何度でも、その声に
由香里さんの過去の話は、彼女がつっかえつっかえ喋っていることがかえって臨場感を与えてくれて、僕は心臓を鷲掴みにされたような恐怖に包まれていた。
居ても立ってもいられず、彼女の横まで行って彼女の両腕を掴む。
由香里さんは夢から覚めたように瞬きをして、僕を見返した。
「そいつに、何をされたんだ? そいつが誰なのか、今でも判ってる?」
そこに僕がいれば!
いや、いなかったんだけど。
怯える彼女に、その男は……。
「あの、司さん、落ち着いて。昔の話ですし……」
あっさりと昔の話にしてしまう彼女に、返って苛ついてしまう。
「それでも、傷ついて、ずっと苦しんでいたんだろう? そんな、下種野郎のせいで、由香里さんは!」
「いや、確かに傷つきましたけど、多分、相手の方が痛かったか、と」
「……は?」
言葉を失って、彼女を見返す。
「私、そいつの鼻先にグーパンかまして、ですね、怯んだところで足払いかけて転ばせて、その隙に走って逃げたんです。
ホテルとかに連れ込まれていたら、本当にやばかったと思うんですが、路地裏の浅いところで助かりました」
僕は呆気にとられて、同時に肩に入っていた力が急速に抜けて、苦笑いする彼女を見つめていることしかできない。
強かな彼女の一面は、僕には意外であると同時に、どこか眩しく感じられた。
ずっと、僕にしっかりとしゃべりかけることも出来ない由香里さんを、僕は小さな子供のように、甘やかして守れば良いだけの存在と思い混んでいた。
あの時、動物園で先輩とやらに話しかけられて、普通に話し返していた君に、僕は僕が勝手に抱いていたイメージを崩されたような、僕の所有物を勝手に持って行かれそうな、そんな気分になっていたんだ。
どれも全部、自分勝手な僕のわがままだ。
彼女、由香里さんはふるっと震えて、自分の体を抱きしめる。
その細い体には、たくさんの言葉としっかりした意志が宿っている。
僕は初めて彼女をしっかりと見たような気がした。
成人した、一人の、江端由香里さん、という人物を。
由香里さんは自分の体を抱く腕をほどくと、僕の目をじっと見上げてくる。
そして、僕の両手をぎゅっと握った。
小さくて柔らかい手が、少し震えていることに気づいた。
一方通行ではない会話。
水田女史の言葉が脳裏によみがえる。
ここで僕が喋るのは簡単だけど、それじゃ、ダメなんだ。
僕だって、それだけではもう、我慢できない。
僕は君の声で言葉を聞きたい。
それに、僕の声で言葉を返したい。
由香里さんは僕をみる目に力を込める。
「私、司さんに謝りたかったんです。
逃げてしまってごめんなさい。
司さんは、あの時の男の人とは全然違う。
勇気のない私をずっと待っていてくれて、私の背中を押してくれたり、腕を引っ張ってくれたり。
よく考えれば判ったのに」
期待を込めて、君の目をのぞき込む。
「あの……好きです、付き合ってください!」
震えながら、頬を赤く染めて。
甘く、でもしっかりと耳に届く、君の声。
あの合コンの会場で、君と水田女史の声はとても明るくて、媚びずに、凛としていた。
男女の出会いを求めて集まった人たちを、すごく冷めた目でコメントしていた。
あのテンポのよい会話の前から、君の声を聞いていた、と言ったら、君は驚くだろうか。
多分、あの時から、僕は君を好きになりかけていた。
君の声を聞く度に、恋に落ちていた。
何度でも。
そして、今も。
「今度は、僕の話を聞いてくれるかな」
今度は急がない。
僕はゆっくりと、これまで以上に慎重に、君に近づいていこう。
「君に先を越されて、何だか、すごく格好悪いんだけど。
江端由香里さん、あなたのことが好きです」
僕の手を握ってくれていた彼女の手を、逆に握り替えし、細い指に口づける。
「本当は、あんな乱暴なキスよりも先に、ちゃんと言わなければならなかったんだ。
あなたが好きです。
僕の声にメロメロになって、なのに僕にすがりついてくるあなたが好きです。
辛いことがあっても、そうやって前向きになれるあなたが好きです。
僕のためにお弁当を作ってくれて、キリンの下から救い出そうとしてくれたあなたが好きです」
由香里さんは真っ赤になって、でも、僕から決して目を反らさない。
「僕からも、お願いです。……結婚を前提に、一緒に住んでもらえませんか?
あなたのいる家に帰りたい」
「あ……え? ……い、一緒に?」
由香里さんの声は裏返り、あたふたと周りを見回す。
僕は彼女の体をそっと抱きしめ、もう一度囁いた。
「由香里さん、愛してます」
「だ……だ……だから! そんな、そんな甘い声禁止~!!!」
END
20161123 誤字を訂正いたしました。