第六章 小さな訪問者
「ベリロナイト領内で政治犯の集団脱獄があったそうで、アルカネットからカルチェラタンには入れるのですが、カルチェラタンからベリロナイトへ出られないのです。私もこの街に滞在して、もう3日になります」
ユージンはやれやれと肩を竦めた。
カルチェラタンを訪れるアルカネット人の大半は、通行手形の要らないこの街での観光やビジネスを主な目的としているが、ベリロナイト領内に入りたい彼としては足止めされているような状態が続いているのだ。
それはプリムローズたちにとっても他人事ではない。
「そんな……」
意気消沈のプリムローズは肩を落とし、椅子に座り直した。少し不貞腐れたような様子で頬を膨らますと、皿の上の砂糖菓子に手を延ばす。
「もう、どこのどなたなんでしょうね。こんなときに脱獄するなんて」
「十中八九、義勇十字団の者でありましょうな」
オリバーはそう返事しながら、苦味の強いコーヒーを飲もうとする彼女の手元に、水の入ったグラスをススッと寄せる。自分の先輩が脱獄事件の発端であるとは考えもしない。
「船を降りる前はチャンスだって言ってたのになぁ」
ディエゴはそういう顔もするのか、と拗ねたプリムローズを意外そうに眺めた。
「プリムローズ殿下、今日のところはこの街で静かに過ごされるほうがよろしいだろう」
バルトルトはそう言って彼女をなだめる。
「むやみに街から出ようとすれば、あの警備隊が何処で目を光らせているかもわからん」
オリバーは「そうであります」と彼に強く同意した。
「アルカネット警備隊も要注意ですが、義勇十字団がそこかしこに潜んでいる恐れがあります! 先ほどのように襲いかかってくるやもしれませぬ」
「えっあの人、義勇十字団だったのですか! どおりで目つきが普通じゃないと思ったわ」
「あんた知らないで追いかけたのか……危なっかしいな、おい」
会話の弾む最中、ユージンは小さなメモ用紙に万年筆でサラサラ、と文字を綴っていく。
「関所の封鎖が解かれるまで、しばらくかかるでしょう。これは私の宿泊先の住所です。何か私にお手伝いできることがございましたら、こちらまでご連絡ください」
そう言って住所の書かれた2枚のメモ用紙を、プリムローズとバルトルトにそれぞれ手渡した。
ありがとうございます、とプリムローズは礼を言って受け取る。
「宿屋……我々も今晩何処に泊るか、決めなければなりませんな」
オリバーは兜で覆われた顎に拳を当てた。
「もうユージンとおんなじとこでいいんじゃねーか?」
そう言うディエゴに、ユージンはアハハ、と困り笑いを浮かべて頬を掻いた。
「あー、私の泊っているところはいわゆる木賃宿でして、小さな部屋だから君だと天井に頭をぶつけてしまうと思います。こう言っては何ですが、他のお客さんはちょっと柄の悪い感じの方が多いので、女性やお子さんが泊まるのもお勧めできません」
「なんでそんなとこに泊ってんだ」
「宿泊費をケチ……節約したかったものですから。貴重品は肌身離さず持ち歩いていますよ」
冷ややかな視線を向ける友人に対し、ユージンは床に置いた黒い鞄を抱えてみせる。
バルトルトは助け舟を出すように口を挟んだ。
「この寺なら今ミルコ聖人がお休みになられている部屋と、あと一室空きがあるが」
「私たちを泊めてくださるのですか?」
プリムローズの問いにバルトルトは勿論、と答えた。
「ハイドロディウス派には理知と探究の精神が求められる。自らの考えを以て善しと判断したものに施すことは、己の素養を積む好機である。狭いがお寛ぎなさるといい」
「ありがとうございます! ではお言葉に甘えて……1台のベッドに2人寝るとして、私とミルコさんでひと部屋、もうひと部屋をディエゴさんとオリバーに分かれてお借りしましょう」
「狭い」
ディエゴは彼女の提案を一蹴した。
「俺がボウズをお腹に乗せて寝るからよ、片方の部屋に姫さんたちが泊まればいいだろ」
今度はオリバーが首を横に振った。
「なりませぬなりませぬ! 王家の方と騎士が同室など恐れ多くてッ……それなら自分は廊下で休むであります!」
「まぁオリバー、そんなことをされたらかえって気を使います。なら男女に分かれましょうか」
「それだと結局、男部屋がギュウギュウになるじゃねーか」
部屋割りで揉める彼女たちを、バルトルトとユージンはコーヒーを飲みながら生温かい目で見守った。
そんなとき、トントントン、と裏口の戸を軽くノックする音が聞こえてきた。
住職のバルトルトは「待たれよ」と言って立ち上がると、閂を外して戸を開ける。
すると戸の前に立っていたのは、日焼けした色黒の男児だった。
「トラヴィスではないか……。如何した、ひとりで来たのであるか?」
バルトルトは顔見知りらしくその場で腰を落とすと、寺院から反対の方角にある食堂の一人息子に、穏やかな口調で訊ねた。
トラヴィスはうつむきながら、口を開いた。
「お坊さんに……ほしいんだ」
彼の声は暗く、聞きとれなかった住職は、うむ? と首を傾げる。
「父ちゃんを探してほしいんだ……!」