第七章 女給ユリエル
一方ユリエルは、3階にいる上級軍人たちに怪しまれないよう、女給の仕事を着々とこなしていた。
ハンフリーが屋根裏の梁を渡っている時間を稼がなくてはいけないので、掃除などはあえて本腰を入れて取り組んだ。
(なんだかお嫁さんになったみたいで、たまにはこういうのもいいかも……)
女性的な趣味を抑圧されて育ったユリエルは、ままごとの延長線で、女給の仕事を内心楽しんでいるのだった。
ところが、天井からガタ、ゴト、ギシ……! という、ささやかとは言い難い音が聞こえてきて、焦った彼は大袈裟な仕草でテーブルを拭き上げて誤魔化した。
「よーし、鏡みたいにピカピカに磨いちゃえ~!」
「あまり時間をかけるなよ」
ドアの向こうで軍人が腕を組み、ふてぶてしく鼻をフン! と鳴らす。天井の物音には気が付かなかったようだ。
「はーい!」
ユリエルは高らかな声で返事をした。まだ続いている天井からの物音を掻き消すためである。
「……ハンフリーさんって、ぽっちゃりさんじゃないのに、なんでこんなに大きな音が出せるのさ……?」
小さな声で不満をこぼすと、掃除用具をワゴンの中へ入れ、次の部屋に向かった。
次はいよいよ、本命の306号室である。
306号室の前に立っている見張り役に、ユリエルは室内のベットメイキングをしに来たことを告げた。
「ワゴンは廊下に置いていけ」
見張り役の軍人はマスケット銃を下ろし、この女給に必要最低限の持ち物だけ持って入出するよう指示した。あらかじめ301号室から、ハンフリーを忍び込ませておいて正解だったようだ。
ユリエルがヴィンター中将の泊まっている306号室まで着いたら、屋根裏に待機しているハンフリーに合図を出して、2人がかりで中将を抹殺する計画なのだ。
綺麗に畳まれたリネンと枕カバーを片手に抱え、ユリエルは306号室の扉を叩いた。
「入れ」
ドア越しに低い声が耳に届く。
「失礼します」
少年騎士は敵将と相まみえる緊張に唾を飲みこんでから、扉を開けた。
インクと紅茶の香りに混ざり、煙たい空気が扉の外へ流れてくる。
一等室の窓際にある革張りの椅子に座り、葉巻をくわえながら、机に向かって羽根ペンを走らせている男がいた。
この室内にかすかに漂う紫煙は、男の吸っている葉巻によるものらしい。
真昼の窓辺から差す陽光と、室内の控えめな照明とが、ポマードで七三に整えた男の黒髪を艶やかに照らしている。
(この人が、ヴィンター中将……?)
ユリエルは目の前のインテリ風の紳士が、帝国の将軍であることを意外に思った。彼にとっては辛酸を舐めた相手ではあるが、以前キャンディス城にて一対一で戦った、逞しい体格でマスケット銃を振るったあの男のような、典型的な軍人らしい雰囲気というものがないからだ。
なおユリエルは城で戦った男――ゾンマーが、このヴィンターと同じ階級であることは知らない。
全体的に体の線が細くシュッとしており、女の子のビンタでひっくり返りそうな印象がある中将に、彼は少し拍子抜けした。
(なんだ。この人だったら、いつでも暗殺できる隙がありそうだよ)
すると当の本人が顔を上げて、切れ長の目でこちらを一瞥する。
「すまないが、紅茶をもう一杯もらえないか」
黒革の手袋をはめた指先で、葉巻を灰皿に置く。
耳に心地良いハイバリトンの重厚な美声に、思わずユリエルは「あ、はい」と、ごく自然に答えていた。
近くにあったローテーブルに、ティーポットが置かれている。少年はそれを持っていこうとしたが、手にリネンを持ったままポットを運ぶのはいかがなものかと考えあぐねた。
それを見ていたヴィンター中将はフッと口元を緩める。
「いったんソファーに置けばいいじゃないか」
敵に真っ当な指摘をされ、ユリエルは恥ずかしさに頬を赤らめた。ソファーの背もたれにリネンと枕カバーを掛けると、ティーポットをヴィンター中将まで運び、空になったティーカップに少し冷めた紅茶を注ぐ。
「ありがとう」
中将は優雅な所作でティーカップを傾けた。
将軍でありながら女給相手にもきちんと礼を述べ、上品な態度で振る舞うヴィンターという人物に、ユリエルは何とも言えぬ違和感を抱いた。
(本当にこの人がたった今、ベリロナイト各地を滅茶苦茶にしている張本人だというの……?)
目の前にいる紳士然とした中年男性が、リンボークで聞いた話と一致せず、彼は攻撃を仕掛けるのを躊躇った。
そして喉を潤したヴィンター中将は、ティーカップをソーサーに置くと、机の上で悠然と両手を組んだ。
「ところで、君……」
その穏やかな声音に、また何か雑用を頼むのだろうか、とユリエルは油断しきっていた。
「男がなぜ女給のふりをしている?」




