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プリムローズ・ストーリア  作者: 刈安ほづみ
第七章
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第七章 自己犠牲と利己主義の境界


 白百合亭の3階にある一等客室のコーナーは、尉官以上の藍色の軍服を着たいかめしい軍人が、廊下を行き来していた。


「はいはーい、お掃除に参りましたー!」


 そこへベージュ色の髪に白いヘアバンドをしたひとりの女給が、掃除用具や新しいリネンを積んだワゴンを両手で押して、青い軍服を掻き分けるように進んだ。

 女給が清掃のために客室に入るのは日常的なことなので、軍人たちは誰も気にも留めなかった。

「あんな可愛い娘がいたんだな」

 などと、呑気な感想を述べる者もいた。


 女給がまず向かったのは301号室である。ノックをすると室内にいた軍人は「ああ、掃除か」と言って、拍子抜けするほど素直に退室した。

 去り際に格好つけて女給へ目配せをしたので、女給のほうも長い睫毛(まつげ)で囲まれた瞳を閉じて、ウインクを寄越した。


 男には若く美しい女に遭遇したときのリアクションが2種類ある。女にやたら威圧的な態度をとって恐縮させ、ちっぽけな自尊心を維持したがる情けない者と、女にやけに優しく振る舞って好印象を持たせようとする馴れ馴れしい者である。

 301号室の軍人が後者で助かった。


「部屋に入ったよ」

 軍人がいなくなった部屋の中で、女給――に扮したユリエルが声をかけると、ワゴンが勝手にモゾモゾと動きだした。リネンで隠されていたワゴンの中から、ハンフリーが這い上がるように出てきた。


 ハンフリーは下級貴族の私室より広いのではないかと思わせる一等室の、豪華な調度品の数々をぐるりと見回しながら、まぶしそうに目を細めて唸った。

「おお、噂には聞いていたが(すげ)ぇ部屋だな。こんなの一泊いくらだよ……」


『私は泊まったことあるぞ!』

「くれぐれも大きな音は出さないでね」


「はいはい」

 ハンフリーはバクストン5世とユリエルのどちらにも、おざなりに返事すると、クローゼットの両開きのドアを開けた。

 中に納められていた軍人の物だろう替えのジャケットやらコートやらを片側に寄せ、クローゼットの天井に仕切られた正方形の板を、ズズッとずらすように動かす。

「こっから屋根裏に上がれるらしいな」


 先ほどの女給たちが教えてくれた、3階の隠れ道。それは各部屋のクローゼットに備えられた、屋根裏の(はり)へとつながる天井板である。


 本来は大工の点検のために取り付けられたものなので、大の男ひとりが入れるほどの幅がある。ハンフリーは背負っていた剣をクローゼットの壁に立て掛け、その柄を足場にして天井へ侵入し、屋根裏へと上がった。

 

 その間、ユリエルは女給のふりをしてベッドメイキングなどして、クローゼットから出る物音を誤魔化す。


 屋根裏へ上がったハンフリーは刀帯を引っ張り、立て掛けた剣を回収する。天井板をはめ直せば屋根裏の中は真っ暗になった。


「先王様、明かりを灯してくれ」


 彼がそう言って剣を鞘から引くと、湾曲した刀身からまばゆい黄金の光が発せられた。この光力なら手元だけでなく、屋根裏全体が見渡せる。


 (ほこり)と木材の匂いが充満した屋根裏には、垂直方向に立てられた何本もの柱と組み合わさるように、水平方向に格子状の梁が作られている。


『私たちがいる場所から梁を辿っていくと、最奥(さいおう)にあるのが(くだん)の306号室か……』

「ゴールまで遠いな」

 これから剣の灯りを頼りに、梁の上を綱渡りのように進むのだ。


 白百合亭は屋根裏もそれなりに広いとはいえ、身長176センチのハンフリーが少し屈まなければならないほど、縦幅は確保されていない。


「こっちをユリエルに行かせたほうが良かったんじゃねぇか。あいつなら普通に通れそうだが」

『そなたが女給に(ふん)すのは無理がある。ふっ……大事故だな』

「先王様さては、さっきの会話ツボってただろう」

 

 屋根板を踏み外さないように慎重に進むので、2人は道中会話する余裕があった。


『……ハンフリーよ』

「あんだ?」

『何故あのとき、あの下衆な兵士の言うことに従ったのだ』


 黒髪の青年は「ああ」と何ともなしに答える。

「それしか他に手段がなかったからな。あの場をまあるく納めるには」

 敵である義勇十字団のマルサスに頭を下げて媚びへつらったときといい、彼は目的のためなら、たやすく自分を(おとし)めるのだ。


『あのような行為を強いられるのは不快であっただろう』


 バクストン5世の沈むような声に、ハンフリーはヘッと鼻で笑った。

「だけどやらねぇとコトが進まないじゃねぇか。俺は感情じゃなくて合理性を優先するんでね」

『感情を切り捨てた選択は、やがて自らを滅ぼすぞ』


 先代の王は、淡々とした口調で諭した。


『ハンフリーよ、もし今後また、そなたとユリエルの貞操を犠牲にせねばならぬ状況が生じても、そのような状況を受け容れなくても良いのだ。他の方法を共に探そう。実際、白百合亭に入ったらすんなりと女給が通してくれたではないか。みだりに自身を犠牲にするものではない』


「あんたがそれを言うのかよ」

 ハンフリーは先王の言葉を遮った。


「知ってるぞ。第二次カルチェラタン海戦のとき、あんたはうちの騎士団長を(かば)って死んだんだってな。団長はずっと、後悔してた……」


『ブランドン……』

 輝く剣はその名を呟いて、言葉を閉ざした。


「あんたはそれでも団長に死んでほしくなかったんだろ? 俺も同じさ。ユリエルの生娘に任せるくらいなら、自分でやったほうが手っ取り早いってな。それで他人がどう思うなんて知ったこっちゃない。自己犠牲じゃねぇよ、ただのエゴイズムってもんだ」


 ハンフリーは片方の口端を歪めて笑いながら、剣を片手に綱渡りを続ける。



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