第一章 紫苑の花言葉
その頃、プリムローズは中庭にいるアイヴィーを訪ねていた。
「アイヴィー!」
腰のあたりまで届く薄紫のシオンの花畑に囲まれた、石畳の小道を駆け足で渡り、プリムローズはアイヴィーの白いエプロン紐の結び目を目指した。
「プリムローズ様」
呼び声に振り向いたアイヴィーは、剪定したシオンの花を、腕にかけたバスケットに入れているところだった。
「シオンの花が綺麗に咲いておりますので、お部屋に飾ろうと思いまして」
「怪我はちゃんと手当てしたの?」
駆け寄ってきたプリムローズは食い気味にアイヴィーの言葉を遮った。アイヴィーはご心配には及びません、といつもの落ち着いた様子で答えた。
「きちんと手当てしました。貸してくださったストールですが、後で洗濯してお返しします。ところで、どうされましたか」
「ああ、収穫祭に一緒に行ってくれたお礼が言いたかったの。お祭りしている街の雰囲気が味わえて楽しかったわ! 本当にありがとう」
プリムローズはにこやかにアイヴィーの両手をとって、ぶんぶんと振った。
「そんな、わざわざ……」
「それでね、さっき渡しそびれちゃったんだけど」
王女はキュロットのポケットから小さな紙袋を取り出し、侍女に半ば強引に手渡した。
「あの」
「開けてみて」
「……まぁ……!」
アイヴィーは紙袋の中を開けると、目を丸くして感嘆した。中には金の鎖を通した、オレンジ色の小さな石のペンダントが入っていた。彼女がペンダントを手にすると、夕日のような温かな色の石は、光を反射して美しく煌めいた。
「色はオレンジで良かったのよね?」
プリムローズは照れたように両手を背中で組みながら身を捩った。市場で色の好みを聞いてきたのはこのためだったのだ。
「これを私に……?」
侍女は遠慮がちに尋ねた。立場上、姫君にアクセサリーを下賜されるのは躊躇いがある。
「それ、私のとお揃いなのよ。二人の友情の証!」
プリムローズは服の襟をめくり、首に下げたペンダントを見せた。アイヴィーと同じデザインで、ピンク色の石だ。
それを見たアイヴィーは、一瞬だけ瞳を潤ませたが、同時にふふっ、と笑いがこみ上げてしまった。
「えっなに、なに?」
珍しく笑いだしたアイヴィーに、プリムローズは面食らった。
「先程は友情の証を、随分、値切りされていましたね……」
「あ、あれはだって高過ぎたんですもの! いや、違くて……うう……」
返事がしどろもどろになって、言い訳がましくなってしまい、プリムローズは恥かしくてたまらずうつむいた。
「ありがとうございます。ずっと、大事な宝物にします」
アイヴィーは微笑みながら、さりげなく目元に溜まった涙を指で掬った。
「――明日いよいよパーティーね」
中庭のベンチに座りながら、プリムローズは手を膝の上に乗せて、何となしに両足を小さくばたつかせた。
そうですね、とアイヴィーは相槌を打ちながら、いったん花籠を足元に置き、貰ったペンダントをハンカチで丁寧に包み、エプロンのポケットにしまった。そして数歩先の池に近付き、鯉にパン屑を与えた。
上から落ちてくる餌に引き寄せられた鯉は、水面から顔をのぞかせて口をパクパクと動かした。
「ヴォルフガング様ってどんな方かしら」
プリムローズはぼんやりした様子で、澄み切った空を見上げる。
「ううん、私にはなんとも……」
侍女は小首を傾げた。かの国の皇太子の詳しい話を、一般市民はほとんど知らされてない。ベリロナイト人ならなおさらである。
「そうね、お身体の調子が芳しくないそうだから、滅多に姿をお見せにならないのですって。でも優しい方だといいな。ヴォルフガング様がお元気な時は、一緒にマロンで散歩したいわ」
「マロンを連れて行くのですか?」
アイヴィーは思わず振り返った。
「あっ、スターチス宮殿には厩があるかしら」
姫は頬に掌を当てて困ったような表情を浮かべた。
「勿論あると思いますが……」
嫁入り道具といえば普通、化粧品や裁縫道具じゃないかしら、と思いアイヴィーは苦笑した。
会話が途切れ、しばらくの沈黙があった。ポチャン、と池の鯉が跳ねる。
「……本当はね、もうすぐ皇太子様に嫁ぐって実感が全然湧いてこないの。生まれたときから決められていたことなのに……。私、向こうの宮殿でお妃様になっている自分が想像できないわ。おかしいわよね、まるで他人事なの」
プリムローズは自分の爪先に視線を落としながら、履いているキュロットの布をギュッ、と指が白くなるまで握りしめた。
「霞がかった一本道を歩くみたい。ずっと真っ直ぐ進むだけだから迷いようがないのに、霞の向こうに何があるのかはっきりしなくて、一歩踏み出すことすら躊躇ってしまう。……えへへ、情けないでしょ?」
その声は僅かに震え、笑顔はぎこちなかった。今まで誰にも言えなかった、彼女の不安の吐露である。
年齢より幾分か幼い性格であっても、国のため、修好条約のため、アルカネット皇室に嫁がなければならないことは分かっていた。だが生まれ育った母国を離れ、顔も知らないうえに、かつて敵だった相手と婚姻するのは心細かったのだ。
「プリムローズ様……」
アイヴィーはプリムローズの元へ戻り、跪くと彼女の肩にそっと手を添えた。
気付いていたのだ。周囲の人々がプリムローズの結婚を当たり前の事だという風に扱っていたので、彼女が期待を裏切らないようプレッシャーに耐えていたのを。
そんな彼女に中途半端で同情的な言葉をかけるのは、かえって傷付けてしまうだけなので、ずっと黙って見守ってきた。
しかし、プリムローズが不安を打ち明ける相手が自分のみだと確信した以上、アイヴィーは彼女を心から支えたいと思った。
「私も8つの頃、侍女としてお仕えするために故郷を離れたばかりの頃は寂しくて、恥ずかしながら夜眠れなくて泣いてしまうこともありました……。プリムローズ様が不安がられるのも無理はございません。新しい世界へ踏み出すときは、誰しも勇気が要るのです」
アイヴィーはプリムローズの肩から手を離し、そのキュロットを掴む手をしっかりとつないだ。姫の強張っていた指がほぐれていく。
「ですが、どうか一歩ずつ、ゆっくりでも歩み続けてください。いつかきっと霞を消し飛ばすほどの風が吹くでしょう。貴女様はそのとき、ご自分の進むべき道のりがはっきりとお見えになるはずです」
青い瞳と飴色の瞳が重なり合う。語りかける言葉の一つ一つが、プリムローズの胸に響いた。
「……私の進むべき……」
プリムローズは解き放たれたように、大きく息を吸った。迷路の出口手前へ背中を押された気分だった。
「そうよね、決められた道におどおどしたって仕方ないわ。大事なのは私が歩き続けるってことだもの……。ありがとう、アイヴィー」
王女はパッと晴れやかな笑顔を見せ、侍女も安堵したように目尻を緩めた。
「いいえ、お元気になられたのなら何よりです」
プリムローズは傍にいてくれる理解者を欲し、アイヴィーは自身の存在意義を求めた。それはたとえ、欠けたピースを取り繕うような、子供同士の拙い友情だとしても、互いに想い合っている事に偽りはなかった。
プリムローズは右手の突き立てた小指を、対面するアイヴィーの前にかざした。指きりの仕草だ。
「私がアルカネットに行っても忘れないでね」
「忘れるはずありません。私はいつまでも、プリムローズ様の侍女です」
アイヴィーも右手の小指を立て、二人は約束の誓いを交わした。
穏やかな秋風は薄紫の花畑を揺らし、シオンの花々はざわり、と揺れた。




