう。
女性が寝る前にやらねばならないことは、山のようにある、とこれまでの経験則で判っていた。
これ以上喋っていても、話題も尽きてくる。
僕は重いため息をついて、今日の別れの言葉を告げた。
「そろそろ良い時間だね。また……そうだな、明後日とか、電話してもいいかな?」
「はい!」
「うん。じゃぁ、おやすみ」
「あ、待って!」
珍しく、彼女が、「はい」と「いいえ」以外の言葉を僕に投げかけてくる。
僕は本当に驚いて、スマホを落としそうになったが、何とかこらえて耳を澄ました。
「あの……その……えぇと………………」
段々語尾が小さくなり、消えていく。
促したくなったが、ここで僕の声を聞いたら、余計彼女は喋ることができなくなる。
そう思って我慢していると、囁くようなかすれた声が、僕の耳に届いた。
「今度の日曜日……片桐さんもお休みでしたよね? あの……ご一緒に……動物園に……あ、いや……興味ないですよね……忘れて……」
「行くよ」
「え?」
彼女の最後の否定の言葉を遮るように言うと、彼女は心底驚いたようで、そう言ったっきり、絶句した。
「一緒に行こう?」
「…………はい」
小さな小さな肯定の言葉。
その瞬間、僕はガッツポーズを決め、そのままの勢いで電話を切ってしまったのだった。
後悔しても、後の祭り、とはこのことだ。
江端さんはすべての元気を使い切ってしまったのか、電話には出てくれず、動物園の計画は専らメールとメッセージにて行われることになったのであった。
20161010 一部誤字修正。
20161014 誤字修正。