自殺阻止 :約5500文字 :コメディー
深夜、とある歩道橋。人けはなく、時おり下を走り抜ける車の走行音と階段を上がる足音だけが、しんと静まり返った夜気の中に響いていた。道路脇に立つ街灯は長年の風雨にさらされカバーが曇っているらしく光が鈍く、橋の中央まで届かず、濃い影が落ちている。大型トラックが下の道路を通り過ぎるたびに、歩道橋全体がびりびりと震えた。
彼が階段を上がりきり、橋の中ほどに差しかかったときだった。思わず「あっ」と声を上げ、次の瞬間、無意識のうちに駆け出していた。
欄干の向こうへ、男が大きく身を乗り出していたのだ。
「あ、あの!」
彼が慌てて声をかけたちょうどそのとき、男は欄干を乗り越え、その先の縁に立った。ひどく狭く、足先を横に向け、欄干に張り付くようにして立つのがやっとというところ。それなりの高さがあり、このまま転落すれば骨折は免れないだろうし、タイミング悪く車が通りかかれば命に関わることは間違いない。
彼は咄嗟に手を伸ばし、男の腕を掴んだ。
「は、放してくれぇ……」
男は喉の奥で磨り潰すような、かすれた声で呟いた。何もかもをあきらめたような、悲痛な響きだった。
間違いない。自殺だ――そう確信した彼は唾を飲み込み、手にぐっと力を込めた。
「だ、ダメですよ。とにかく、こっちへ来てください」
「もういいんだ……死にたいんだよ……」
男は彼の手を振り払おうと身じろぎした。だが彼は決して放すまいと指先に一層力を込めた。
「その……そんなこと言わないでください。事情は分かりませんけど、死んだらダメですよ」
「いい、構うな……あんたに関係ないだろ……」
「そうかもしれません。でも、せめてちょっとだけでも話を聞かせてくださいよ」
「いい、もうどうでもいい……」
「僕が聞きたいんです。お願いします。ね? 少しだけでも」
「うう……」
男の抵抗が次第に弱まっていくのを感じて、彼は小さく息をついた。
「何か奢りますよ。この時間でもまだ開いてる店はあるでしょうし、一緒に行きましょう」
「でも……」
「いいから。お話を聞かせてください。あなたのことを知りたいんです」
「話なんて……」
「ぶっちゃけ、今夜はもう無理でしょ。ほら、僕に見つかっちゃいましたし」
彼は軽い調子で言った。すると男はふっと表情を緩め、かすかに笑った。
「まあ……そうかもな……」
「でしょ? さあ、決まりです。好きな食べ物はなんですか? 趣味は? なんて、ははは。なんだか婚活みたいですね。ははは」
「ははは……」
「さあ、こっちへ来てください。ほら、手を貸しますから……」
先ほどまで張り詰めていた空気が少しずつ緩んでいき、二人の間にはどこか和やかな雰囲気さえ漂い始めていた。
男はゆっくりと振り返り、欄干に掛けた手にぐっと力を込めた。彼はほっと息を吐き、男の両脇に腕を差し入れ、体を橋の内側へ引き戻そうと踏ん張った――そのときだった。
――ブッ。
「えっ」
男が呟いた。目を瞬かせ、まじまじと彼の顔を見つめる。
「……ん? さあ、こっちへ」
「いや、今……」
「さあ、おうちに帰りましょう」
「いや、屁ぇこいたよね?」
彼はぴたりと動きを止めた。
「……いや?」
「いやって、ははは!」
男は歯を見せて笑った。
「こいたじゃない。ブッ! ってはっきりと! ははは、ははははは! ――は!?」
次の瞬間、男は体勢を崩しかけ、慌てて欄干を掴み直した。足先に力を込め、どうにか体を引き戻す。それから目を見開き、彼をじっと見つめた。沈黙が二人の間に漂い、やがて男は口を開いた。
「……え、今、押した?」
「……いいえ。手を離しただけですよ」
「そう……あー、じゃあ、そっちからも引っ張ってくれるかな?」
「……」
「ん? おーい?」
「もう……よくないですか」
「……え?」
「人生、もうどうにもならないんでしょう?」
「はあ!?」
「生きていてもしょうがないですよ。いっそ生まれ変わるっていうのも賢い選択ですよね」
「いや、は? 君、急にどうしたの……?」
男は眉をひそめ、困惑した表情で彼を見つめた。
「別にどうもこうもないですけど」
「いや、さっきまでと言ってることが真逆じゃないの……」
「何も変わってませんよ。あなたの人生はね。明日になっても同じです。今日とまったく同じ絶望の繰り返しです」
「いや、いやいや」
「認めなさい。現実から目を逸らし、逃げ続けた結果が今のあなたじゃないですか。最後くらいは自分自身と向き合い、潔く人生に幕を下ろすべきです。誰の世話にもならず、誰にも迷惑をかけることなく終わる。それがあなたにできる、最後にして唯一の善行でしょう」
「いや、君」
「毎晩、不安で眠れないんでしょう。布団に入って目を閉じても、心臓がしなびて縮むような感覚がするんですよね。このまま自分は死んでしまうんじゃないかという不安が押し寄せてきて、足先は冷え切り、脇の下にはじっとりと汗がにじむ。胃と肺に汚れた雑巾を詰め込まれたような息苦しさを感じている。死にたいはずなのに死ぬのが怖い。誰か助けてほしい。でも誰も助けてくれない。自分を助けられるのは結局、自分だけ。それはわかっている。でもできない。なまじ理解しているからこそ、余計に苦しい。何もできない無力な自分がみじめで仕方がない」
「君、君」
「あのとき、ああしていれば。あの頃はまだよかった――そんなふうに過去を思い返しては胸を締めつけられ、同時に嫌な記憶まで蘇ってきてまた苦しくなる。そして、その『あの頃』というのも、実際のところは大してよくなかったことに気づく。苦しいことばかりの人生だった。楽しかった記憶を探そうとしても、思い出せるのはそのときだけ一時的に楽だったという程度のものばかり。でも、それは結局は自分が失敗したせいだ。自分の能力が低いせいだ。怠けたせいだ。あのとき逃げなければよかった。もっと頑張っておけばよかった。完全に誰かのせいにできないこと、それもまた苦しい」
「だから君!」
男は声を張り上げた。びりびりと夜気が震え、彼はようやく口をつぐんだ。
「君……飛ばそうとしてる?」
「……いいえ?」
彼はきょとんとした顔で、小さく首を横に振った。
「いや、おれをここから飛ばせようとしてるでしょ。さっきまでの薄っぺらい説得とはえらい違いだよ」
「ははは、そんなわけないじゃないですか。そもそも薄っぺらくないですし」
「いや、正直クサかったよ。婚活のくだりなんてつまらなかったし――ちょ、ちょ、押してる! 押してる! 離れろよ!」
靴の裏が狭い縁を擦り、体がぐらりと傾いた。男は慌てて片手で欄干を掴み直し、もう片方の手で彼の手を振り払った。
「はは、押してないですってば。ほらあ」
彼はぱっと両手を広げ、笑みを浮かべた。
「いや、押したじゃないの……」
「あ、いまいまいま!」
「え? え? 何?」
「あー、今ちょうど大型トラックが来てたのに」
彼は橋の下を指さしてそう言った。橋全体がびりびりと震え、赤い錆がぱらぱらと道路に落ちていった。
「いや、やっぱり飛ばそうとしてるでしょ。なんで……?」
「なんでって……まあ、やっぱり人の人生ですし、ここで一度引き留めたところで、根本的には何一つ解決しませんし、むしろ無責任というか……」
「屁、こいたから?」
「へ……?」
「いや、さっき君、屁をこいたからでしょ? それでなんか恥ずかしくなっちゃったんじゃないの。ブッ、てね。ブッ。ははは」
「あああああああっ!」
彼が突然、声を張り上げた。その勢いに、男はびくりと肩を跳ねさせ、思わず両手で欄干を握り直した。
「なんでだよ……! あと少しのところだったのによお!」
「君……?」
「説得してよぉ、自殺を食い止めてよぉ、そんで警察から感謝状もらってテレビに出て、モテてよお……」
「モテる……?」
「『あれ? あなた、この前テレビに出てた人ですよね? 自殺を止めた人! すごーい!』ってなってよお」
「なるかな……」
「『いやあ、大したことないですよ。まあ、一応こんなのもらっちゃいましたけど』って感謝状を見せてよ。女の子が『えっ、それ感謝状ですか! すごーい!』てなってよ」
「感謝状を常に持ち歩くの?」
「『いやあ、全然すごいとかじゃないよ。咄嗟に体が動いたっていうか。もらっちゃったけど、まあ別にって感じです。断るのもなんか悪いしねえ』なんて言ってよ」
「なんかダサいね」
「それがさあ!」
彼はまた声を張り上げた。それから顔を歪め、男をぎろりと睨みつけた。
「あんたさあ……言うだろ?」
「え……? 言う?」
「マスコミのインタビューで言うだろうがよお。『彼ね、私を助けたときに屁をこいたんですよお!』って、笑いながらぺらぺら喋るだろうが!」
「いや、別に――」
「言うだろ! さっきも言ってたじゃねえか。屁こいたよね、ブッ、ブッて! 唾まで飛ばしてきやがってさあ!」
「それはその……悪かったよ」
「そういうところなんじゃないですかね。あなたが人から嫌われる理由って。よく空気が読めないって言われるでしょ。だから、そんなんなっちゃったんですよ。よく考えずに余計なことばかり口にするから、周りの人間がどんどん離れていくんですよ。自覚ないでしょ。自分がどれだけ無神経なのか。ええ、そりゃ鈍いあなたでもたまには『あっ……』って気づくこともあるでしょう。で、一応反省もするんでしょう。でも同じ失敗を何度も繰り返すんですよ。学ばないから、あなたは。いや、学べないんですよね。中途半端に頭が悪いんでしょ。だから馬鹿になりきれずにあれこれ余計なことを考えて、でも頭が良くないから結局は失敗する。馬鹿の集団にも馴染めず、普通の人たちの輪の中にも入っていけない。あなたは生まれながらにして、のけ者なんですよ。集団行動が昔から苦手なんですよね? 子供の頃、砂場で一人遊びしていたタイプでしょ。自分からは話しかけられないし、遊びにも誘えない。そのくせ誘ってほしいから少し離れたところでうろうろしている。で、周りから気持ち悪がられる。幼稚園のお遊戯会でも、一人だけ隅っこでもじもじしていたんじゃないんですか? 先生はねえ、あなたのお母さんじゃないんですよ。あなた一人だけに構ってあげられないんですよ」
「いや、君」
「失敗したら恥ずかしい。やり方がわからない。でもプライドだけは一人前に高いものだから、人に聞くこともできず、恥をかくことを恐れて逃げてばかり。そうやって何一つ身につかないまま大人になってしまったんでしょう。いや、大人というのも語弊がありますね。大きな子供ですよ、子供。あ、言っておきますけど、まったく可愛くありませんからね。自分の幼稚さを純粋さにすり替えて、他の大人とは違う。擦れていないんだ。まだ成長できる――そんなふうに自己プロデュースしても、あなた、周りから見たらただのおじさんですからね。天然ぶったところで、ただのやばい人でしかありませんよ」
「ちょっと」
「そのうえ、根っからの怠け者なんですよ。反省している? いいえ、あなたのそれは反省じゃなくて後悔です。ただ嘆いてばかりで、まったく進歩しないんですよ。むしろ、『相手の態度も悪かった』『フォローしてくれてもよかったのに』『なんでおれにこんな思いをさせるんだ』って逆恨みするんですよ。そんな人間が好かれるわけないでしょう! それを世間では他責思考って言うんですよ。もっと人に優しくされたい? ふざけるんじゃないよ。自分は相手に何かしてあげることもないくせに、人からは優しくされたがる。なんて醜悪な生き物なんだ、あなたは。そりゃ、誰もあなたのことなんて救いたがりませんよ」
「いや、だから君すごい喋るね」
「もう死ぬしかないでしょう、これは。じっくり自分の姿を見てみなさいよ。もう取り返しのつかないところまで来ちゃったじゃないですか。結婚なんて無理です。人並みの幸せなんて贅沢。それもこれも全部、自分が悪いんです。社会のせいにしたところで無駄。何も変わらない。自分でもそれがわかっているから苦しいんでしょう。あなたの苦しみは、あなたの中で完結しているんです。だからこそ、今ここで飛び降りてすべてを終わらせるべきなんですよ」
「ちょっと、自分の気持ちも入ってない?」
「誰にも責任を押しつけることなく、一人で静かに死んでいく。今この瞬間だけが、あなたが最も人間らしく、最も美しくいられる瞬間なんです。さあ、どうぞ」
「いや、どうぞじゃないけど」
「とにかく、お逝きなさい……お逝きなさい!」
彼は欄干の向こうをびしっと指さした。
男は顔をしかめたまま彼を見つめていたが、やがて深いため息をついた。そして欄干に足をかけ、内側へ身を乗り出した。
「ちょ、ちょ、何してるんですか。飛びましょうよ!」
彼は慌てて手を伸ばしたが、男はそれを払いのけ、通路側へひょいと降り立った。
それから彼を一瞥し、何も言わずにくるりと背を向けた。
――ブッ。
濁った音が夜気の中へ溶けた。
男は足を止め、ゆっくり振り返ると口を開いた。
「屁ぐらい、人生に比べりゃなんてことねえよ」
それだけ言うと、男は再び前を向き、そのまま歩き去っていった。
その場に残された彼は、遠ざかっていく男の背中をただ黙って見つめていた。
やがて鼻の下を指で擦ると、小さく呟いた。
「クセえな……」




