噓の味はビターガナッシュ。 4
湖の岸辺に、彼女は立っていた。
まるで水面に溶け込むために生まれてきたかのように、制服のスカートが風に揺れ、月明かりがその輪郭をぼんやりと照らしていた。
その佇まいは静かで、恐ろしいほどに美しかった。
僕の足は地面に縫い付けられたように動かない。
声をかけたらいけない気がした。
いや、違う。
僕が、彼女に声をかける資格を持っていないのだと、どこかで悟っていた。
彼女はほんの少しだけ目を伏せると、湖面に視線を戻した。
そして、両手を前に伸ばしながら、まるで何かを受け入れるように静かに一歩、また一歩と進んでいった。
靴が水に沈む音。
その音が、世界から音という音を奪った。
夜の闇が、彼女を包み込む。
制服の裾が水に浮き、月の光がさざ波の上で砕けた。
彼女は微笑んでいるように見えた。
哀しみも、怒りも、苦悩も、すべてを溶かし終えた表情だった。
「さよなら」
唇が動いた。
けれど、その言葉に声はなかった。
次の瞬間、彼女は身体を傾けるようにして、湖へ身を投げた。
水飛沫は立たなかった。
吸い込まれるように、彼女の身体は暗い湖面に消えた。
僕は、立ち尽くした。
叫ぶことも、駆け寄ることも、何一つできなかった。
水面には、波紋だけが広がっていた。
それはまるで、彼女の存在がこの世界にあった証を示すかのように、静かに、ゆっくりと広がっていった。
しばらくして。
波紋が消えた。
月が水面に戻ってきた。
そこに、彼女の姿はもうなかった。
僕は、ただ震えていた。
冷たい風に晒されながら、身体の芯が、悲鳴を上げていた。
彼女の命が、音もなく終わった。
命とは、こんなにも脆く、あっけなく、
けれど、確かに美しい。
彼女の姿が、僕の網膜に焼き付いていた。
……その時だった。
視界の隅が、ふっと滲んだ。
まるで水に沈んだ光を拾うように、景色が歪む。
耳の奥に、ざらついたノイズが走った。
雑音でも、風の音でもない。
それは、僕の脳の奥底から響いてくるような、聞き覚えのある違和感だった。
身体の感覚がふっと遠のく。
足元の土の感触が消え、夜の風が止まり、音が遠のいていく。
――これは、夢だ。
いや、夢に戻る。
瞬きをした。
するとそこは、カフェ「ショ・コラ」の窓際の席だった。
テーブルの上には、あたたかいコーヒー。
そして目の前には、ビターガナッシュがあった。