ハツコイ
一部、台詞に方言が使われています。
―――番、愛知県立豊橋北高等学校・・・
アナウンスの後、タクトが降り下ろされる。
張り詰めてゆく緊張感。
それを解きほぐすように薄暗い客席を見渡せば・・・
その中に、貴方がいた。
神経質にタクトを振る細い指。
眉間に皺を寄せながら、真剣な眼差しでスコアを見つめる。
教室に満ちる緊張感。
一つ一つ丁寧に音を紡いでゆく・・・
「よし、今日はここまでだ」
その言葉を合図に、空気が緩む。
タクトを置くと、先程とは打って変わった屈託のない笑顔を見せた。
皆が、帰り支度を始める。
何人かの生徒が、先生の周りに集まり雑談を始めた。
「お腹減った~!何か食べてかん?」
「チョコ食べたい!コンビニ寄ってこまい」
「おいおい、買い食いなんかせんで、真っ直ぐ帰れよ」
楽器の手入れを終えると、ロッカーへしまう。
ちらりとそちらへ目を向ければ、先生と目が合ってしまった。
銀縁の奥の双眸が、すっと細められる。
その視線に囚われ、動けなくなる。
「気を付けて帰れよ」
先生の言葉にハッと我に返れば、周りの生徒達が怪訝そうに私を見ていた。
「お先に失礼します」
そう言って頭を下げると、教室を後にした。
帰りは、いつも一人。
友達が、いない訳じゃない。方向が違うのだ。
それに、家から学校までは徒歩3分。寄り道だって出来やしない。
朝は、ゆっくり出来て良いけれど、おかげでいつも遅刻ギリギリだった。
私は中学3年生。受験生だ。
もうすぐコンクールがあり、それが終われば引退となる。
先生の側に居られるのも、あと少し。
でも、私には、皆のように話し掛ける事が出来なかった。
話の輪に、入る事が出来なかった。
音楽の先生は、2人いた。
一人は、吹奏楽部の顧問の先生。
華奢で繊細な感じの若い男の先生。
もう一人は、合唱部の顧問の先生。
膨よかでオペラ歌手のようなオバちゃん先生。
私のクラスを受け持っているのは、オペラ先生の方だった。
私は、オバちゃん先生の受けが悪かった。
どちらかというと寡黙で、思っている事を口に出さない態度が、気に障っていたのかもしれない。
その日は、校内合唱コンクールの練習だった。
ピアノの周りに集められ、パート毎に並ばされる。
私は、窓の直ぐ側に立っていた。
隙間風がピュウピュウと入り、寒くて煩くて、集中する事が出来ない。
何度もチラチラと窓を見ては、ソワソワと体を揺すっていた。
あと10分もすれば授業が終わる。
そんな時、気付いてしまった。鍵が、ちゃんと掛かっていない事に。
下りてはいるがズレていて、その所為で、窓が少し開いていたのだ。
気付いてしまえば、気になって仕方がない。
そっと窓に近付くと、一旦鍵を上げ、しっかり窓を閉めてから鍵を掛け直した。
案の定、隙間風は入らなくなり、音もしなくなった。
これで、授業に集中出来る・・・
そう思って振り返ると、オペラ先生が私を睨み付けながら言った。
「このクラスには、真面目に授業を受けない生徒がおるだね」
クラスの全員が、私を見ていた。
・・・ショックだった。
近くにいたクラスメイトは、私が何をしたのか見ていたはずなのに、何のフォローもしてくれなかった。
何よりオペラ先生の、その言い回しに傷付いた。
・・・私は、真面目に授業を受けたいから、窓を閉めたのに・・・
必死で涙を堪え、残りの数分を過ごした。
授業が終わり、オペラ先生を初め、皆が音楽室から出て行く。
私はショックから抜け切れず、その場に呆然と立ち尽くしていた。
暫くすると、次の授業の準備の為、もう一人の音楽の先生が入って来た。
残っていたクラスメイトの何人かが、話し掛けている。
私はハッと我に返り、表情を取り繕いながら、教室へ戻ろうとした。
何かを感じ取ったのか、先生は、じっと私を見つめていた。
逃げるように、私はその脇を通り抜けようとした。
けれど、先生は、私の腕を掴むと強引に引き寄せて、その腕の中に強く抱き締めた。
華奢な見た目とは違う、厚い胸板。
女の子とは違う、ゴツゴツとした大人の男の人の感触。
力強い温もりに包まれると、私の中の張り詰めていたモノが音を立てて崩れた。
堰きを切ったように、私は泣き出した。
泣き止む迄、ずっと黙って背中を撫でてくれた。
雑談をしていたクラスメイトは、吃驚して、私達を見つめていた・・・
次の授業が始まる時間になり、やっと落ち着く事が出来た。
思いっ切り泣いたら、何だか吹っ切れたような気がした。
私は先生に
「ありがとうございました」
とだけ告げると、クラスメイトと一緒に教室へ戻った。
先生は
「頑張れよ」
とだけ言って、私を見送った。理由など、何も聞かずに。
放課後、クラスメイトと一緒に部活へ向かった。
何か言いたげな顔をしていたけれど、私は何も答えなかった。
先生も、何も言わなかった。
練習が終わると、また雑談を始めた。
私は、いつものようにその輪に入らず、いつものように一人で帰った。
先生とは、目を合わさなかった。
部活を引退すると、もう顔を合わせる事もなかった。
職員室へ行けば、いつでも会えるのに。
そして、卒業を迎えた。
先生は、私が卒業するのと同時に、他の中学校へ転勤してしまった。
もう、会う事も出来なくなった・・・
高校へ進学してからも、私は吹奏楽を続けていた。
1年生だったけれど、ソロパートを任された。
ガチガチに緊張して迎えたコンクール当日。
客席に、貴方を見付けた。
貴方は、私を見つめていた。
目が合うと、銀縁の奥の双眸が、すっと細められる。
「頑張れよ」
貴方の声が、聞こえたような気がした。
先輩達が泣いている。
「ソロ、頑張ってくれたおかげだにぃ」
バシバシと肩を叩かれ、抱き締められる。
ふわりと柔らかい先輩の感触。
優しい温もりに包まれて、私はホッとしていた。
コンクールの結果は、上々だった。
「アイスクリーム屋、寄ってかん?」
「部費、余っとるだで遠慮せんでもいいだでね」
皆が、嬉しそうに雑談をしながら荷物を纏め始める。
けれども私は、他の事を考えていた。
堪らず、その場を抜け出した。
客席の方に向かうと、ホールの入口の扉に凭れ掛かるようにして、貴方がいた。
「先生!」
私と目が合うと、その双眸をすっと細め、優しく微笑んだ。
他サイトで連載していた同タイトルを、一話に纏めてみました。
この後、二人がどうなったのか・・・ご想像にお任せします。
因みに、「オペラ先生」は実在します。
そして、「先生」に抱き締められた「私」も実在します。
豊橋北高は実在しません。
余談ですが、トロニャ@高校時代、「部費」は殆ど徴収されません(されても月100円位だったかな?)でした。
消耗品などの必要経費は学校からの予算で賄えてしまっていたので、徴収した「部費」は常に余っていました。
作中の「部費を嗜好品に使う」のは、学校からの予算ではなく、部員から徴収した「部費」を還元したのだと思って下さい。