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事件のない町に名探偵がやってきた

作者: 黒江秋水
掲載日:2026/10/30

数々の難事件を解決した名探偵・神代鷹人。静かな田舎町へ移住した彼を待っていたのは、犯罪のない穏やかな日々だった。疑うことに慣れた男が、人を信じることを少しずつ取り戻していく心温まる物語。

名探偵・神代鷹人は引退を決めた。


数々の難事件を解決し、国際犯罪組織を壊滅させ、

密室殺人のトリックを百七十二通り見破った男である。

かつては「神代が現場に来ると、犯人が観念して自首する」とまで言われていた。


そんな彼が移住先に選んだのは、人口三千人ほどの小さな田舎町だった。


理由は単純だった。


「静かに暮らしたい」


長年、殺人事件や誘拐事件、裏切りや嘘に囲まれてきた。

もう人の顔色を読み、言葉の裏を探り、誰かを疑う生活には疲れていた。


残りの人生くらい、穏やかに過ごしたかった。


ところが、移住して三日目。


神代は早くも後悔していた。


「……静かすぎる」


この町には犯罪がなかった。


いや、正確には、犯罪らしい犯罪が見当たらなかった。


初日に財布を拾った。


中には現金十万円。


神代は眉をひそめた。


これは罠だ。


誰かがわざと落とした囮財布に違いない。持ち去った人間を監視カメラで追跡し、

共犯者が現れるのを待っている可能性もある。


神代は近くの植え込みに身を潜め、三時間張り込んだ。


やがて、小学二年生くらいの男の子が駆け寄ってきた。


「あ、それ町長さんの財布だ」


「知っているのか?」


「うん。さっき落としたの見た」


「中身は確認したか?」


「見てない」


「お金が入っているかもしれないぞ」


「だから?」


神代は言葉に詰まった。


男の子は財布を拾い上げると、町長の家へ走っていった。


十分後、財布は無事に持ち主の元へ戻った。


町長は泣いて喜び、お礼にメロンをくれたらしい。


神代の手元には、なぜか何の関係もない近所のおばあさんからメロンが届いた。


事件は終わった。


いや、事件ですらなかった。


翌週、近所から怒鳴り声が聞こえた。


「来たな……!」


神代は窓辺に駆け寄った。


男女の言い争い。声の大きさ。会話の途切れ方。


夫婦喧嘩だ。


些細な口論が殺意に変わることは珍しくない。神代は双眼鏡を構えた。


十分後。


「あなた、ごめんなさい」


「いや、俺も悪かった」


「晩ご飯どうする?」


「カレーがいいな」


「じゃあ、買い物行ってくる」


夫婦は仲直りしていた。


しかも、喧嘩の原因らしいものは、夫が洗濯物を取り込むのを忘れたことだった。


神代は双眼鏡を下ろした。


「……平和すぎる」


さらに数日後、公園で黒ずくめの男を発見した。


帽子にサングラス、黒いマスク。


どう見ても怪しい。


男は地図を見ながら、何度も周囲を確認している。


神代の目が鋭くなった。


「標的の下見か」


男はベンチに座っていた老人に近づいた。


「あの、駅はどちらでしょう」


「おお、迷ったか! 案内するぞ!」


老人は立ち上がり、近くにいた女性にも声をかけた。


「この人、駅まで行きたいそうだ」


「じゃあ、私も途中まで一緒に行きますよ」


気がつけば、男は町民五人に囲まれながら駅へ向かっていた。


神代は呆然とした。


「……警戒心というものがないのか、この町は」


しかし、探偵としての勘は告げていた。


何かある。


絶対にある。


人間は必ず秘密を抱えている。平和そうに見える場所ほど、裏に何かを隠しているものだ。


神代は独自調査を始めた。


パン屋の売上帳簿を調べた。


問題なし。


農家の倉庫を確認した。


問題なし。


町役場の書類を調べた。


問題なし。


町長の家の裏手にある物置まで確認したが、出てきたのは古い釣り道具と孫の写真だった。


「なんなんだ、この町は……」


その頃から、町民たちは神代を警戒し始めた。


「あの人、また人ん家の周りをうろうろしてる」


「昨日も双眼鏡を持ってたぞ」


「夜中に役場の裏で張り込んでいたらしい」


「怖いねえ」


神代は知らなかった。


自分が町で一番怪しい人物になっていることを。


ある夜、神代は山の方に怪しい光を見つけた。


「ついに来たか」


複数の人影が集まり、円陣を組んでいる。


秘密の取引か。密輸か。それとも新興宗教か。


神代は木陰から様子をうかがった。


やがて、我慢できずに飛び出した。


「動くな!」


人々が一斉に振り向いた。


その中の一人が、明るい声を上げた。


「あ、神代さん!」


「白状しろ! ここで何をしている!」


「ホタル観賞会ですけど」


神代は口を閉じた。


周囲には無数のホタルが舞っていた。


暗い山あいを、淡い光がゆっくりと漂っている。


「神代さんも見ていきませんか?」


断る理由も見つからず、神代はしばらくそこに立っていた。


帰りには、ホタル饅頭を一つもらった。


翌日、町の駐在所から呼び出しがあった。


神代は確信した。


ついに何かを掴んだのだろう。


やはり、この町には裏があった。


駐在の佐伯は、困ったような顔で切り出した。


「神代さん、少しいいですか」


「話せ」


「最近、住民から相談が多くて」


「ほう。不審者か?」


佐伯は一度、神代の顔を見た。


「はい。不審者の件です」


「やはりいたか。特徴は?」


「背が高い」


「うむ」


「コートを着ている」


「うむ」


「双眼鏡を持っている」


神代の表情が止まった。


「それで、夜中に民家の周りをうろついたり」


「なるほど」


「ゴミ捨て場を調べたり」


「ほう」


「役場の窓から中をのぞいたり」


「最低だな」


佐伯は静かに言った。


「神代さんです」


沈黙が落ちた。


「……誤解だ」


「皆さん、そうおっしゃるんです」


神代は初めて知った。


自分がこの町で恐怖の対象になっていたことを。


数日後、町内会が開かれた。


議題は、


『神代さんをどう見守るか』


だった。


神代は偶然それを知り、ひどく傷ついた。


見守られる側だった。


「最近、笑顔も少ないしねえ」


「一人暮らしだろう?」


「友達もいないんじゃないか」


「誰か話し相手になってあげないと」


神代は名探偵である。


少なくとも、つい先日まではそうだった。


それが今では、町内会で心配される対象になっている。


その後、町民たちは交代で神代の家を訪れるようになった。


野菜を持ってくる人。


釣った魚を分けてくれる人。


用もないのに縁側に座って世間話をする人。


神代は最初、すべてを疑った。


何かの意図があるのではないか。


親切を装って、何かを探っているのではないか。


だが、何度考えても答えは出なかった。


ある日、近所の子供が遊びに来た。


「探偵さん」


「なんだ」


「悪い人がいないと困るの?」


神代は手にしていた湯飲みを置いた。


「どうしてそう思う?」


「だって、いつも悪い人を探してるじゃん」


子供は不思議そうに首をかしげた。


「いない方がいいじゃん」


神代はすぐには答えられなかった。


これまでの人生で、何人もの犯人を見てきた。


嘘をつく人間。人を裏切る人間。自分の欲のために誰かを傷つける人間。


そういう人間を見逃さないことが、自分の仕事だった。


いつしか、人の言葉をそのまま受け取ることができなくなっていた。


笑顔の裏を探り、親切の裏にある意図を考え、何気ない言葉にも嘘がないか確かめる。


それが名探偵としての能力であり、いつの間にか自分自身の生き方になっていた。


「……そうだな。いない方がいい」


神代が答えると、子供は満足そうに笑った。


その日から、神代は人を調べるのをやめた。


町民の行動を監視することも、誰かの言葉の裏を読むこともやめた。


最初は落ち着かなかった。


何も疑わずに過ごすというのは、彼にとって思いのほか難しいことだった。


それでも、朝になれば隣のおばあさんが野菜を持ってくる。


昼には魚屋が声をかけてくる。


夕方には子供たちが庭先を走り回る。


誰も神代に何かを求めているわけではなかった。


ただ、そこに住んでいるから、声をかけてくれる。


それだけだった。


三か月が過ぎた。


神代の暮らしにも、ようやく穏やかな時間が戻っていた。


縁側で新聞を読み、湯飲みを傍らに置き、庭の鉢植えに水をやる。


そんなある日の午後。


神代の家の縁側から、スイカが消えた。


神代の目が光った。


「……事件だ」


久しぶりに胸が高鳴った。


現場を確認する。


スイカを置いていた場所には、わずかな水滴が残っている。


庭の土には小さな足跡。


縁側の柱には、緑色の皮の破片。


神代は口元を緩めた。


「なるほど。これは素人の犯行だ」


聞き込みを開始した。


近所の家を回り、目撃情報を集め、足跡の大きさを照合する。


二時間後、神代は犯人を特定した。


七歳の少女だった。


「ごめんなさい」


少女はうつむいた。


「なぜ持っていった?」


「探偵ごっこ」


「探偵ごっこで人のスイカを盗むな」


「だって、探偵さんみたいに事件を解決したかったんだもん」


神代は少女の顔を見た。


手には、食べかけのスイカがあった。


「……おいしかったか?」


少女は小さくうなずいた。


神代はため息をついた。


そして、台所から包丁を持ってきて、残っていたスイカを切った。


大きな半分を少女に渡す。


「次からは借りろ」


「いいの?」


「盗むのと借りるのは違う」


「うん!」


少女は笑顔でスイカを受け取った。


縁側に並んで座り、二人でスイカを食べた。


少女は種を庭に飛ばし、神代はそれを見て小さく笑った。


「探偵さん」


「なんだ」


「また事件があったら呼んでね」


神代は赤い果肉を一口かじった。


「事件なんか、ない方がいい」


少女は意味が分からないという顔をした。


「でも、スイカ泥棒はいたよ」


「それは事件じゃない」


「じゃあ、何?」


神代は少し考えた。


「……夏の出来事だ」


少女はよく分からないまま笑った。


その笑い声を聞きながら、神代は思った。


名探偵としての自分は、ずっと事件を探していた。


けれど、事件がないということは、誰かが傷つかずに済んでいるということだ。


それは、どんな難事件を解決するよりも、ずっといいことなのかもしれない。


翌朝、町を歩いていると、顔なじみのおばあさんが声をかけてきた。


「神代さん、最近は落ち着いたねえ」


「そうですか?」


「うん。だいぶ怪しくなくなった」


神代は複雑な顔をした。


かつて、彼は数々の難事件を解決してきた名探偵だった。


そんな男が、今では町内で一番怪しくない人間になったことを褒められている。


名探偵としては、これ以上ない敗北だった。


けれど、悪い気分ではなかった。


神代はおばあさんに軽く頭を下げ、ゆっくりと歩き出した。


今日も、この町には事件がない。



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