噓の味はビターガナッシュ。 6
カフェの重い扉を押し開けたその瞬間、空気が一変した。
静謐で淡い夢の街並みは、一瞬で霧散し、現実の世界の鮮明な匂いと音に飲み込まれる。
冷たいコンクリートの地面、遠くから響く車の音、ざわめく人波の息遣い。
目の前に広がるのは、夢とは対照的な無数の色彩と光の奔流だった。
歩道に並ぶネオンの灯りが雨上がりの路面に反射して、まるで万華鏡のように輝いている。
深呼吸をしてみる。肺いっぱいに満ちる生々しい空気。
重たく絡みついていた夢の膜が剥がれ落ち、ぼんやりしていた記憶の断片がひとつ、またひとつと鮮やかに蘇ってくるようだった。
「……戻ってきた?」
口に出して、確かめるように呟いた。
夢の中にあった、曖昧な静寂が、ここにはなかった。
僕の吐いた息が、ほんの少し白くなる。
夜風の温度、コンクリートの匂い、遠ざかる電車の音。
現実の世界だ。
通りを歩く人々がいる。スマホを見ながら歩く女子高生、信号を渡るスーツ姿の男性、自転車を漕ぐ少年。
彼らは、僕の存在に気づくこともなく、それぞれの夜を生きている。
「ここは……現実だ」
胸に抱えた紙袋の感触が確かだった。
夢ではない、触れることができる感触。
ふと、僕は足を止めた。
角を曲がった先の、ほんのり灯る街灯の下に、ひとりの少女が立っていた。
制服姿。髪は短く、栗色。
どこか懐かしい。だけど、思い出せない。
彼女はこちらを見ていない。ただ俯いて、何かをじっと見つめていた。
手には小さな紙袋。
足音を忍ばせて近づく。
その背中に呼びかけようとした瞬間、
彼女はふと顔を上げて、通りの向こうにある店の看板に目をやった。
「……ショ・コラ、か」
その声に、胸がざわついた。
何かが引っかかっている。けれど、思い出せない。
彼女は僕に気づかないまま、ゆっくりと踵を返し、闇の中へと歩き去っていく。
「……待って」
声を出したつもりだった。
でも、空気は音を飲み込んだ。
追いかけようとした足が、なぜか動かない。
――誰なんだ、あの子は。
記憶の奥にあるはずの名前が、霧に包まれて取り出せない。
やがて霧のように現れ、霧のように消えたその背中を、
僕はただ、立ち尽くして見送った。
現実の空は、遠くまで抜けるように高く、星が瞬いていた。
車のブレーキ音、踏切の警報音、遠くの笑い声。
すべてがリアルだった。
足元のアスファルトが、かすかに軋んだ。
ふと振り返ると、どこかで見たような制服を着た店員が、こちらを見ていた。
「お困りのようですね」
その声には、どこか湿り気のある響きがあった。
「……あなたは」
僕がそう言いかけたとき、店員はすっと微笑んだ。
「思い出せなくて当然です。けれど、それは悪いことではありません」
意味を掴みかねた僕の視線を受け止めながら、彼女はふと、紙袋を差し出した。
「差し入れです。ビターガナッシュ。きっと、これがまた何かの鍵になるでしょう」
受け取った紙袋の中にあったのは、小さな銀の箱だった。
開けると、中にはまた、あの艶やかなチョコレートが入っていた。
視線を上げると、店員はもういなかった。
僕は、ビターガナッシュを胸元に抱きながら、再び歩き出した。
その一歩が、夢と現実のあわいに、少しだけ波紋を広げた気がした。