第六章 治療された狙撃手
どこかで、キャッキャと笑う子供の声がする。
我が子の声だ。
うちの子は甘えん坊で、俺が家のソファの上で寝そべっていると、まるで切り立った断崖をよじ登るようにやってきては、俺の背中にしがみつく。
柔らかくて温かく、日に日に増していくその重さが愛おしい。
早く家に帰りたい。
妻の手料理が食べたい。うちの仔牛肉のカツレツは世界一だ。
ジャケットに沁みついた汗と煙草の臭いが、洗ってもなかなか消えないと叱られたのが遠い昔のことに思える。
ご機嫌取りに庭の芝刈りでもして、テーブルにそっと置かれた淹れたてのコーヒーでも飲みたい。
子供を抱っこしたい。妻を抱きしめたい。
自分の使命は分かっている。祖国を守る大事な仕事だ。
だがこんな場所で死ぬには、あまりにも惜しい人生だった。
かけがえのない存在を作り過ぎた。
死にたくない。
死にたくない。
死……。
彼が目を覚ますと、柔らかい布団の中であった。職業柄、警戒心が強いので瞬時に周囲を確かめる。
6畳くらいの部屋には、彼自身が寝ているベッド1台に、備え付けのサイドボードと燭台があるだけだ。
彼は窓辺から差し込む光の眩しさに、思わず片目をギュッと閉じた。
「ここは……どこだ? ウグゥッ」
ベッドから起き上がろうとした途端、右腕に激痛が走る。目を遣ると、右腕はギプスでガッツリ固定されているではないか。
そのとき彼は思い出した。
遠方からプリムローズ王女を狙撃しようとしたら彼女に気付かれて、上からのしかかられて、石を詰めた靴下でやたらめったら殴られたことを。確か右腕だけ少なくとも20回以上は叩かれた気がする。
(あのとき俺は殴られながら、意識を失って……)
アルカネット警備隊の狙撃手は左手で頭を抑えながら、気絶する前の記憶を取り戻していく。
すると部屋のドアがおもむろに開いて、丸眼鏡をかけた、身長150センチ足らずの小柄な男が入ってきた。
その彫りの浅い顔立ちと黄みがかった肌は、間違いなくドワーフの者だろう。
「急に動いてはいけません。ゆっくり身体を起こしてください」
ドワーフは高くも落ち着いた声でそう言うと、狙撃手に近寄り、彼が起き上がるのを手伝った。
そして自分の二の腕の辺りを軽く叩きながら、現状が把握できていない様子の狙撃手に説明する。
「貴方の右腕は上腕骨骨幹部骨折といって、肩と肘の間を繋ぐ骨が折れていたところに、チタン製の金属プレートを入れて固定している状態なのです。しばらくは安静にしてくださいね」
それでもなお呆然としている狙撃手に、ドワーフの男は微笑みかけた。
「私はユージンと言います。貴方の手術を担当した医者です」
「医者? なんでドワーフが俺の手当てを」
狙撃手はいぶかしげにユージンを睨みつける。
彼は飄々とした調子で「さぁて……」と呟きながら、サイドボードの上に置かれたポッドから水を注ぎ、狙撃手にコップを差し出した。
「帝都の医大に入学したなら、医学生はまず初めての講義でこう教わるのですよ。『医師とは患者の持つ思想や信義、身分などを理由に診療を拒否してはならない。治療を求められたら、その場で可能な限り適切な医療行為を施すこと』、と……」
ユージンは垂れ気味な小さな焦げ茶色の目をますます細めた。頭が動くたびに背中の辺りまで三つ編みに結っている黒髪が揺れる。
「貴方が軍人だろうと百姓だろうと親の仇だろうと、私は医者として貴方を助ける義務があったのです。ハハ、手術にかかった費用は今すぐ請求するわけではありませんので、ご安心を」
そこへさらにパタパタパタ……と、小走りの足音が近づいてきて、再びドアが開かれた。
「良かった。マスイ? から目が覚めたのですね!」
赤みがかった金髪に、飴色の瞳の少女――プリムローズが朗らかな笑顔で部屋に入ってくる。
狙撃手は彼女の姿を捉えるなり胸がざわめき、背筋に悪寒が走った。
それに気付きもしないプリムローズは、上機嫌になりながら小躍りした後、ユージンの両手をとった。
「ユージンさん、兵士を助けてくださってありがとうございます。貴方は彼の恩人ですわ!」
ユージンはハハ、と困り笑いのような表情を浮かべる。
「いやはや、手術道具を三輪自動車に積んでおいて良かったです。それでは私は、下の部屋で仮眠をとらせてもらいますね……」
彼は夜通し狙撃手の右腕の手術をしていたので、本当は疲労困憊であるのだ。
「……」
ドワーフの医者は退室する際、すまなさそうな憐れんでいるような眼で、狙撃手を一瞥した。
狙撃手はますます胸騒ぎを覚える。
「初めまして……は、おかしいかしら。私がベリロナイトの第一王女、プリムローズです」
プリムローズはベッドサイドに近寄ると、天真爛漫な笑顔を狙撃手に向けた。
「ここはカルチェラタン水軍の寄合所。貴方は今、水軍の捕虜になっているのですよ。さぁ、これから私のする質問に何でも答えてくださいな」
アルカネット暦445年5月22日の、カルチェラタンの真っ青な空が冴え渡る爽やかな朝のことである。




