表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
プリムローズ・ストーリア  作者: 刈安ほづみ
序章
1/532

序章 修好条約締結

※序章は内容が世界観の説明という意味合いが強いため、とても長い話になってしまいました。もし途中で長いと感じられたら第一章からスタートし、お手すきのときに序章をお読みください。

 

 かつて、ふたつの国の間で長い戦争があった。


  アルカネット暦414年、西のアルカネット帝国と東のベリロナイト王国で戦争が勃発し、10年ものあいだ戦火が絶えなかった。しかし同暦424年4月21日、ベリロナイト国王バクストン6世は自国の消耗を危惧し、アルカネットに降伏を宣言した。


 アルカネット帝国皇帝イグアーツは、ベリロナイトの沿岸部にあるカルチェラタン港の割譲を要求し、長き戦争に終止符が打たれた。


 この戦いを「10年戦争」という。




 タイプライターのキーを叩く音と万年筆を滑らせる音が室内に響く。時折、改行を促すベルの音が鳴るだけで、その場にいる男2人の話し声や他の物音はほとんど聞こえなかった。


「テオドール、例の作成は順調か」

 一方の、低く冷淡な男の声が発せられると、タイプライターの打鍵音がいったん止まった。


 テオドールと呼ばれた青年は机に向かって作業をしていたが、傍らの声の主に向かって「はい」と顔を上げた。額にかかる黒髪がさらりと揺れる。

「約束の期日には間に合います」


「それなら構わん」

 窓際の席に座る男は部下に一瞥もくれず、目を通した書類の束に次々とサインを書き続けた――ジークムント・フォン・シュタイン、と万年筆は綴る。


 窓から差す柔らかな光が、ジークムントの一括りにした銀髪を、金剛石のように煌めかせた。それにひきかえ彼の表情は翳っていて、八角形の金縁眼鏡越しの両眼には、うっすらとクマができている。


 テオドールはふと、ジークムントの卓上の隅へ追いやられたカップが、もう空になっていることに気付いた。そして椅子から立ち上がると、向かいにある長卓に用意された、ステンレスのコーヒーポットを持ち運んだ。

「そういえば、新たな諮問機関の設立に、元老院の有力貴族たちが次々と賛同しはじめたようですね」


「ああ……あの馬鹿の差し金だろう。今までヤレお大臣だ、とふんぞり返っていたくせに、あれに踊らされるなど、あそこの連中は全員大馬鹿だな」

 部下がさりげなくカップに注いだコーヒーを啜ると、ジークムントはしかめ面で言い捨てた。年齢不詳の容貌だが、こうして額の皺やほうれい線がくっきり刻まれると、それなりにトウが立っていることがわかる。


「まぁ、隙あらば男の尻を撫でて悦ぶ変態にとって、裏から手を回す真似は造作もないことなのかもしれんな」


「弟君に、そのような……」


 雲行きが怪しくなってきたので、荒れる前にテオドールは話題を変えることにした。


「ウルリヒ閣下のお言葉をお借りするなら、それも時代が新たな風を望んでいる、ということなのでしょうね」


「……ベリロナイトの第一王女か」


 テオドールは苦笑しながら、コーヒーポットを元の長卓へ戻した。


「来週には皇后陛下とお呼びしなくては。ジークムント様」


 銀髪の男はふん、と鼻を鳴らしたが、先ほどより表情が幾分か和らいでいた。


「私の仕事が増えた原因のひとつだ」


 ジークムント・フォン・シュタイン。彼はシュタイン公爵家の嫡男であり、現在アルカネット新政府の秘書官として国家元首の業務に従属し、その執政を事細かに記録することを主な役目としている。テオドール青年は彼の補佐である。


「少し窓を開けましょうか。今日は良い天気ですので」


 僅かばかり機嫌の直ったジークムントを窺い、黒髪の青年は窓辺へ向かう。本当に機嫌が悪い時だと、彼の側へ近付くことすら許されないからだ。


 開かれた窓から涼やかな春風が吹き込み、室内のこもっていた空気と入れ替えられていく。呼吸と共に身も心も洗われていくような爽快感があった。


 シュタイン邸の外では、庭の雛菊が陽の光を浴びて風にそよいでいる。その牧歌的な景色に青年は目を細めた。


 祖父譲りの薄い顔立ちと小柄な体格のため、テオドールは年齢よりも幼く見られがちだが、焦げ茶色の瞳は遠くを見据えるような落ち着いた眼差しをしている。


 テオドールの机にある、文鎮の置かれた書類のページが、風でパラパラとめくれはじめた。彼の任されている作成中の文書だ。

 題して『アルカネットとベリロナイトの共栄』。10年戦争から両国が様々なしがらみを乗り越え、手を取り合うまでの軌跡を綴っている。この物語は、彼の書をもとに作られた、ある少女の冒険譚である。




 終戦後、アルカネットとベリロナイトは、割譲地のカルチェラタンを除いて国交を断絶していた。


 アルカネット暦428年、長い戦争からしばらくして、皇帝イグアーツと皇后シルヴィアとの間に男児が生まれた。彼の名はヴォルフガング。皇族の嫡流として正当な継承権を持つ皇太子である。戦後もたらされた吉報に民衆は大いに喜び、皇太子の御披露目を待ち望んだ。


 しかしヴォルフガング皇太子は生まれつき病弱であり、外出すらままならず、いつも床に伏していた。

 我が子の介抱疲れと周囲の無遠慮な中傷に心身を病んだシルヴィアは、スターチス宮殿の塔から身を投げてこの世を去った。この事件はアルカネット全体に衝撃を与え、国民の不安を煽ることとなった。


 一方、ベリロナイト国王バクストン6世は平和主義を掲げ、敗戦後の復興に努める。戦時中、徴兵制だった自軍を本来の志願制に改め、軍事費の大半を戦災者の支援に充てた。さらに国内の食糧供給を安定させるため農業を奨励し、飢餓者の数を抑えることを試みた。


 ヴォルフガングが2歳の頃、バクストン6世とその王妃ソフィアとの間に女児が生まれた。彼女は生まれた季節である春の花に因んで、プリムローズ姫と名付けられた。


 妻子のスキャンダルから国民の意識をそらしたかったイグアーツは、バクストン6世に修好条約の条件として、生まれたばかりのプリムローズをヴォルフガングの許嫁にすることを提案した。皇太子がかつての敵国の第一王女を娶ることにより、国民の溜飲を下げることができ、なおかつベリロナイトへの牽制にもなるからだ。いわゆる政略結婚である。


 ヴォルフガングの容態を知っていたバクストン6世は苦渋の決断を強いられた。だがベリロナイトは国境沿いを険しいハルナ山脈に阻まれており、隣国のアルカネットと国交断絶したままだと、陸の孤島と化してしまう。自国経済の停滞を恐れたバクストン6世は、その提案を承諾した。


 その後、互いの主張をぶつけ合い、両国は14年にわたる修好条約の交渉を行った。




 444年9月23日、アルカネットの帝都・スターチス宮殿の謁見の間において、修好条約の調印式が行われた。


 壇上の玉座には皇帝イグアーツ、対面する国賓席にはバクストン6世が座っており、その後ろにベリロナイトの使節団が片膝を立てて控えていた。周囲には宮殿の文官や近衛兵らが整列している。百を超える人数がいても、大理石の広い床は埋め尽くされることなく、倍以上の人数がいてもまだ余裕があるだろう。


 場内は沈黙と厳かな雰囲気に包み込まれていた。


「これより、アルカネット帝国とベリロナイト王国の修好条約における、5つの誓約条項を申し上げます」


 銀髪の秘書官ジークムントは、皇帝陛下と異国の王の間に立って一礼すると、手にした上等の羊皮紙の内容を読み上げ始めた。普段の彼より恭しい口調である。


「一つ、両国民が互いの国へ渡る場合は、何人も国境にある関所で通行手形を提示すること。これを破る者は強制送還となる。ただし、アルカネットが実効支配しているカルチェラタンの街においては、アルカネット国民の手形提示は要らない」


 この時、ベリロナイトの使節らの表情が僅かに強張った。カルチェラタンの港町はベリロナイトの国内にあっても、アルカネットが領有権を握っているため、外国のように扱わなければならないからだ。つまり、カルチェラタンに住むベリロナイト人は、アルカネットに管理されている状況にある。


 先の戦争でベリロナイトは降伏と引き換えにカルチェラタンを差し出したので、この条項を撤廃できなかった。勿論、唯一の航路を経たれたのは大きな痛手である。


 内心悔しがっている部下達をよそに、バクストン6世は毅然とした態度を崩さなかった。60まで生きれば天寿を全うしたと言える時世に、齢40を過ぎても、その弛んだ目蓋から覗く琥珀色の強い眼差しは衰えることなく、目の前のイグアーツを見据えていた。敗戦したといえど、一国の王としての誇りを忘れていない。


 対するイグアーツは深淵のような黒い双眸を誰とも合わせず、ただ視線を床に落としていた。せせら笑うように歪められた口端から、気落ちしているわけではない、何か薄暗い感情が込められている。


「一つ、両国民が互いの国で罪を犯した場合、何人もその国の法律で裁かれること。なお、罪人の弁護に祖国の人間を召喚してもよい」


 今度はアルカネットの文官達が顔をしかめた。この条項はベリロナイト側が発案したものだ。「罪人の弁護に祖国の人間を召喚してもよい」とは、冤罪だった場合の救済措置である。敗戦国として不利な立場のベリロナイト人が、騙されて知らぬ間に悪事の片棒を担がされないための条項である。


 当然、ベリロナイト人を利用したがるアルカネット人にとって目障りであることこの上ないが、条文の一文目に公平性が保たれているため、表立って反論することができなかった。勝戦国として大義名分を掲げている以上、泥がつく真似は避けたいのだ。


「一つ、ベリロナイトのアルカネットに対する武力行為は未来永劫禁ずること。なおカルチェラタンにおいて、秩序を乱すような大規模の事件・暴動が発生した場合、鎮圧のためベリロナイト軍の出動を認める」


「一つ、平和を冒涜する第3の国家・反社会勢力がどちらかの国で侵略行為に及んだ場合、もう一つの国もその問題解決に協力を惜しんではならない」


 ジークムントが条項を次々と読み上げている間、イグアーツはまるで興味なしという風に、欠伸をしたと思えば蓄えた黒い顎鬚を指で弄んでいた。この重要な場面に何を考えているのか、我が国との外交を軽んじているのか、とベリロナイトの使節団は憤りを覚えた。中には拳を固く握り締め、怒りに震える者もいた。


「一つ、両国の友好の証として、アルカネットのヴォルフガング皇太子殿下とベリロナイトのプリムローズ王女殿下が婚姻すること――以上。御両人とも、誓約条項の内容に異議はございますか」

 条項を読み終え、ジークムントはイグアーツとバクストン6世、それぞれに顔を向けた。


「相違ない」

 イグアーツは気怠そうに答えた。この時点で異を唱えることはありえないので、ジークムントの質問は形式的なものである。


「……右に同じく」

 バクストン6世も頷く。ベリロナイトにとって不平等条約そのものだが、今更こじれても仕方ない。アルカネットに逆らわないというポーズを取りつつ、国交回復した暁には貿易で稼がせてもらおうという腹積もりだ。


「ではここに、署名を」

 ジークムントは先程から手に持っていた羊皮紙の契約書と羽ペンを配り、各々に名前を書かせた。そして記入済みの契約書を確認すると、振り返って皆の前でそれを掲げた。


「両国の国家元首の調印を以て、本日より修好条約は締結されました」


 その場にいた全員が一斉に拍手した。それぞれの思惑は異なれども、小気味良く謁見の間に響き渡る拍手の音は、燃え盛る炎に薪を投じた時の音にも似ていた。人々に安寧をもたらす灯火になるか、あるいは新たな戦の火種となるか、ベリロナイト人はまだ知る由もない。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ