夜を走る
意味もなく高いだけに見えるビル群の足元にその長い長いトンネルはあった。中のライトは珍しくオレンジ色ではなく淡いような深いような青味の強い緑色をしていて、歩道もあったけれど時間のせいか誰も歩いてはいなかった。
スクーターの後ろに女を乗せて走る。
名前は知らない、さっき声をかけられたばかりで、ついでに言えばバイクも誰の持ち物なのか分からなかった。
「運命を信じる?」
裏路地の小汚い、電飾ばかりがやたらと派手な狭苦しい店で彼女はヌードルを食べていた。ひどくつまらなそうな顔をしていたし、出入り口のところに座っていたので自然と目に入っただけで、別に取りたてての美人だとかナイスバディだった訳じゃない。
「あたしは信じない、でも今日は立て続けに嫌な事ばかりが起こったからちょっと気分が悪いの」
透明なスープのヌードルをプラスチックのフォークでいやいや食べている女は、好き嫌いを直しなさいと怒られている子供のようだった。そんなに食べたくないのなら残せば良いのに、と思ったけれど口に出す訳にもいかない。
「飼ってる猫が死んだわ、ママが入院した、そして男と別れたの」
連れの男はそれでも女を気に入ったらしく、ちょっとナンパしてくる、だとか、ヤらしてくれるかな、だとか言って俺の腹の減り様などまったく考えもしてくれないようだったけれど、声を掛けに行った連れが戻って来て、ビールを注文していた俺に向って真っ先に放った言葉は「お前の方が気になるらしいよ」というものだった。
俺の方を気にされても困る、俺は腹が減っている。
「何が悲しいってあの男と別れちゃった事よ、これからだったのにね、すべては。だけれど終わってしまった事を悔やんでも仕方がないのよ、たとえ途方に暮れてしまうほど息苦しくて死んじゃいそうでもね」
とりあえずの注文で塩スープとにんにく揚げ、軟骨の唐揚げとヌードルを。最後に付け足したのは女の食べているものが気になっていたからだと、しばらくしてから気付いた。
「別れてから気付いたの、すごく好きだった事に、だけどあたしは一度終わっ
てしまったものを信じないと誓いを立ててしまった事があるから」
仕事帰りにラジオつけると、なんかいつも明日の運勢っていう占いが流れててさ、と連れが言った。塩スープに揚げパンを浸して食す、思っていたよりも固いパンは古い油の味がした。
なんか気になるんだよ、その運勢。結果は半々くらいかな、良い事と悪い事、お前ってどっちを信じるタイプだ、オレは良い事しか信じたくないって言いつつ悪い事が気になるタイプなんだけどさ。
シュウマイを追加する。女が俺を振りかえった、俺はそれを無視してビールを飲んだ。
「ね、あたしを送って帰らない?」
「……俺の知り合いだったっけ?」
つまらなそうにヌードルを食べていた女はそれを食べ終えたのか席を立ち、何気なくその脚を見ていた俺の方に真っ直ぐ寄ってきた。なんの躊躇いもなかったので、なんだかそれは良いと思った。
「知り合いの顔を忘れるような男は知り合いに居た記憶がないわ」
「男が欲しいなら他を当たってくれ、なんなら連れを貸そうか」
「いや、あたしはあなたがいいわ」
「何故」
「さっき、あたしをつまらない女って目で見ながらこの店に入ってきたから」
丸めた五千円札をポケットから出し、女は濃いオレンジ色のちゃちなテーブルの上にバンと置いた。それから俺の連れに「この人借りるわ」と言い捨てると、俺の腕を取って外に出た。抗おうと思えば出来たのだけれど、面倒だったのもある。そこらのスクーターを盗んだ。そういう事は昔していたから、鍵をいじるのはとても簡単だ。
「どこまで送ればいいんだ」
俺は知らない人間を普段構ったりしない。
今日も構う気分ではなかった、しかも大した女じゃない。鼻が上を向き過ぎているし、目は細すぎる。口がでかすぎて男を取って食うようだった。それなのに。
「夜を走って」
あたしを乗せて夜を走ってよ、と女は言った。その言い方だけが気に入ったので、俺は女を送って行く事にしたのだ、理由なんてそんなものだ、いつだって意味も価値もない。
スクーターを走らせて、青白いトンネルを走った。長い長い夜みたいなトンネルだった。女は長い髪を風に流しているのか、俺の背中にべったりとしがみついて首元に何か呟いていたけれど、景色のように流された声は欠片も耳に届かなかった。どこまで行けばいいのか知らなかったので、途中でバイクを止めて聞かなくては、と思ったのだけれどトンネルはなかなか終わらず、名前も知らないままに女と別れるのも人生の不思議で楽しいのかもしれないと考え、バイクを降りたらタバコでも吸おうと思った。
連れが昨日聞いた俺の運勢は、知らない女を拾うというものだったのかな、と少し思ったけれどもバカバカしすぎて自分で笑った。夜だけが、名無しのままの俺達を許容している。