第一章 プリムローズ王女、乗馬で散歩をたしなむ
うろこ雲に覆われた淡い青空の下、見渡す限り黄金色のススキ野原は、微かな風にさえもこうべを揺らしていた。
そこへ一頭の栗毛の馬が、のんびりと蹄を鳴らし、薄いグレーの乗馬服を着た少女を乗せて闊歩する。人間ならば鼻歌でも交えたことだろう。
「いい天気ねぇ、マロン。こんな日はずっとお前と散歩していたいわ」
赤みがかった金髪を耳の上まで束ねた少女は、手綱を握りながら跨っている愛馬に話しかけた。ほとんど独り言のようである。
歩く度に揺れるマロンの尻尾と主人の結い髪は、周りの景色も相まって、田園詩的な風情を醸し出していた。
「おはようございます。プリムローズ様」
彼女達の後ろから、よく通る男性の声が届いた。
金髪の少女――プリムローズが振り返ると、これまた芦毛の馬に乗ってやってくる、緋色の軍服姿の青年が見えた。
「おはよう、エヴァン。いつもこんなに朝早いのですか?」
プリムローズは、馬で近づいてくる青年に挨拶を返した。
「はい、馬の世話がありますから」
はきはきと答えるエヴァン青年はきっちり身支度を整えていて、櫛でとかしたであろう赤茶色の髪を、額の後ろへ綺麗に流していた。少しだけ下ろした前髪は、彼の気障っぽさを感じさせる。
「プリムローズ様こそ、今日は早くお目覚めになられたようで」
「ええ……なんだか目が冴えてしまったのです」
恥かしげにそう言うと、プリムローズは立ち止まりかけたマロンの胴を両脚で抑え、歩みを促した。
エヴァンの馬はその少し後を歩く。
「明日はいよいよ修好条約締結のパーティーですね。緊張されておいでですか?」
「緊張していますとも。だって、初めてアルカネットの皇帝陛下にお会いするのですから……何か粗相をしてしまったらどうしましょう」
エヴァンは切れ長の灰色の目を緩ませて、ご心配は無用です、と微笑みかけた。
「我が国の姫君が他国に引けを取ることなどありません。堂々と胸を張っていらっしゃればいいのです。馬だって初めのうちは鐙に足をかけることすら怖がられておいででしたのに、今では一人でお乗りになられているではありませんか」
「皇帝陛下と馬は違います」
プリムローズが唇を尖らせて言い返すと、エヴァンは朗らかな笑い声を上げた。
「ですが、今夜は十分な睡眠をお摂りになるよう早めにお眠りください。そうでないとアイヴィー嬢も……」
「――プリムローズ様!」
噂の少女が慌ただしく走ってきた。深緑色の長いエプロンドレスの裾が、膝まで翻るほどの激しい駆け足だ。
「アイヴィー!」
プリムローズは目を丸くし、手綱を後ろへ引いてマロンに止まるよう促す。
エヴァンはより巧みに手綱を扱い、芦毛の馬を後ろへ方向転換させた。
「お部屋にいらっしゃらないから探しましたよ……。馬番に、マロンに乗って放牧場へ行かれたと聞きましたので……」
アイヴィーは息を切らしながら、ずり落ちたエプロンの肩紐を直した。そして気の強そうなアーモンド型の青い瞳で、姫に咎めるような視線を送る。白いキャップにまとめた黒髪は、几帳面な彼女にしては珍しくややほつれていた。
自分付きの侍女に余計な苦労をかけてしまったプリムローズは、申し訳なさそうに眉を八の字に下げた。
「ごめんなさい、もう朝食の時間だったのね。マロンを厩に帰したらすぐ戻るわ」
「……朝食をお出しできないからという理由だけで探したのではありません。どうか城の外へお出かけになる際は、私に一言仰ってくださいませ」
「ここも城の敷地内なんだけど……」
「外は外です」
アイヴィーにぴしゃりと言い返されたプリムローズは、うう……とたじろいだ。
アイヴィーはプリムローズを心配しているだけなのだが、今は部屋にいてもそわそわして落ち着かないプリムローズにとって、逃げ道を塞がれてしまった気分になったのだ。
「まぁ、アイヴィー。騎士である自分がお傍に控えているのだから、そう心配せずともよいではないか」
2人の少女の会話を微笑ましく聞いていたエヴァンは、助け船を出すように口を挟んだ。
「エヴァン様……。お言葉ですが、騎士ならば姫様の単独行動を注意なさるべきかと」
しかし、かえって藪蛇となってしまったようだ。侍女は少し上がり気味の眉をひそめ、馬上のエヴァンを見つめた。彼は困ったように笑いながら片手で頭を掻いた。
プリムローズ・リリィ・ベリロナイト。彼女こそがこの国の第一王女である。今年で14歳になり、再来年にはアルカネットのヴォルフガング皇太子に嫁ぐことが決まっている。
三日前、父王バクストン6世がカルチェラタン経由でアルカネットへ発った。修好条約の調印式を終え、明日には帰還する。そして皇帝イグアーツを居城キャンディスに招待し、修好条約を祝した晩餐会を催すのだ。
厩でエヴァンと別れた後、プリムローズはアイヴィーに城内の食堂へ連れていかれた。
キャンディス城は、山を背にした丘陵地帯の上に築かれており、堅牢な石造りの城壁に囲まれている。王家が普段過ごしている居館は城の最上階にある。
「あら、シャーロットは?」
プリムローズは食堂に入ってすぐさま、長卓の席に妹がいないことに気付いた。
「シャーロット様は昨晩からご気分が優れないと訴えられ、朝食はお召し上がりにならないと……」
「ちょっと顔を見に行ってくるわね」
アイヴィーの言葉を途中で遮り、プリムローズは食堂を飛び出した。
アイヴィーは小さく溜め息をついた後、手前にあったワゴンから重ねられた食器を出し、てきぱきと配膳した。
ビロードの絨毯が敷かれた廊下を進み、プリムローズは妹の部屋に着いた。両開きの扉をノックすると、キィ、と片方の扉が少し開き、中から老婆が姿を見せた。アイヴィーと同じ、深緑色のエプロンドレスを着て、白髪をキャップにひっつめている。
「これは、プリムローズ様。おはようございます」
「おはようマドンナ。シャーロットの体調が良くないって聞いたのだけど、入ってもいいかしら」
「ええ、勿論でございます。どうぞ……」
老婆、マドンナは目を細めて穏やかに微笑んだ。このマドンナは第二王女シャーロットの乳母で、城中の侍女らを指揮する侍女頭でもある。
少し腰の曲がった小柄なマドンナは、ゆったりとした動作で開ききった扉を抑え、プリムローズを室内へ促した。
シャーロットの寝室は、窓のカーテンが開いて陽の光が差し込んでいる。花模様の彫刻があしらわれたベビーピンク色の壁や、小さな円卓に置かれた人形と花瓶など、可愛らしい調度品が9歳の少女のための部屋にふさわしい。
「シャーロット様、プリムローズ様がいらっしゃいましたよ……」
マドンナは天蓋付きのベッドで寝込んでいる姫の枕元に立ち、優しく声をかけた。プリムローズもその隣にいる。
「うう~……お姉様……?」
唸るシャーロットは真っ赤な顔をしていて、本当に具合が悪そうだ。下ろしたままの赤みがかった金髪が一筋、頬に張りついていたのを、プリムローズは指でそっと払う。脂汗をかいていて熱があった。
「医師は何て?」
「極度の緊張による疲れが出たのだと……。もう少し熱が上がってきたら、熱冷ましの薬を飲ませて差し上げるよう、言っておりました」
マドンナはプリムローズの問いに答えながら、ベッド脇に置いた洗面器の水で冷やした手拭いを絞り、シャーロットの額に当てた。
「熱のせいで頭が痛くなってらっしゃるようで、お可哀想に……」
「極度の緊張……」
プリムローズは何か思う節があるようにそう呟くと、膝をついて、心配そうにシャーロットの顔を覗き込んだ。
「シャーロット。ねぇ、何か欲しい物はある?」
「……うう~」
かすれた弱々しい声で唸る妹の頬を、姉は労わるように撫でた。
「お姉様……」
「ええ」
シャーロットは苦しげな表情で口を開いた。プリムローズは話を聞きとるために、いっそう顔を近づける。
「……馬臭い」
「えっ」