第一章 誰も生きては帰さない
「……」
あばら家の増築された2階、明かりのない真っ暗な部屋の窓辺で、フィリポは片膝をついて弓を構え、深く息を吐いた。
敵も味方も擦った揉んだの最中、周囲の目を盗んで梯子を伝い、彼は2階に上がった。空き地に着いたとき、敵の死角となる場所を瞬時に見つけていたのだ。
フィリポは背負う矢筒から新しい弓矢を取り出し、弦につがえて手前に引く。キリリ、と張りつめた弦と、研ぎ澄まされた鋭い矢先は、今にも義勇十字団の心臓を貫こうと待ち構えている。
(勘の鋭い山の動物より、人間の方が狙いやすい……)
彼は生ゴミの異臭に慣れない頭の片隅で、ぼんやりとそう思った。
「エルフよぉ、俺はアンタの敵じゃねぇぞ。この老いぼれを殺したって何の得にもならねぇからな」
彼の背後にいる流浪民の老人は、壁にもたれかかり、面倒くさそうに胡坐をかいてどっしり座り込んでいた。義勇十字団とエヴァン達の戦いに我関せず、といった感じだ。
「わかってるよ。今は話しかけないでくれ」
家主をおざなりにあしらいながら、フィリポは目下の戦況を見て、仲間の後方支援にと、再び敵を射抜いた。部屋の中の明かりは老人に頼んで消してあるが、外は空き地の住人たちが点けた松明や焚き木の火がある。フィリポの目にはそれで十分だった。
エヴァン達の足元近くで、義勇十字団の少女の死体が無残にもそのまま転がっている。フィリポは彼女から目をそらした。そうしないと、花盛りの少女が、命を賭して為さねばならぬことがこの世にあるのだろうかと、やりきれなさに弓の腕が鈍りそうだった。
「……しんどそうだな」
老人はしゃがれた声で呟いた。フィリポの両耳がぴくりと動く。その横顔は図星と悟られまいと、下唇を噛み、無表情を気取った。
「なるべく手を汚したくない。アンタの目つきがそう言ってるよ」
青年の弱さを見抜いた老人は、胡坐をかいていた膝に腕を乗せ、前屈みになる。
「俺も昔、戦争に行かされて、嫌な思いたくさんしたよォ……。もう何もかも憎たらしくて、何もかも空しいんだ。おかげでこのザマさ」
落ちぶれたかつての戦士は歯抜けの口を開いて、乾いた笑いを漏らした。
「人殺るときはまず自分の感情殺しな。じゃないと壊れるぞ」
「うるさいってば」
老人は苦笑しつつ肩をすくめた。
フィリポには未だ迷いがある。ベリロナイト騎士団の一員として、国賊を退治するのは当然だと理解しているつもりだった。だが敵とはいえ民間人と大差ない、しかも女子供を目の当たりにすると決心が揺らぎそうになる。それが彼の人情味であり、脆さでもあった。
エヴァンの剣舞、ビクターのマテリア術、フィリポの射撃を前に、挑む義勇十字団員らは続々と倒れ、乱闘は終結した。
フィリポは梯子を下りて、チームメイトの元へ駆け寄る。空はすっかり夜になっていた。
死屍累々の地獄絵図となった地面は、ビクターの水刃の槍を浴びて水溜まりができており、少し血が混じっていた。彼はそのまま死に絶えた少女の元に近付き、片膝をつくと、掌で虚ろな双眸を閉じさせた。
そこへエヴァンがやってきて、フィリポの襟首を乱暴に掴んで無理やり立たせた。
「貴様、よくも俺の標的を獲ったな……! 二人して俺を追うなど、余計な真似をしおって、喉の一つでも掻き切ってやらねば気が済まんわ!」
エヴァンは整えた髪を振り乱しながら恫喝した。
「うぎぅぐ……!」
襟首を掴まれたフィリポは苦しさを訴えるように両耳を震わせた。
「やめろ!」
普段は温厚なビクターが珍しく声を荒げて一喝する。
「フィリポが騒ぎを聞きつけてこの場を発見しなかったら、お前は今頃死んでいたぞ!」
ビクターはエヴァンに近づきながら説得を試みた。
「エヴァン、お前は私達に何も教えてくれなかったじゃないか。チームは連携が肝心だのに、自らの事情を伝えず、連帯責任の生じそうな状況でも、放っておいてくれなどと、子供の言い分だろう。干渉されたくなかったら、せめて最低限の説明をしてくれ……!」
圧倒的な正論にエヴァンはきまりが悪そうに舌打ちをして、フィリポの襟首から手を放した。フィリポは爪先立ちから靴底で完全に着地すると、喉に手を当ててゴホゴホと咳き込んだ。
「ククク……フハッ……」
3人の仲間割れをよそに、脇腹に矢を受けた男は、地に伏しながら笑いを漏らした。
「……何が可笑しい」
ドスの利いた声でエヴァンは男に尋ねた。その眼は完全に凍てついている。
「これで終わりと思うなよ……」
息も絶え絶えに男は答えた。
「お前は勘違いしている……義勇十字団は平等……上も下もない……。誰もが自由……我々の同胞は、どこにでもいる……」
「どういうことだ! 何を企んでいる?」
エヴァンは追求したが、男はそのまま息を引き取った。
「……くそっ、まだ残党が潜んでいるのか!」
「義勇十字団といったな、反王政組織か。エヴァン」
「こんな穢れた場で長々と話す気にはなれない。先に詰所に戻れ」
ビクターの問いを遮り、鞘に納めたサーベルを再び抜くと、エヴァンは矢が刺さった頬に傷のある男の亡骸へ向かった。そして剣を大きく振り上げる。男の胴と首が骨肉ごと両断された。
今宵最後の血飛沫は朧月にかかり、柔らかな白金の光を赤黒い雫がなぞった。