風が消す名前
掲載日:2025/10/23
風に揺れる畑の真ん中で、へのへのもへじがつぶやいた。
「最近、とんと書いてくれなくなっちまったなぁ」
「いいじゃないか。まだ覚えてくれる人がいるだけさ」
もへじは振り返り、声の主を探した。
そこには、名無しの権兵衛が、深いため息をつきながら地べたに座っていた。
「俺なんてもう誰も知らない。昔は、ふざけ合う人々の中にひょっこり出ていっていたのに」
権兵衛は、今にも泣き出しそうな顔を背ける。
もへじはその隣に腰を下ろした。
「泣いたらいい。羨ましいよ。そうやって涙を流せるのがさ。わたしは泣けない。泣いたら“の”が消えて、存在が気薄になってしまうんだ」
権兵衛は黙って、もへじの肩を撫でた。
「俺ら、消えちまうのかな……」
彼は空を見上げた。
夕暮れの畑に、風が渡る。
もへじは眉を下げ、ひとつため息をついた。
「そうかもしれない。でも、わたしはもう少しだけ、畑のカカシとして立っていることにするよ。また、遊びに来てくれよな」
権兵衛は立ち上がり、もへじの首に小さな札をかけた。
「お前にやるよ。それが名だ」
風が札を揺らした。
その瞬間、空が少しだけ赤くなったように見えた。
その札に刻まれたのは、
誰もが一度は呼んだ、懐かしい名だった。




