濁り
本作は、ある一人の女性が「自分を飲み干す」までの数分間を、細胞レベルの解像度で観測した記録です。
物語としての展開を意図的に排し、感覚の変質と肉体の違和感のみを記述の核としています。読み進めるほどに、あなたの喉の奥にも「生温かい鉛」のような重みが溜まっていくかもしれません。
どうぞ、逃げ場のない静寂の中でお読みください。
洗面所の鏡は、湿った夜の底でわずかに歪んでいる。右下、銀引きが腐食して剥げかけた境界には、十数年前から居座り続けている三ミリほどの黒いカビの群体が、肺胞のように微かに震えていた。恵はその染みの不規則な縁――ギザギザとした毒々しい輪郭を、自らの右目の虹彩の模様と照らし合わせるようにして、果てしなく時間をかけて往復し続けた。
彼女の指先にあるのは、市販の、どこにでもある半透明のストローだ。ポリプロピレンの無機質な感触が、指の腹の細かな隆起――指紋の一本一本に食い込み、体温がプラスチックの薄い膜を通じて、静かに、だが確実に奪われていく。恵は、そのストローの先端が右目の端、熱を帯びた粘膜に触れるまでの数センチメートルに、永遠に近い空白を費やした。指先が微かに震えるたびに、ストローの先端が描く円弧が、鏡の中の闇を切り裂く。
『これをすれば、もう戻らなくていい。明日、誰かに会うことも、誰かの声に頷くことも、光を光として受け入れる義務も、すべてがこの細い管の向こう側に吸い込まれて消える』
恵はその確信を、わざと時間をかけて、奥歯で噛み潰すように反芻した。指を動かそうとする意志に対し、前腕の筋肉が重い石のように硬直する。皮膚の下を流れる血液が、異物を迎え入れる準備のために、ひどく熱く沸き立っていた。
彼女はふと、幼い頃に壊した陶器の人形のことを思い出した。破片を繋ぎ合わせようとして、指を切った時の、あの無機質な鋭利さ。今のストローの先端も、あの時の破片と同じくらい、彼女の現実を切り裂く準備ができているように思えた。
一ミリ、また一ミリ。
ストローの円い縁が、眼球の表面を覆う薄い涙の膜に触れた。その瞬間、世界はごく僅かに、湿った音を立てた。ピチャリ、という、あるいは彼女の脳内の細い糸が千切れた際に出した幻聴。粘膜が異物を拒絶しようと痙攣し、網目状の充血が、まるで意志を持つ蔦のように瞳を覆っていく。その摩擦熱までもが、恵にとっては、ようやく手に入れた、裏切ることのない確かな物理的感触だった。
「……あ」
喉の奥から、湿った、意味をなさない音節が零れ落ちた。その音は狭い洗面所のタイルに反射し、鏡の裏側の空洞へと吸い込まれていく。恵はストローを、より深く、自分の中心部へと突き刺した。眼球の裏側にある神経が、冷たいプラスチックの先端によって圧迫され、視界の端で火花が散る。それは痛みというよりも、脳が直接、外の世界を拒絶するための最終信号を発しているようだった。
『痛いのではない。これは、私が私を飲み干し、純粋な一滴へと還元されるための、最後の洗浄なのだ。痛覚という、他者と共有できる安っぽい感覚すらも、今はもう、私の内側で溶け始めている。私は、私を、剥いていく』
そのままの姿勢で、恵は動かなくなった。
ストローは彼女の眼窩に深く根を下ろした外来種のように固定され、周囲の空気は、鉛のような重みを帯びて停滞している。蛇口から落ちる水滴が、陶器の洗面台にぶつかり、弾ける。その一滴一滴が、彼女の鼓膜を不規則なリズムで叩く太鼓のように打ち鳴らした。
恵は、眼窩の奥でストローの先端が自身の視神経とダンスを踊る感覚に、全神経を集中させた。呼吸を止めるたびに、自分の鼓動がプラスチックの管を通じて指先にフィードバックされる。ドクン、ドクン。それは、彼女が「まだ生きている」ことの不快な証明であり、同時に、これから啜り取られるべきエネルギーの貯蔵量を示していた。
洗面所の隅で、一匹の小さな虫が羽を震わせる音が聞こえる。壁紙の裏でカビが繁殖し、繊維を食い破る音が聞こえる。恵の聴覚は、視覚を失い始めた代償として、世界の微細な崩壊を克明に拾い上げていた。ストローの中に溜まった彼女の温かい吐息が、冷えたプラスチックの内壁で結露し、小さな粒となって、再び彼女の粘膜へと滑り落ちる。その一滴が粘膜に触れるたび、彼女は失われたはずの「外の世界への嫌悪」を思い出し、より深く、管を奥へと押し込んだ。
内側と外側の境界が、この静止した時間の中で、ひっそりと、しかし確実に崩壊の準備を終えていた。彼女はただ、待っていた。内側の光が、その粘性を増し、管を伝って溢れ出すその瞬間を。
「……っ、ふ……」
肺の底に溜まっていたわずかな酸素を吐き出すと同時に、恵の口腔内は、逃げ場のない真空へと変貌した。その陰圧に誘われるように、ストローの細い空洞を伝って、温かく、粘り気のある「光」がせり上がってくる。
。 。 。
舌の先端が、その液体の先端に触れた。最初に感じたのは、体温よりもわずかに高い、生ぬるい鉄錆の味だ。それは恵がこれまでの人生で、誰にも言えずに喉の奥で腐らせてきた、形のない残骸の結晶だった。
『これは、私が見てしまった「汚れ」の味だ。夕暮れの冷たい電信柱の下で感じた疎外感、愛を囁きながら別の影を追っていた男の睫毛の震え、泥濘に踏み潰されて放置された、名前も思い出せない誰かの遺失物。それらすべてが、私の視神経を通って、この黒い一滴に濃縮されたのだ』
吸い込む。一滴。
食道の壁面が、その重い液体を迎え入れるために不随意に波打つ。
。 。 。
また一滴。
。 。 。
一滴を吸い上げるごとに、右側の視界から色彩が、剥落した古い壁紙のようにボロボロと崩れ落ちていく。
鮮やかだったはずの赤が、どす黒い灰へと変色し、青が深い澱へと濁り、太陽を象徴していた黄色が、救いようのない虚無へと埋没する。
一方で、彼女の閉ざされたまぶたの向こう側では、現実には存在し得ない、神経の焦げる死臭を伴った毒々しい花々が咲き乱れ始めた。外界という名の汚泥を消去し、内側の景色をより鮮烈な「偽光」で塗り替えていく。恵の脳は、供給される自らの欠片を貪り、ありもしない極楽を網膜に焼き付けるために、全神経を、一ミクロンの妥約もなく稼働させていた。
恵は、完全な暗闇の中で、静かに、しかし深い亀裂のように微笑んでいる。
その表情を、もはや誰も観測することはない。鏡に映る彼女の顔は、既に人間という構造物の形を失い、闇を啜るための、ただの「穴」へと変貌を遂げていた。
恵の手が、ゆっくりと動く。右眼窩から引き抜かれたストローの先端には、彼女の視力のなれの果てが、糸を引くように絡みついていた。彼女はそれを、今度は左の耳の穴へと、愛おしげに運んだ。
次は、世界の「音」を啜る番だった。
『音が消えれば、世界は終わる。終わるのではない、私の中で完結するのだ。耳の奥の鼓膜を突き破り、その向こう側にある静寂を啜り尽くす。そうすれば、私は、私の宇宙の唯一の支配者になれる』
「……綺麗、ね。ほんとうに」
彼女の口から漏れたのは、言葉としての機能を失いかけた、ただの湿った吐息だ。
深夜の遠いサイレン、風に揺れる木々のざわめき、冷蔵庫の低い唸り。それらすべてをストローで吸い込み、自らの内側で、完全な、何者にも冒されない「静止」へと作り変える。最後の一片まで自分を飲み干し、完全に裏返しになったとき、恵という存在は、この世界から跡形もなく消失する。
恵がストローを耳の奥、平衡を司る三半規管のさらに深部へと、一切の躊躇なく突き刺した。
その瞬間、脳の核を直接揺さぶるような、低く不吉な羽音が洗面所を、そして彼女の意識のすべてを満たし始めた。
。 。 。
「……ああ、やっと」
それは、彼女がこれまでの人生で「選ばなかった」全ての時間が、断末魔の代わりに上げた、甘やかな崩壊の音だった。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
「書く」という行為が、時として「削る」ことや「奪う」ことに似ていると感じることがあります。恵が自らの視覚や聴覚を啜り取ったように、この物語もまた、読み終えたあなたの現実をほんの少しだけ削り取ってしまったかもしれません。
鏡を見たとき、あるいは耳の奥で微かな羽音を聞いたとき。
そこに恵が残した「空洞」が揺らめいていないか、確かめてみてください。




