噓の味はビターガナッシュ。 5
目の前のビターガナッシュが、まるで時間を閉じ込めた琥珀のように、そこにあった。
艶やかなチョコレートの表面に、ランプの灯りが鈍く映り込んでいる。
僕はしばらく、それをただ眺めていた。
まるで、食べることで何かが壊れてしまうことを、無意識に恐れているようだった。
窓の外には、夢の世界の夜が続いていた。
けれど、現実の夜とは少し違う。
星が少し大きく、風がやけに静かで、街の明かりもゆらゆらと揺れていた。
まるで、世界全体が深い呼吸をしているかのような、穏やかで、不自然な静寂だった。
「お味のほうはいかがでしょうか」
声がした。
いつの間にか、あの店員が僕の向かいに立っていた。
淡い色の制服に身を包み、表情の少ないその顔立ちは、どこか懐かしさを伴っていた。
「まだ、食べてないんです」
そう答えた僕の声は、自分でも驚くほどに乾いていた。
喉が焼けるように痛かった。
「……食べると、戻れなくなるような気がして」
その言葉に、店員は何も言わなかった。
ただ、ゆっくりと視線を落とし、テーブルの上のビターガナッシュを見つめた。
「甘いものは、人を救うこともあれば、溺れさせることもあります。苦味もまた、然り」
ぽつりと、詩のように言ったその言葉が、僕の胸の奥に沈んだ。
その瞬間、僕の脳裏に、牧野さんの顔が浮かんだ。
湖のほとりに立つ、あの儚い横顔。
そして、波紋の消えた水面。
彼女はもう、この世にはいない。
けれど、僕の中には確かに、彼女の姿が焼きついている。
「……ビターガナッシュって、どんな味なんでしょうね」
ふと、そんなことを口にしていた。
それは疑問ではなく、独り言に近い問いだった。
店員は少しだけ首を傾げて、言った。
「お客様次第、でしょう」
僕は、そっとフォークを手に取った。
皿の上のビターガナッシュは、まるで僕の決意を待っていたかのように、静かにそこにあった。
ナイフの先でゆっくりと断ち割る。
中から、濃厚なチョコレートがとろりと流れ出した。
その香りが、鼻腔をくすぐる。
僕は、それを口に運んだ。
最初に来たのは、優しい甘さだった。
まるで、幼い頃の安心感のような、やわらかい甘さ。
けれどその後すぐに、舌に苦味が広がった。
鋭く、けれどどこか懐かしい苦味。
それは、誰かを思い出す味だった。
僕は、目を閉じた。
その苦味の中に、誰かの手のぬくもりや、言葉や、嘘や、本当が混ざっていた。
そして、理解した。
この味こそが、僕そのものだった。
嘘を重ねて、誰かを救おうとして、でもその度に自分を失っていく。
それでも、誰かを守りたかったという、その一心。
僕は静かに目を開けた。
夢の中でも、現実でも、きっと僕は変わらない。
それなら――やるべきことは、ただ一つだ。
牧野さんに、ビターガナッシュは似合わない。
彼女には、もっと甘いものを食べてほしい。
そのために、僕はもう一度、彼女に会いに行く。