第2話
「何飲む?」
僕が尋ねると、後輩は口を尖らせ、聞こえるか聞こえないかギリギリの声量で「カフェオレで」と言った。僕は小銭を入れ、カフェオレの下のボタンを押した。
ゴトン、と音を立てて缶に入ったカフェオレが出てくる。
「どうも」
後輩は仏頂面のままそれを受け取った。僕はいつも飲んでいるオレンジジュースを買って、そのまま研究室へと引き返した。
「まさか、二人でやってもこんなに遅くなるなんて……」
僕がいつも使っているデスクに座ると、後輩は僕の対面のデスクに座った。お互いが使っているPCがあり、お互いの顔は見えなかった。
その日、いつもより作業は早く終わったものの、時刻は22時を過ぎていた。そんな時刻から居酒屋に行ってもすぐに閉まってしまうため、仕方なく研究室で、自動販売機の飲み物で歓迎会をしよう、という運びになったのだった。
「まあまあ。今度改めてやろうよ」
「当たり前ですよ!」
後輩はぷんすかと腹を立てながら言った。僕がオレンジジュースを持った手を掲げると、後輩は身を乗り出して腕を伸ばし、僕のPCの上でカフェオレとオレンジジュースがぶつかった。二人で少しずつ飲んでから、後輩はため息をついて諦めたように話を始めた。
「まあ、別にいいですけどね。今日は先輩に聞きたいことがあっただけなんで」
「僕に?」
「はい。なんで先輩はこの病気の研究をしてるのかなって」
そう言って後輩はひょこっとモニターの横から僕の顔を覗き込んできた。
「なんでって言われても……」
「他の研究室の先輩から聞きました。先輩は最初の二年ですごい量の実績を上げて出世間違いなしだったのに、所長に無理言ってこの研究室を作ったって。そこから一つも成果を挙げられてないとも」
「……まあ、その前がすごい実績だったかはともかく、この研究室ができてから成果0はたしかにそうだね」
「わざわざ治療法がない希少疾患の研究を志願して、しかも毎日当たり前のように早出残業。挙句休日まで出勤して。おかしいですよ」
「別におかしくは……」
「おかしいですよ! 無謀な病気の研究に挑戦して! プライベートもない! 出世街道も犠牲にして……。何か理由があるんじゃないんですか?」
後輩は僕の言葉を遮り、捲し立てるように言った。まるで僕が致命的な、基礎的な間違いを犯していることを指摘するかのように。
「理由、か……」
僕は椅子に寄りかかり、数秒考えた。そして、独り言のようにぽつぽつと後輩が知りたがっていた「理由」を話し始めた。
今思い返すと、この時の僕は精神的に参っていた。後輩が入ってすぐに、ずっと協力関係にあった唯一の研究所が研究から撤退すると連絡を受け、世界でこの病気の研究をしているのが僕だけになってしまったから。これまでいくつもの研究所と協力して、それでも成果は得られなかった。そこから少しずつ協力者は減っていき、ついには僕一人になってしまった。
僕一人でやり遂げることができるのだろうか。
そういう孤独や重圧に、知らず知らずのうちに心が押し潰されそうになっていたんだと思う。だから、半分投げ槍に、もう半分は自分の気持ちを軽くしたくて、つい話してしまった。
その話を誰かにしたのは初めてだった。誇れることじゃない。ただの、私的な願望の話だ。けれど、それは僕の全てだった。モニターの奥にいる後輩の姿を見ずに話すのは、さながら教会の懺悔室のようだった。
後輩はその長い話を、何も言わずに聞き続けてくれた。
「独善的でしょ?」
話を終えると後輩はしんみりした顔をしていたので、そう言って微笑みかけた。あまり明るい話とは言えないし、暗い雰囲気で終わってしまっては、後輩が「聞いてしまって申し訳ない」と思いそうだったから。それに、独善的なのは本当のことだ。
「いえ、とても素敵だと思います。先輩がそこまでする理由も合点がいきました」
そう言ってから後輩はカフェオレを一口飲んだ。
「こうして同じ部署になったのも何かの縁です。私も協力しますよ。先輩の夢に」
「……ありがとう」
後輩の優しい言葉に、僕は心の底からお礼を言った。この時、泣きそうだったのを覚えている。想いを吐き出したこと、そして後輩が協力してくれると言ったことで、張り詰めていた心が久しぶりに緩んだから。
後輩はどういたしまして、と言ってからからいつものように微笑んだ。
「じゃあまずはこれまでの研究データを覚えないとね。作業が終わった後に勉強会をしよう」
僕が涙をこらえながら、冗談交じりに言うと、後輩の顔はたちまち青ざめていった。
「……私、死にませんかね」
「人間意外とどうにかなるもんだよ。僕も何度か倒れかけたけど今は平気だし」
この励ましは逆効果だったようで、後輩の顔は更に青ざめた。
この歓迎会以降、後輩は経過観察後に熱心に勉強を重ねていき、どんどん知識をつけていった。時には僕より遅くまで残業していることもあり、たまに心配になるほどだった。しかしその成果もあり、二年も経つ頃には研究でも後輩の手を借りることができるようになった。
一方僕も、後輩の成長につれて新しい実験のことを考える時間を増やすことができるようになった。精神的にも「一人で背負わなくてはいけない」「世界で自分だけ」。そんな勘違いから解き放たれた精神的な余裕が出てきたのだと思う。実験の失敗で精神的に落ち込むことが少なくなった。
未だ改めての歓迎会はできておらず、後輩が配属されて現在までに4年が経過している。
「次はこの実験をしようか」
僕は実験に関する資料を後輩にメールで送った。かなり時間がかかったが、自信作だった。後輩は資料を読んでいても、もう質問することはほとんどなくなっていた。
「ここ、以前やった実験の応用でこうした方がいいじゃないですか?」
「……たしかにいいかもしれない」
それどころか、後輩が案を出すことも多くなってきていた。しかもそれが的を射ているものばかりで、日々成長を感じずにはいられなかった。
「じゃあこれでいこう」
「え、そんな簡単に決めていいんですか? 実験の材料だってタダじゃないんですよ?」
「いいよ。それに、ちゃんと根拠があって提案したんでしょ?」
「まあ、一応」
「もし間違ってたら指摘する。でも今回は僕も後輩の案がいいと思ったから採用する。それだけだよ」
「……ありがとうございます。まあでもダメ元ですけどね」
後輩はため息交じりに言って、これまでの実験資料が入った本棚を見る。ずらっと並んだファイルの中に、成功の文字は一つもない。
「ダメ元でもいいんだよ。ダメだって確かめることは無駄じゃない。それに、確率が高い方を選ぶのは当然のことだ」
「……ですね」
これまでの失敗は決して無駄じゃない。僕は本気でそう思ってる。そして後輩も。以前の失敗があったからこそ今回の改善点に気付けたのだから。
「そろそろ帰ろうか」
PCの時計は22時を示していた。
「じゃあ、必要なものだけ発注しておきます」
後輩の発注書類を確認してから二人で研究室を出た。この時間、研究室の外は非常灯以外の電気が消えている。スマホのライトで足元を照らしながら階段を降りる。金曜というのもあり、本館まで来ても人の気配はなかった。
「今週はどうしますか?」
「ああ、両方僕が出るよ。来週は出産予定日だから来られないと思うし」
「分かりました。久しぶりに連休だー!!」
静かな本館に歓喜に満ちた声が反響した。普段から弱音を吐かず頑張ってくれているけど、やっぱりしんどい部分はあるんだと思う。
当初は僕が一人でやっていた休日の観察も、いつからか分業制になっていた。最初は後輩が志願したのがきっかけだったと思う。悪いからと遠慮していたのだけど後輩が休日にも勉強したい(研究データは社外に持ち出せないので、勉強しようと思うと必然的に会社に来なくてはいけない)、そのついでにやるだけだと言うのでその言葉に甘えることにして、基本(何も予定がなければ)土日のどちらかが僕、もう片方が後輩、という分業の形ができあがった。だから僕らにとって連休というのは非情にレアな出来事なのだ。
「友達と旅行でも行こうかな」
「行ってきなよ。……別に、無理して休日出勤する必要ないんだからね」
「大丈夫ですよもう慣れましたし。それに、毎日出勤したら先輩本当に死にますよ」
「いや、前はやってたし死にはしないと思うけど……」
「いや、もう昔みたいに若くないんですから。くまも年々酷くなってますよ」
「そうかな」
「そうですよ。たまに昔の写真見るとくまが薄くてびっくりしますもん」
「……なんで僕の写真持ってるの? いつ撮ったの?」
「……お疲れさまでした」
後輩は逃げるように自分の車に乗り込んでいった。
家に着くと妻は既に眠っていた。妊娠してから疲れやすくなったと言っていたが、家事は全て片付いていた。無理をしていないか不安になったが、相変わらず幸せそうに眠っている姿を見てホッとした。作り置きしてくれていた食事をありがたく頂いてから眠りについた。
妻が家事をやってくれていたのでいつもより遅めにアラームをセットしていたのだけど、体に習慣化された時間に目が覚めてしまった。二度寝しようか迷ったが、体はここでベッドから出ることも習慣化してしまっているようで眠れそうもなかった。
余裕のある時間を使って、かねてより考えていたいつもと違う朝食メニューを作った。結果は失敗だった。僕は料理には絶望的に向いていないようだ。妻は喜んで食べてくれたが、僕は終始申し訳ない気持ちだった。
土日の経過観察は簡易的に済ませる。短期的な効果が期待できそうな成分と実験を始めたばかりの成分は平日と変わらず行うが、長期に渡って観察しているものは日曜日と分割し、検査項目も減らす。そのため、朝早くから作業にとりかかれば、昼過ぎには終わらせることができる。
本当は土日も徹底して行うべきだと思うのだけど、一人で全てをやるには作業の量が増えすぎた。……それに、平日は全く家にいられない分、休日は少しでも妻と過ごしたかった。
昼過ぎに帰宅すると、妻が誰かと話をしている声が聞こえてきた。
「本当に大丈夫だって。何かあったら連絡する。うん、じゃあまたね」
妻はそう言って電話を切った。僕に気付くと「おかえりー」と言った。
「ただいま。誰からだったの?」
「お父さんだよ。来週が予定日なのに連絡の一つも寄こさないで大丈夫なのか! って」
妻はお義父さんの真似をしながら説明した。似ている。
「そういえばたしかに最近帰省できてないね」
最後に帰省したのはいつだったろう、と記憶を遡り、去年の新年以降一度も帰省していないことに思い当たった。つまり、妻は妊娠してから一度も帰省できていないのだ。お義父さんが心配するのも当然のことだ。
「今から帰る?」
僕が提案すると、妻は「え?」と険しい表情を浮かべた。
「大丈夫? 疲れてない?」
「うん。平気だよ」
不安げな妻に僕は明るく言った。妻は数秒僕の目をジッと見てから「分かった。じゃあお父さんに連絡するね」と言って再びスマホを耳に当てた。僕も母親に「今から帰る」とだけメッセージを入れた。
妻が電話を終え自室へ着替えに向かい、僕も着替えようとジャケットを脱いだ。そしてワイシャツのボタンを外そうと指をかけたが、なぜだか外すのに手間取った。
「あれ、おかしいな」
指が思うように動かなかった。痺れているようで、ボタンに触れているはずなのにその感覚すらない。
「このっ」
数分間指先に意識を集中し続けるとやがて痺れはなくなり、ボタンもスムーズに外すことができた。着替えた後に再び手をグーパーしたり指を1本ずつ立てたりしたが、痺れはなかった。疲れてるのだろうか。これまでにない感覚に若干不安になったけど、幸い今日は休日だ。早く寝れば治るだろう。
実家へは高速道路を使えば片道1時間で着くので、妻に言った通り負担にはならない。帰ろうと思えばいつでも帰れる距離だ。だからこそ逆に「今度行こう」「今度行こう」と後回しになるんだけど……。
実家へ車を走らせている間、助手席に乗る妻の表情は明るかった。久々に実家へ帰るのが楽しみなのかもしれない。
車内では僕らが学生の頃に流行った曲を妻が選んで流していた。懐かしい曲に合わせた妻の鼻歌を聴きながら、休日の渋滞を抜けた。
次は金曜日に投稿します。




