第一章 お忍び
他の者が続々と鍛錬場を去っていく後も、エヴァンは一人、納得のいかないような表情で俯いたまま、立ち尽くしていた。
「……」
赤茶髪の青年は、敬礼から解かなかった右手の拳をより固く握りしめる。彼はどうしても副団長を公衆の面前で負かし、レイピアを奪いたかったのだ。
「どうした、気分が悪いのか? 深呼吸をしてみろ」
ビクターがエヴァンの背後から声をかけた。
「腹突っつかれた時、痛そうだったもんな……」
更にその後ろから、茶髪の騎士がヒョコッと顔を出した。低い鼻柱と頬にそばかすのかかった下膨れの顔で、淡褐色の丸い目をしている。幼い印象のある容貌だ。
彼は両手を頭の後ろで組んで、何気なくエヴァンに近づいた。
「でもさっきは凄かったなぁ。お前やっぱり強いよ。自分は代々騎士の家系だって、いつも自慢しているだけあるな」
エヴァンはスパンッと小気味良い音を立てて、茶髪の騎士のつむじをはたいた。
茶髪の騎士は尖った長い耳をピクッと動かしながら、痛ぇっと叫んだ。
「……エルフ如きが、俺に憐憫の情をかけているつもりか」
つっけんどんにそう言い放って茶髪の騎士を睨みつけると、エヴァンは乱れた髪を手櫛で整えつつ、その場から去っていった。
「何だよ、レンビンって!」
茶髪の騎士は叩かれた頭を抑えながら、遠くなるエヴァンの背に向かって怒鳴った。
「フィル。放っておこう。あれだけ威勢が良ければ大丈夫だな……」
ビクターは肩を竦めて首を横に振った。茶髪の騎士は名をフィリポというのだが、皆が彼を呼んでいるうちに、縮めてフィルというあだ名が定着した。
「全く、何であいつ、いつもあんな感じなんだか」
フィリポは膨れっ面で鼻を鳴らした。
完璧主義者であるエヴァンは、日頃から同僚と馴染もうとはせず、ひたすら己の剣術を高めることのみに重きを置いている。そして代々騎士を輩出した名門出身のためか、エリート志向に走りがちである。
入団して三か月前からのチームメイトである、カルチェラタン港出身の元水夫のビクターと、狩猟民エルフのフィリポを、野暮ったい田舎者だと煙たがっていた。
「……って、あれ?」
たまたま、数十メートル先の城壁を見上げたフィリポは、2人の小さな人影を捉えた。エルフは並外れた視覚と聴覚を持っているのだ。
「プリムローズ様がいる……」
その言葉に、ビクターも驚いて城壁を見つめた。しかし、いくら目を凝らしても確認できない。
「……ううむ、あんな場所にはいらっしゃらないのではないか?」
「ええっ! 本当にプリムローズ様だって。……眼鏡の買い替え時じゃないの?」
フィリポは信じてもらえず、不貞腐れてそっぽ向いた。
「ハハ、お前を基準にしたら、世の中の人間のほとんどは眼鏡を掛けなくてはならんぞ」
冗談っぽく笑いながら、ビクターは同僚の肩を軽く叩いた。水夫から29歳で騎士となった彼にとって、二十代前半のエヴァンや童顔のフィリポは弟のようだった。
丘陵地帯の標高と合わせると地上500メートル近い城壁の回廊を、プリムローズとアイヴィーは渡っている最中だった。ここがプリムローズの言う「誰も通らない道」だ。
「アイヴィー。ここで身を屈めたら、スカートの裾が砂埃で汚れてしまうわよ」
「で、ですが、普通に歩くと、城の真下が見えて……!」
鋸の刃のように凹凸に積まれた石の壁に手摺りはなく、屋根など遮るものがないので強い風がビュービューと吹き抜ける。元々は敵が城に攻めてきた時、高所から投石するために造られた回廊である。城の裏口と通じており、有事の際、王家はここから避難する。
「ここから落ちたらひとたまりもありません……!」
青ざめたアイヴィーは、身に着けている紺のポンチョの襟を握りしめ、石畳の床にしゃがみ込んでしまった。彼女は今、町娘に扮するためエプロンを外した深緑色のワンピースのままだが、そんなことを構っている余裕はなかった。風が吹く度にアイヴィーの背中に悪寒が走り、両脚に力が入らなくなった。
先にいたプリムローズはアイヴィーの傍らに回り込み、彼女の手をそっと取った。
「目を瞑って」
アイヴィーはその言葉に従い、ぎゅっと目を瞑った。
「ここは、中庭の渡り廊下よ」
プリムローズはアイヴィーの手を繋ぎながら、もう片方の手で彼女の背中を支える。
「目蓋が温かくて明るいでしょ、今日は天気がいいの」
目を瞑るアイヴィーは、プリムローズに手伝われて立ち上がった。そして、頭の中で城の中庭を想像する。庭木の葉を陽だまりが照らす、心安らぐ風景だ。だんだん恐怖心が薄まっていった。
「深く息を吸って……秋の空気って透き通っている感じがしない?」
深呼吸したアイヴィーは、早まっていた心臓の音が徐々に治まっていくのを感じた。プリムローズはその様子を見て、手を引きながら一歩ずつ、進みだした。
彼女たちは再び歩き出す。
「アイヴィーはいつ朝ご飯食べるの?」
「朝日が昇る頃には全ての支度を終えています」
「眠くならない?」
「そのぶん、夜は早めに寝ています。夜勤の侍女もいるのですよ」
「そうだったのね……」
とりとめのない会話をしながら、二人は回廊の4分の3のあたりを過ぎた。ちょうどその時、城壁の向こうから鳥のさえずりが聞こえた。その声音は鈴のように高く、どこか儚げであった。
「何の鳥かしら」
「ジョウビタキ、では」
アイヴィーは目を瞑ったまま、懐かしそうに耳を傾けている。
「この季節になると故郷にもいました」
「ユイの里に」
「はい」
ユイとは、ベリロナイトに古より続く、王家に仕えし巫女集団のことである。ユイ達の隠れ里では霊的な力のある子供を引き取り、巫術の修行をさせている。中には里を出て、王家に奉公する者もいる。アイヴィーもその一人だ。
「どんなところなの?」
「あっ、申し訳ありません。詳しくお伝えできないのです……。でも、とても静かで、清らかな美しい場所でした」
「貴方のイメージに合うわ。私の中でユイは謎めいた、神秘的な人達っていう、漠然とした印象しかないけど」
「そんな、大層な。――私なんて、修行しても才能のない、落ちこぼれですから……」
アイヴィーの伏せられた睫毛が微かに震えたのを、プリムローズは察した。
「でもアイヴィーが偉大な巫女になっていたら、うちに来てなかったかもしれないのよね。それは、寂しい……」
さりげなく発せられた姫の言葉に、アイヴィーは思わず瞳を開いた。気が付けばもう城壁の端にある塔への出入り口まで来ていた。
隣を歩くプリムローズは繋いでいた手をスッと離し、目の前の鉄扉を指す。
「ここまで来れば、後は下りるだけだから。もう怖くないわ」
プリムローズは朗らかな笑顔を向けた。
「は、はい、ありがとうございます……」
アイヴィーは面映ゆそうに、今まで繋がれていた手を、ぎゅっと握り締めた。
塔の螺旋階段をひたすら下りると、プリムローズ達は城壁の外の放牧場に辿り着いた。
勘付いたアイヴィーは、顔を引き攣らせた。
「……もしかして、ここから先は」
「徒歩よりマロンに乗って行くほうが早いと思うの」
二人はマロンに跨り、緩やかな丘を下った。プリムローズは、アイヴィーを比較的揺れの弱い前のほうに乗せ、その後ろから手綱を扱った。
「わ、私、馬に乗るのは初めてで……!」
「大丈夫、しっかり掴まっていてね」
マロンは本来のんびり屋の性格で、いつもは二人乗りをしないので、本当にゆっくり歩いた。最初は戸惑っていたアイヴィーも、やがて目の前の景色を楽しむ余裕が生まれた。いつもより視点が高くて、見慣れた放牧場の草木も新鮮に思えた。
「ほら見て、ススキ野原が綺麗よ」
「わぁ……まるで金色の絨毯です」
「素敵な喩えね。どう、馬での行楽も楽しいでしょ?」
「ええ」
「じゃあ、街までとばしましょうか!」
えっ、とアイヴィーが言う間に、プリムローズはマロンの胴を両脚で抑えた。主人に促されたマロンは、次第に早足になって駆け出す。激しい鞍の揺れに、アイヴィーは頭を揺らしながら目を白黒させた。
「わっ! はやっ早過ぎます!」
少女たちを乗せた栗毛の馬はススキ野原を越え、丘道の向こうの、煉瓦屋根の街並みを目指して走り抜けた。