第七章 人質解放
『怒車の術』という古よりの交渉術がある。
交渉相手を愚弄し、感情を逆撫でし続けることにより、本来の判断力や冷静さを失わせ、その隙を突くといった心理戦的手法だ。
具体的に説明するとまず、その場で誰かが挑発に乗って大声で叫んだり暴れたりするなど、怒りの感情を発露するとしよう。すると本人だけでなく、周囲の人々にもストレスや不安などの不快感が伝播し、やがて悪影響を及ぼす。
1人目につられて2人、3人と感情を爆発させる者が続くこともあれば、怒りを抑えて冷静になろうと努めることで、余計にストレスを溜めこむ者も現れるだろう。
ヒトは受容できないほど強い不快感を持つと、早くそれを取り除きたくなって、不快感を与える対象への攻撃に走る。最終的に集団パニックのような状態になるのだ。
警備隊はこの怒車の術に、まんまとかかってしまった。怒りのままプリムローズを撃とうとした兵士は、すんでのところで冷静派の兵士に撃たれたのだ。
それが引き金となって集団パニックが発生し、警備隊は人質そっちのけで、仲間同士での撃ち合いを始めたというわけである。
「なんと……」
「えぇ……」
オリバーとタラッサは目の前の光景を信じきれずに、呆然と立ち尽くした。敵方が内輪で殺し合ってくれるのは、彼らにとって本来ありがたいはずなのだが、あまりにも経緯が馬鹿馬鹿しすぎて、現実の出来事のように思えなかったのだ。
ディエゴは早くに気を取り戻すと、警備隊の悲惨な仲間割れをミルコに見せないように、彼の視界を大きな手のひらで遮る。
「……」
戦闘民族のオークとして生まれた彼は、眼前の地獄絵図に、故郷の母に子供の頃教わった昔話をふと思い出した。
オーク族は昔、ひとつの大きな村で暮らしていた。その村ではどんな親の子供も、全ての大人からまるで我が子のように愛されて、男も女も笑いながら元気よく働き、獲物も作物も皆で分け合って暮らしていた。
しかしそこに、小さな白い肌の人たちがやってきた。アルカネット人だ。彼らはオークが持っていない物を持っていて、オークの知らないことを知っていた。
彼らはこれらと引き換えに、オークにしか持っていない力を欲しがった。
うまい話を持ってきたアルカネット人を信用しないオークもいれば、話に乗っかるオークもいた。
アルカネット人を信じたオークにだけ土地や贈り物が与えられて、豊かな暮らしができるようになった。
アルカネット人を信じなかったオークは村の中でそれまでと変わらない暮らしをしていたが、豊かになったオークから「意気地なし」と馬鹿にされるようになり、彼らはやがて互いを憎むようになった。
ある日のこと。豊かになったオークの子供が、村のそばの川で溺れ死んだ。
村のオークの仕業だと、その子の親が言い出した。
村のオークたちは、そんなことやるわけないだろうと言い返した。
ところが死んだ子の親だけではなく、豊かになったオーク全員が、村のオークを責めた。
わしらがうらやましくて子供を虐めたんだろう、意気地がないだけでなく卑怯者だ!
そこからたちまち、戦が始まった。
男たちは獲物を狩った槍で、女の腹を突き刺した。
女たちは草を刈った鎌で、男のあそこを掻っ捌いた。
子供たちは男からも女からも殺された。
戦が終わって、わずかに生き残ったオークは皆、アルカネット人の言いなりになるしかなかった。
村にあった畑や家も、与えられた土地も、全部アルカネット人の物になって、結局オークは何もかも奪われてしまった。
お前のお父さんとお母さんが、子供の頃の話だよ。
ディエゴの母は、実際にオーク族で起きた『カヌヌ事変』を、子供にも分かりやすくかみ砕いて教えたのだ。
初めてそれを聞かされた幼少のディエゴは、怖さのあまり夜に眠れなくなり、数日は姉と一緒に寝起きした。
(カヌヌ事変も、こんな感じだったのかな……。仲間同士の殺し合いってのは、こんな簡単に始まるもんなのか)
オークの青年は痛ましい光景を身内に起きた悲劇と重ね、顔をしかめる。
プリムローズはというと、腕を胸の前で組み、仲間に撃たれていく兵士たちを見て、満足げに頷いた。
そんな彼女をユージンは一瞥したきり、眼鏡のブリッジを指で押し上げた。その表情は落ち着いているが、内心は熱狂に満ちていた。
(王女殿下……最初は警備隊相手に泣き落としでもすんのか思うてたけど、この人、攪乱しはったわぁ~! えげつなさすぎて逆に笑けてきましたわ)
ユージンは興奮の冷めやらぬまま、プリムローズが血の一滴も流れぬ手段――警備隊との交渉や和解を選ばなかった理由を分析する。
第一に、プリムローズの性格や信念からして、民間人を人質にとった警備隊など犬畜生以下の存在でしかなく、交渉の余地なしと判断したためであろう。
第二に、か弱い15歳の少女でしかない彼女を、警備隊が舐めてかかっていることは間違いなく、どれだけ情に訴えても一笑に付されるだけだからだ。もし交渉に応じる者がいてもそれはごく一部の少数で、大多数の反対者を丸め込むほどの影響力はないだろう。
交渉に時間をかければかけるほど、人質の命が危険に晒されると考えれば、こちらから手を出さずに、警備隊の兵士同士で殺し合いをするように仕向けるのが、人質を安全に解放する最適解であった。
プリムローズは誰からのアドバイスも受けず、自力でその結論に至ったのだ。
(こんなん、敵を心ある対等な人間やと思うとったら出てけえへん発想やで。ホンマ末恐ろしいわ。むっちゃおもろいやん!)
それからドワーフの学者は眉間に皺を寄せ、倒れていく兵士を憐れむような眼差しで見届けながら、事態を深刻に捉えているような、沈痛な面持ちを作ることに専念した。




