第六章 白百合亭会談
「ヴィンター中将?」
プリムローズは手帳と筆を持って、フランツの話に耳を傾けた。急いで帳面の端に『ヴィンター中将』と綴る。
「ああ。アルカネット帝国海軍の参謀将校であらせられる」
彼の話にオリバーは首を傾げた。
「海軍とな……? 占領した土地の支配というのは普通、陸軍の役目ではないか」
騎士ゆえに軍事に詳しいのである。
オリバーの疑問を解消するようにフランツは話を続ける。
「ヴィンター中将はキャンディス復興による人員と物資の確保のため、輸送船団及び護衛艦隊をカルチェラタン港経由で往来させているのだ」
海軍将校であるヴィンターはその権限を行使して、アルカネット帝国から海路よりありったけの必要物資や増援部隊を輸送させている。
ちなみに同じ帝国四大将軍のゾンマー中将、ヘルブスト中将は2人とも陸軍の将校である。四大将軍にはあと1名、陸軍と海軍を統帥する最高司令官の大将がおり、その大将よりさらに強い権限を持っているのが皇帝イグアーツである。
ドミニクは「なるほどなあ」と間延びした声で呟きながら、厚みのある顎をさすった。
「どおりで近頃この街が騒がしかったわけだ。警備隊専用の船着き場に、よく帝国軍の旗を掲げた軍艦が着くと思ったら」
プリムローズはずいっ、とベッド脇に上半身を乗り出す。
「そのヴィンター中将は今どこに? 警備隊の基地ですか?」
ここまで明かしたらもはや隠す意味はないと、フランツは正直に答えた。
「……内陸のほうの宿場町にある、白百合亭という高級宿屋だ」
ちょうどその頃、白百合亭の一等室ではヴィンター中将その人が縁なし眼鏡をかけ、椅子に腰かけタイプライターを打っていた。本国への進捗報告と、王都復興作業の人員補填の要請書を並行して作成しているのだ。
最高司令官であるフリューリング大将からは、年内にベリロナイト王国を完全支配できるなら予算をいくらかけても構わないと承諾を得ており、ヴィンター中将は遠慮なく物資も人員もかき集めている。
今年中にはベリロナイト全土を掌握できるという見込みがあるからだ。
部屋の扉をノックする音が聞こえると、中将は視線をタイプライターに向けたまま「入れ」と入室を促す。
扉の前にいた部下は、両腕を胸の前でクロスさせるアルカネット式の敬礼をすると、ある報告をした。
「王都キャンディスより、ベリロナイト王国の宰相とその使節団が到着しました」
ヴィンター中将は眼鏡を外してケースの中にしまうと、椅子から立ち上がった。部下を数人引き連れて一等室のフロアの廊下を渡ると、すたすたと一番奥の部屋へと向かう。
通りすがりの兵士は皆、彼へ向かって敬礼した。
奥の部屋にはすでに、樽のようにどっしりした身体にベリロナイト式の丈の長い礼服をまとった、60近い中年男性が通されていた。
彼は中将たちと目が合うと、おもむろに一礼する。
「……お初にお目にかかります、中将閣下……。ベリロナイト宰相のクレメンス・オブ・ハミルトンでございます……」
クレメンスの声は暗いがよく通る。口調こそ丁寧だが楕円の銀縁眼鏡の奥の眼は、城下町を混乱に陥らせた張本人である、帝国の中将を鋭く見据えていた。
「要請に応じてくれて感謝する」
ヴィンター中将は王国宰相から醸し出される警戒心と敵意をものともせずに、黒革の手袋をはめた手を差し出す。
2人はきわめて形式的な握手を交わすと、それぞれ用意された2脚の椅子に座って対談を始めた。
本題を切り出したのは中将からである。
「単刀直入だがハミルトン殿。バクストン6世国王亡き今、ベリロナイト王国全土の執政は宰相である貴殿に委ねられている。そこで我々アルカネット帝国軍が近日キャンディスに臨時政府機関を創設するにあたり、貴殿ら王国の文官に協力を願いたい」
「協力、ですか……」
強制の間違いだろう、とクレメンスは澄まし顔の裏で毒づいた。
ヴィンターは足を組んで座り直すと、上になったほうの膝頭に手を当てて、少し前傾姿勢になった。
「こちらが損害を与えてしまったキャンディスの復興作業を速やかに完了するには、行政や治安維持の面から貴殿らの協力が必要不可欠なのだ。ベリロナイト国民からしても、我々が直接施策を発令するより自国の宰相を通じて……のほうが信頼できることだろう」
(王都復興と引き換えに、私たちを民衆に対する緩衝材にする気か)
クレメンスは彼の思惑を察した。王都市民の不満や反発を、全部ベリロナイトの官吏側に押し付けようとしているのだ。
無言で難色を示す宰相に、ヴィンター中将はさらに畳みかける。
「……臨時政府が樹立したあかつきには、貴殿ら全員に、重要な行政顧問としての席を用意するつもりである。悪い話ではないだろう」
クレメンス宰相を筆頭に、キャンディス城に務めていた文官や城下町の役人に、帝国軍は新しいポストを与えようというのである。
王都陥落作戦による市民の被害は莫大だが、上流貴族である文官もまた、ほとんど職を失ったような状態に等しかった。
(狡猾な狼め……!)
事の元凶でありながら相手の弱みに付け込み、まるで救済措置であるかのように手を差し伸べるヴィンター中将の手際の良さに、クレメンスは内心舌を巻いた。
しかし相手の腹を知ってもなお、彼はこの取引に応じざるをえなかった。
たったの数日で地下水路を完全に直したアルカネット帝国の技術力を目の当たりにし、帝国軍の援助なしでは、破壊の限りをされ尽くした王都をすぐに復興することは叶わないと思い知らされたからだ。
愛国心と王都の復興や部下たちの待遇を天秤にかけ、クレメンスは苦渋の選択を迫られた。
「……承知しました」
帝国軍に屈したクレメンス宰相を、これから売国奴と批難する者の数は、決して少なくないだろう。だが宰相自らがこの選択をとるほど、ベリロナイト王国が追い込まれているのも事実である。
ヴィンター中将の二つ名である『凍れる軍楽』のしらべは、静かに、それでいて確実に、ベリロナイト全土に届こうとしていた。