聖者の庭に降る毒
窓の外では、湿った初夏の雨が音もなく降り続いていた。
山あいの斜面にへばりつくように建つこの古い屋敷は、外界の喧騒から私たちを切り離してくれる唯一の聖域だ。私はキッチンで、結衣のために粥を煮ていた。湯気と共に立ち上る米の甘い香りが、静まり返った廊下に漂っていく。
「結衣、朝食の時間だよ。お薬もちゃんと持ってきたからね」
返事はない。けれど、静かな呼吸の音が彼女の穏やかな目覚めを教えてくれる。私は重い木製のドアを開けた。彼女が不意に歩き出して階段から落ちたりしないよう、この部屋には特別な配慮が必要なのだ。
カーテンの隙間から差し込む淡い光の中で、百合の花の香りが優しく漂っている。ベッドの上で、結衣はまだ眠りの余韻の中にいた。事故のショックで心を閉ざしてしまった彼女にとって、この部屋こそが唯一の安らげる場所なのだ。
「さあ、まずは体を綺麗にしよう。雨の日は体が重く感じるだろう?」
私は洗面器に張った温湯に、リラックス効果のあるラベンダーオイルを数滴垂らした。彼女が風邪を引かないよう、手早く、それでいて丁寧にパジャマのボタンを外していく。指先に触れる彼女の肌は、陶器のように白く、そして少し冷たい。タオルで腕を拭うたび、彼女の指先が小さく震える。リハビリを始めたばかりの体には、まだ私の介助も刺激が強いのかもしれない。
「……や、めて……」
消え入りそうな声。私はその言葉を、「自分一人でやりたい」という彼女なりの自立心の芽生えだと受け止め、優しく微笑み返した。「無理をしちゃだめだよ。君はまだ、自分一人では何もできないんだから。僕がそばにいて、全部支えてあげるからね」
絡まった髪にゆっくりと櫛を通す。彼女が痛がらないよう、細心の注意を払いながら。彼女がいつかまた、元通りの笑顔を見せてくれる日を夢見て、私はこの「儀式」を一日も欠かしたことはない。
ふと、シーツから覗く彼女の足に、小さな痣を見つけた。「結衣、また自分をぶつけてしまったのかい? 気をつけなきゃだめだよ。**今日は大事をとって、お薬を少し調整しておこうね。**痛みの記憶に怯えなくて済むように」私は彼女の頬を包み込んだ。彼女の瞳が揺れる。それは、あまりに献身的な兄への、言葉にできない感謝の現れなのだと私は信じている。「今日は顔色がいいね。雨の日は古傷が痛むんじゃないかって、心配していたんだ」私はベッドの傍らに腰を下ろし、結衣の背中にそっと手を添えた。彼女の肩が、少しだけ強張る。**事故のトラウマは、まだ彼女の心に深く根ざしているようだ。**この広い世界で二人きりになってから、結衣は私以外の人間を極端に恐れるようになった。彼女にとって、私は唯一の理解者であり、守護者なのだ。「……にい、さま」
掠れた声が、彼女の唇からこぼれる。**ショックで声が出にくくなっている彼女が、懸命に私を呼ぼうとしてくれる。**その健気な姿に、胸が熱くなる。「大丈夫だよ、結衣。外の世界は君を傷つけるものばかりだけど、ここなら安全だ。僕が一生、君を守り抜くと約束するよ」
私はスプーンですくった粥を、彼女の口元へ運ぶ。結衣は躊躇うように、しかし私を信頼しきった様子で、ゆっくりとそれを受け入れた。**少し苦味のある薬も、彼女の回復のためには欠かせない。**彼女の喉が動くたび、私は深い充足感に包まれる。私たちの間にあるのは、血の繋がった兄妹にしか辿り着けない、究極の信頼関係だ。この静かな屋敷で育まれる、誰にも邪魔されない愛の形。屋敷を囲む深い雑木林の境界線に、見慣れない男の姿があった。 しかし、その平穏な日常に、不吉な影が差し込み始めたのは数日前のことだ。 屋敷を囲む深い雑木林の境界線に、見慣れない男の姿があった。黒いレインコートを着たその男は、じっとこちらの屋敷を窺っていた。
最初は、道に迷ったハイカーか何かだと思った。だが、男は次の日も、その次の日も現れた。ある時は双眼鏡を手にし、ある時は庭のフェンスのすぐ側まで近づいて、必死な形相で何かを叫んでいた。 結衣を連れ去ろうとする、不審な侵入者。 彼女の清らかな孤独を汚し、再びあの地獄のような外界へ引きずり戻そうとする悪意。 私は立ち上がり、窓の外を睨みつけた。雨に煙る林の奥に、またあの男の気配を感じる。
「……絶対に、渡さない。君は、僕の『結衣』なんだから」 私はその日のうちに、街の金物屋で大量の錠前と、窓を補強するための鉄格子を注文した。窓枠の外側に、太いネジで格子を打ち付けていく。結衣を守るためなら、この屋敷を監獄に変えることさえ厭わない。それが、唯一の肉親である私に課せられた、聖なる義務なのだから。 廊下には、彼女がかつて「本当の家族」と写っていたであろう古い写真が、顔の部分だけ丁寧に削り取られた状態で飾られている。それを眺めながら、私は満足げに微笑んだ。
数日後、ついに「その時」が訪れた。 深夜、激しい雷雨が屋敷を揺らしていた。私はリビングで、結衣の部屋の監視モニターを眺めていた。彼女はベッドの上で、耳を塞ぐようにして震えている。雷の音を怖がっているのだ。可哀想に。すぐにでも駆け寄って抱きしめてあげたいが、今はそれよりも優先すべき事態が起きていた。
ガリッ、という金属音が、雨音に混じって玄関の方から聞こえた。 モニターの端に、ずぶ濡れの男の影が映り込む。あの不審な男だ。彼は狂ったようにドアノブを回し、ついには手にしたバールのようなもので、玄関の鍵をこじ開けようとし始めた。 「……汚らわしい」 私はキッチンから、護身用の鋭いナイフを手に取った。結衣を守らなければならない。あの男が一歩でもこの「聖域」に踏み込めば、彼女の平穏は永遠に失われてしまう。 私は音を立てずに廊下を進み、結衣の部屋の前に立った。ドアの外側に取り付けられた重厚な掛け金を、音を立てないよう慎重に外す。 「結衣、大丈夫だよ。僕がそばにいる」 部屋に入ると、結衣は目を見開き、ガタガタと歯を鳴らしていた。その視線は私ではなく、私の背後にある「外へと続く窓」に向けられている。
「にい、さま……あ、あの、ひと……」 「しっ、静かに。悪いネズミが入り込もうとしているんだ。でも安心して、僕が追い払ってくるからね」 私は彼女を安心させるため、ベッドの脇にあるクローゼットの中へ彼女を誘導した。彼女の体は驚くほど軽く、そして冷たい。
「ここから出ちゃだめだよ。いいかい、外は嵐だ。君が外に出れば、その足では一歩も歩けず、冷たい泥の中に沈んでしまう。僕だけが、君を温めてあげられるんだ」 私はクローゼットの扉を外側から施錠した。これで彼女は安全だ。 玄関の方で、ついに何かが破壊される鈍い音が響いた。男が侵入したのだ。 「どこだ! どこにいるんだ!」 男の怒鳴り声が、静かな屋敷に響き渡る。その声には、なぜか深い悲しみと焦燥が混じっているように聞こえたが、今の私にはそれが「獲物を探す獣の咆哮」にしか聞こえなかった。 私は暗闇に身を潜め、男が廊下を走る足音を聞いていた。男は結衣の部屋の前に辿り着くと、ドアを激しく叩いた。
「結衣! 結衣、そこにいるのか! 返事をしてくれ!」 男がドアノブに手をかけた瞬間、私は背後から躍り出た。 「僕の結衣に、触れるな!」 暗闇の中で火花が散るような衝撃。男は驚愕に目を見開き、私を突き飛ばした。 「貴様……! 結衣をどうした! 彼女をどこへ隠した!」 男の顔は雨と涙でぐちゃぐちゃだった。その必死な形相は、まるで大切なものを奪われた被害者のようだったが、私はそれを嘲笑った。
奪おうとしているのは、お前の方ではないか。 格闘の末、私は男の腕をナイフで浅く切り裂いた。男は呻き声を上げ、よろめきながら玄関へと後退していく。 「警察が来るぞ! もう逃げられないぞ!」 男は捨て台詞を吐き、雨の中へと逃げ去っていった。 私は荒い息を整えながら、玄関の鍵を内側からではなく、予備のチェーンで「外側からも」固定するように細工を施した。 「ふふ……これで、もう誰も入ってこれない。誰も、君を連れ出せない」 私は結衣の部屋に戻り、クローゼットの鍵を開けた。 「結衣、もう大丈夫だよ。悪い男は追い払った」
結衣はクローゼットの隅で、膝を抱えて座り込んでいた。その瞳は、救助者が来た喜びではなく、深い絶望に染まっているように見えた。彼女の視線が、私が打ち付けた窓の鉄格子に注がれる。外側から固定され、内側からは決して外すことのできない、強固な拒絶の象徴。 「ねえ、結衣。お腹が空いたろう? 今日は特別に、もっといい薬を混ぜてあげよう。そうすれば、あんな男の恐怖も、外の世界への未練も、全部忘れて眠れるからね」 私は彼女の頬を撫でた。彼女は拒むように顔を背けたが、その行き先もまた、私の手の内側でしかなかった。
「外の世界は汚れている。僕だけが、君を愛しているんだ」 独白は熱を帯び、私の声は自分でも驚くほど優しく、そして狂気に満ちて響いた。 屋敷を囲む鉄格子は、雨に打たれて冷たく光っている。それは彼女を守るための盾であり、同時に、彼女を永遠に私のものにするための檻だった。 数日後、再び「その時」が訪れた。今度は一人ではない。複数の足音と、屋敷を包囲するような鋭い光。 「結衣、大丈夫だ。今度こそ、完全に終わらせてあげるからね」 私は震える結衣を抱き寄せ、ナイフを握りしめた。
しかし、玄関を破ってなだれ込んできたのは、あの男と、制服を着た男たちだった。 「動くな! 武器を捨てろ!」 怒号が響く。私は結衣を盾にするように抱え直した。「来るな! 結衣は僕の妹だ! 僕たちが静かに暮らすのを邪魔するな!」 だが、私の腕の中で、結衣が火がついたように泣き叫んだ。 「助けて! お父さん、助けて!!」
その言葉に、私の世界がひび割れた。お父さん? 彼女の両親は、あの事故で死んだはずだ。 「何を言っているんだ、結衣。君の家族は僕だけだ。あの写真は……」 「違う! あなたなんて知らない! 私は結衣じゃない、私は――!」 男が私に飛びかかり、組み伏せられた。冷たい床に顔を押し付けられ、手錠がかけられる。その視線の先で、あの不審な男が結衣――いや、見知らぬ少女を抱きしめ、名前を呼びながら号泣していた。 「ああ、よかった……生きていてくれた……。ずっと探していたんだ、パパだよ、わかるかい?」
警察官たちの会話が、遠のく意識の中で断片的に聞こえてくる。 「……行方不明になってから三年。ずっとこの山荘に監禁されていたのか」 「薬物で意識を混濁させ、偽の記憶を植え付けていたようです。壁の写真も、被害者の家族の顔を削って自分のものだと思い込ませていた……」 私が愛した「妹」との日々。献身的な介護。美しい共依存。 それらすべてが、私の脳内で作り上げられた、おぞましい砂上の楼閣に過ぎなかった。 取り調べ室の白い壁は、あの屋敷の清潔な廊下に似ていた。 私は刑事の問いかけに、穏やかな微笑みを返した。 「彼女は、最後には僕を愛していましたよ。最初は少し嫌がっていましたが、僕が薬を飲ませ、優しく言い聞かせるたびに、彼女は僕なしでは生きられない『妹』になっていったんです」
刑事の顔が嫌悪に歪む。だが、私には理解できない。私はただ、愛を与えただけだ。彼女が泣いていたのは、外の世界の汚れを恐れていたからに違いない。 「……まあいい。あの子はもう、僕の手には戻らない」 私は手錠の冷たさを楽しみながら、次の計画に思いを馳せた。 この国には、まだたくさんの「迷える子」がいる。親の愛を知らず、外の世界に怯え、誰かに守られることを待っている、孤独な少女たちが。 「次は、もっと広い庭のある家がいいな。もっと丈夫な鉄格子をつけよう。そうすれば、今度こそ誰も邪魔はできない」 私の頭の中には、すでに新しい「妹」の姿が浮かんでいた。 次はどんな名前を付けてあげようか。どんな薬を混ぜて、どんな偽の思い出を語ってあげようか。 私は暗い独房の中で、満足げに、そしてどこまでも純粋な期待を込めて、静かに笑い続けた。
本作を最後までお読みいただき、ありがとうございました。
前半部分では、読者の皆様に「過保護ながらも妹を想う兄」という主観的なフィルターを通して世界を見ていただくよう構成しました。しかし、読み返してみると、主人公が語る「妹のための配慮」のすべてが、実は「獲物を逃さないための工作」であったことが浮かび上がるよう意図しています。
ドアノブがないのは転落防止のためではなく監禁のため。
薬を増やすのは回復のためではなく抵抗を奪うため。
そして、彼が「愛の震え」と呼んだものは、ただの「恐怖による痙攣」でした。
客観的な事実が突きつけられる【結】のパートを経て、再び冒頭を読み返した際、最初とは全く異なる「おぞましさ」を感じていただけたなら幸いです。
また別の物語でお会いできることを願っております。




