事件のない町に名探偵がやってきた
数々の難事件を解決した名探偵・神代鷹人。静かな田舎町へ移住した彼を待っていたのは、犯罪のない穏やかな日々だった。疑うことに慣れた男が、人を信じることを少しずつ取り戻していく心温まる物語。
名探偵・神代鷹人は引退を決めた。
数々の難事件を解決し、国際犯罪組織を壊滅させ、
密室殺人のトリックを百七十二通り見破った男である。
かつては「神代が現場に来ると、犯人が観念して自首する」とまで言われていた。
そんな彼が移住先に選んだのは、人口三千人ほどの小さな田舎町だった。
理由は単純だった。
「静かに暮らしたい」
長年、殺人事件や誘拐事件、裏切りや嘘に囲まれてきた。
もう人の顔色を読み、言葉の裏を探り、誰かを疑う生活には疲れていた。
残りの人生くらい、穏やかに過ごしたかった。
ところが、移住して三日目。
神代は早くも後悔していた。
「……静かすぎる」
この町には犯罪がなかった。
いや、正確には、犯罪らしい犯罪が見当たらなかった。
初日に財布を拾った。
中には現金十万円。
神代は眉をひそめた。
これは罠だ。
誰かがわざと落とした囮財布に違いない。持ち去った人間を監視カメラで追跡し、
共犯者が現れるのを待っている可能性もある。
神代は近くの植え込みに身を潜め、三時間張り込んだ。
やがて、小学二年生くらいの男の子が駆け寄ってきた。
「あ、それ町長さんの財布だ」
「知っているのか?」
「うん。さっき落としたの見た」
「中身は確認したか?」
「見てない」
「お金が入っているかもしれないぞ」
「だから?」
神代は言葉に詰まった。
男の子は財布を拾い上げると、町長の家へ走っていった。
十分後、財布は無事に持ち主の元へ戻った。
町長は泣いて喜び、お礼にメロンをくれたらしい。
神代の手元には、なぜか何の関係もない近所のおばあさんからメロンが届いた。
事件は終わった。
いや、事件ですらなかった。
翌週、近所から怒鳴り声が聞こえた。
「来たな……!」
神代は窓辺に駆け寄った。
男女の言い争い。声の大きさ。会話の途切れ方。
夫婦喧嘩だ。
些細な口論が殺意に変わることは珍しくない。神代は双眼鏡を構えた。
十分後。
「あなた、ごめんなさい」
「いや、俺も悪かった」
「晩ご飯どうする?」
「カレーがいいな」
「じゃあ、買い物行ってくる」
夫婦は仲直りしていた。
しかも、喧嘩の原因らしいものは、夫が洗濯物を取り込むのを忘れたことだった。
神代は双眼鏡を下ろした。
「……平和すぎる」
さらに数日後、公園で黒ずくめの男を発見した。
帽子にサングラス、黒いマスク。
どう見ても怪しい。
男は地図を見ながら、何度も周囲を確認している。
神代の目が鋭くなった。
「標的の下見か」
男はベンチに座っていた老人に近づいた。
「あの、駅はどちらでしょう」
「おお、迷ったか! 案内するぞ!」
老人は立ち上がり、近くにいた女性にも声をかけた。
「この人、駅まで行きたいそうだ」
「じゃあ、私も途中まで一緒に行きますよ」
気がつけば、男は町民五人に囲まれながら駅へ向かっていた。
神代は呆然とした。
「……警戒心というものがないのか、この町は」
しかし、探偵としての勘は告げていた。
何かある。
絶対にある。
人間は必ず秘密を抱えている。平和そうに見える場所ほど、裏に何かを隠しているものだ。
神代は独自調査を始めた。
パン屋の売上帳簿を調べた。
問題なし。
農家の倉庫を確認した。
問題なし。
町役場の書類を調べた。
問題なし。
町長の家の裏手にある物置まで確認したが、出てきたのは古い釣り道具と孫の写真だった。
「なんなんだ、この町は……」
その頃から、町民たちは神代を警戒し始めた。
「あの人、また人ん家の周りをうろうろしてる」
「昨日も双眼鏡を持ってたぞ」
「夜中に役場の裏で張り込んでいたらしい」
「怖いねえ」
神代は知らなかった。
自分が町で一番怪しい人物になっていることを。
ある夜、神代は山の方に怪しい光を見つけた。
「ついに来たか」
複数の人影が集まり、円陣を組んでいる。
秘密の取引か。密輸か。それとも新興宗教か。
神代は木陰から様子をうかがった。
やがて、我慢できずに飛び出した。
「動くな!」
人々が一斉に振り向いた。
その中の一人が、明るい声を上げた。
「あ、神代さん!」
「白状しろ! ここで何をしている!」
「ホタル観賞会ですけど」
神代は口を閉じた。
周囲には無数のホタルが舞っていた。
暗い山あいを、淡い光がゆっくりと漂っている。
「神代さんも見ていきませんか?」
断る理由も見つからず、神代はしばらくそこに立っていた。
帰りには、ホタル饅頭を一つもらった。
翌日、町の駐在所から呼び出しがあった。
神代は確信した。
ついに何かを掴んだのだろう。
やはり、この町には裏があった。
駐在の佐伯は、困ったような顔で切り出した。
「神代さん、少しいいですか」
「話せ」
「最近、住民から相談が多くて」
「ほう。不審者か?」
佐伯は一度、神代の顔を見た。
「はい。不審者の件です」
「やはりいたか。特徴は?」
「背が高い」
「うむ」
「コートを着ている」
「うむ」
「双眼鏡を持っている」
神代の表情が止まった。
「それで、夜中に民家の周りをうろついたり」
「なるほど」
「ゴミ捨て場を調べたり」
「ほう」
「役場の窓から中をのぞいたり」
「最低だな」
佐伯は静かに言った。
「神代さんです」
沈黙が落ちた。
「……誤解だ」
「皆さん、そうおっしゃるんです」
神代は初めて知った。
自分がこの町で恐怖の対象になっていたことを。
数日後、町内会が開かれた。
議題は、
『神代さんをどう見守るか』
だった。
神代は偶然それを知り、ひどく傷ついた。
見守られる側だった。
「最近、笑顔も少ないしねえ」
「一人暮らしだろう?」
「友達もいないんじゃないか」
「誰か話し相手になってあげないと」
神代は名探偵である。
少なくとも、つい先日まではそうだった。
それが今では、町内会で心配される対象になっている。
その後、町民たちは交代で神代の家を訪れるようになった。
野菜を持ってくる人。
釣った魚を分けてくれる人。
用もないのに縁側に座って世間話をする人。
神代は最初、すべてを疑った。
何かの意図があるのではないか。
親切を装って、何かを探っているのではないか。
だが、何度考えても答えは出なかった。
ある日、近所の子供が遊びに来た。
「探偵さん」
「なんだ」
「悪い人がいないと困るの?」
神代は手にしていた湯飲みを置いた。
「どうしてそう思う?」
「だって、いつも悪い人を探してるじゃん」
子供は不思議そうに首をかしげた。
「いない方がいいじゃん」
神代はすぐには答えられなかった。
これまでの人生で、何人もの犯人を見てきた。
嘘をつく人間。人を裏切る人間。自分の欲のために誰かを傷つける人間。
そういう人間を見逃さないことが、自分の仕事だった。
いつしか、人の言葉をそのまま受け取ることができなくなっていた。
笑顔の裏を探り、親切の裏にある意図を考え、何気ない言葉にも嘘がないか確かめる。
それが名探偵としての能力であり、いつの間にか自分自身の生き方になっていた。
「……そうだな。いない方がいい」
神代が答えると、子供は満足そうに笑った。
その日から、神代は人を調べるのをやめた。
町民の行動を監視することも、誰かの言葉の裏を読むこともやめた。
最初は落ち着かなかった。
何も疑わずに過ごすというのは、彼にとって思いのほか難しいことだった。
それでも、朝になれば隣のおばあさんが野菜を持ってくる。
昼には魚屋が声をかけてくる。
夕方には子供たちが庭先を走り回る。
誰も神代に何かを求めているわけではなかった。
ただ、そこに住んでいるから、声をかけてくれる。
それだけだった。
三か月が過ぎた。
神代の暮らしにも、ようやく穏やかな時間が戻っていた。
縁側で新聞を読み、湯飲みを傍らに置き、庭の鉢植えに水をやる。
そんなある日の午後。
神代の家の縁側から、スイカが消えた。
神代の目が光った。
「……事件だ」
久しぶりに胸が高鳴った。
現場を確認する。
スイカを置いていた場所には、わずかな水滴が残っている。
庭の土には小さな足跡。
縁側の柱には、緑色の皮の破片。
神代は口元を緩めた。
「なるほど。これは素人の犯行だ」
聞き込みを開始した。
近所の家を回り、目撃情報を集め、足跡の大きさを照合する。
二時間後、神代は犯人を特定した。
七歳の少女だった。
「ごめんなさい」
少女はうつむいた。
「なぜ持っていった?」
「探偵ごっこ」
「探偵ごっこで人のスイカを盗むな」
「だって、探偵さんみたいに事件を解決したかったんだもん」
神代は少女の顔を見た。
手には、食べかけのスイカがあった。
「……おいしかったか?」
少女は小さくうなずいた。
神代はため息をついた。
そして、台所から包丁を持ってきて、残っていたスイカを切った。
大きな半分を少女に渡す。
「次からは借りろ」
「いいの?」
「盗むのと借りるのは違う」
「うん!」
少女は笑顔でスイカを受け取った。
縁側に並んで座り、二人でスイカを食べた。
少女は種を庭に飛ばし、神代はそれを見て小さく笑った。
「探偵さん」
「なんだ」
「また事件があったら呼んでね」
神代は赤い果肉を一口かじった。
「事件なんか、ない方がいい」
少女は意味が分からないという顔をした。
「でも、スイカ泥棒はいたよ」
「それは事件じゃない」
「じゃあ、何?」
神代は少し考えた。
「……夏の出来事だ」
少女はよく分からないまま笑った。
その笑い声を聞きながら、神代は思った。
名探偵としての自分は、ずっと事件を探していた。
けれど、事件がないということは、誰かが傷つかずに済んでいるということだ。
それは、どんな難事件を解決するよりも、ずっといいことなのかもしれない。
翌朝、町を歩いていると、顔なじみのおばあさんが声をかけてきた。
「神代さん、最近は落ち着いたねえ」
「そうですか?」
「うん。だいぶ怪しくなくなった」
神代は複雑な顔をした。
かつて、彼は数々の難事件を解決してきた名探偵だった。
そんな男が、今では町内で一番怪しくない人間になったことを褒められている。
名探偵としては、これ以上ない敗北だった。
けれど、悪い気分ではなかった。
神代はおばあさんに軽く頭を下げ、ゆっくりと歩き出した。
今日も、この町には事件がない。




