第六章 疲弊するジークムント
ところ変わって同日の昼下がりの頃、アルカネット帝国の帝都・スターチス宮殿にある政務秘書官ジークムント・フォン・シュタインの執務室。
部屋の主であるジークムントは、八角形の眼鏡越しの目元のクマをいつもより濃くさせ、青白い顔で事務処理にあたっていた。
先週の16日にプリムローズ王女が処刑場から逃走した直後、2本の角が生えた巨大な馬の魔獣が帝都に出没し、街を破壊しながら暴走したため大規模な被害が出た。
被害のあった地域ではまだ復興作業が完了しておらず、魔獣について新聞社等マスコミへの箝口令など事後処理も含め、ジークムントを筆頭に官僚たちは対応に追われている。
ほぼ1週間自宅に帰れずじまいのジークムントは申請書の束に目を通し、片っ端から承認のサインを書いていった。
隣の事務机ではテオドールが彼のサインの書かれた申請書をまとめ、各機関宛ての封筒に納めていく。また申請書を送ってきた機関名と部署名、日付、申請内容を報告書に残し、ファイルに綴じなくてはならない。
2人はこの数日間まともな会話をせず机に向かい、お互いを書類を処理する機械になってしまったかのように扱った。
作業がひと段落したテオドールは、隣の机へ無言で手を延ばした。こうすればサイン済みの書類が差し出されるはずである。
ところがサインを書く機械から書類が来ない。
どうしたのだろうと、彼はジークムントへやつれた顔を向けた。久しぶりに自分の手元以外のものを見た気がした。
ジークムントはある書類を手に取ったまましばらく硬直していたが、わなわなと肩を震わせ始めた。
「何だ、この馬鹿げた数字は……これでは何年かかっても復興などできないではないか……。一体どういうことだ……」
彼は書面に記載された復興作業に充てる人員数や予算総額の少なさが、現場の被害規模に見合っていないことに疑問と憤りを感じていた。
「……こちらを……」
疲れ果てていたテオドールは説明するのも億劫になっていたので、机上にある自分が目を通した資料を、怒り爆発寸前の上司に手渡した。
アルカネット帝国軍が提出したベリロナイト植民地化計画予算案の冊子である。皇帝陛下の承認印が捺されている。
ジークムントは律儀にパラパラ……と目次通りに項目内容を読み込んだ後、一気に顔を真っ赤にして銀髪を逆立てた。
「こんなくだらないことにカネをつぎ込むなァーッ!」
喚いても怒りで重要な資料を引き裂かないあたり、まだ理性が残っていると考えられるが、そもそも非力なので紙の束を素手で破けないのかもしれない。
「優先順位が間違っているだろう! まだ瓦礫に囲まれて過ごしている市民もいるのだぞ? 植民地の開拓より首都の再生のほうが重ッ!要ッ!だろうがァァァッ……なんでこの予算案通しちゃったんだよおおおおォオン」
(ああジークムント様、とうとう壊れてしまった……)
テオドールは怒り狂う彼の醜態を、疲労困憊の淀んだ目で見つめたまま立ち尽くした。なだめる気力も湧いてこないが、このままでは作業が停滞してしまう。
彼はふと、帝国の一大建設業会社の技術監督であった亡き祖父の言葉を思い出す。
『テオドールや。古い機械は部品が劣化していると動作不良を起こしやすく、故障の原因になる。まめに点検をして部品を交換してやるんじゃよ』
(そうだ、ジークムント様の頭の部品交換をしなきゃ……)
テオドールは机の一番下の引き出しにしまってある、タイプライターの整備用の工具箱を取り出した。
彼は工具箱の蓋を開くとプラスドライバーを手に取る。
「ええい、これだから軍は! 官民との連携を疎かにしよって!」
ジークムントは激昂している最中で、背後から近づく青年に気が付かなかった。
「……ン? ギャアアアア!」
振り向きざまにプラスドライバーの先端が目前にあって、野太い悲鳴を上げる。
そのとき執務室のドアがノックもそこそこに開け放たれた。
「お久しぶりー!」
陽気な調子で入って来たのは、女装の麗人ことウルリヒ大公の秘書フロリアンであった。
「2人ともちゃんと生きてるかしら~……イヤアアアアア!」
しかしドライバーを持ったテオドール青年に襲われているジークムントという修羅場を見て、甲高い悲鳴を上げた。
「もう、びっくりしたじゃないの」
「すみませんでした……。ここ最近忙しくてつい、正気を失ってしまって」
来賓用のソファに腰かけるフロリアンに、テオドールは紅茶を淹れて差し出した。
「秘書官殿の人遣いが粗くて、テオちゃんに愛想尽かされちゃったのかしらぁん」
意地悪げに笑いながら冗談を飛ばすフロリアンに、対面するジークムントは顔をしかめて鼻をふん、と鳴らした。
「いえ、そのようなことは決してございません! ジークムント様、本当に申し訳ありませんでした」
深々と頭を下げるテオドールに、ジークムントは「もうよい」とだけ言ってぞんざいに突き返すように片手を振る。
ティーカップの紅茶をすすった後、彼は不機嫌そうに本題を切り出した。
「貴様、今度は何の用件で来た。どうせろくな話ではないのだろうが」
フロリアンは単刀直入に言った。
「テオちゃんを貸してくださる?」
「断る」
ジークムントもズバッと一刀両断するように返した。こめかみに青筋が浮き出ている。
「この多忙な時期に何故部下を差し出せねばならんのだァ……」
「何か事情がおありなのですか」
お盆を持ったまま首を傾げる青年に、麗人は優雅に微笑みかけた。
「貴方、ヴェステン地方の地理には明るくて?」
「はい。そこの出身ですので……」
ヴェステンはアルカネット帝国の西方にある地域である。ヴェステン地方の背面には、ハルナ山へ続く峠がそびえたつ。
「ホーライから渡った私の祖父が、ヴェステン峠にかかるブライトストーン大橋の建設に携わったのがきっかけで、麓の大工の娘だった祖母と知り合い、結婚したと聞いております」
テオドールはいわゆるクォーター――ドワーフ族の祖先を持つ、ホーライ系アルカネット人なのだ。
フロリアンはうんうんと頷いた。
「そのヴェステン地方で今、巷を騒がす面白いニュースが飛び交っているの」
彼は膝の上で週刊雑誌を開くと、細く整った指先でページをめくった。途中、『帝都の災害は巨大生物が原因?』なる見出しを見つけ、ジークムントは眉間に深い皺を寄せる。
「これですわ」
大公秘書がにこやかな笑みで指差した紙面の見出しには、目に飛び込んでくるような太字のフォントで煽り文句が綴られていた。
『華麗なる義賊! 神出鬼没! 二刀流の仮面剣士は何者か――?』
『人呼んで、赤獅子仮面!』




