嘘の味はビターガナッシュ。 2
1の続きです。
相変わらず拙いとは思いますが、どうか楽しんで。
カフェ「ショ・コラ」は、まるで時間から切り離されたような静寂をまとっていた。
木の温もりを帯びた内装に、優しく漂うコーヒーの香り。天井から垂れるランプの光が、黄昏の残光をさらに柔らかくしていた。
足を踏み入れた瞬間、その空間が現実ではないと、どこかで理解していたのかもしれない。
窓際の席に腰を下ろすと、目の前には空の椅子がぽつんと佇んでいた。そこに誰が座るべきだったのかを、僕はまだ思い出せない。
「お客様、当店への初めてのご来店ですか」
不意にかけられた声に、僕は顔を上げる。
そこには、まるで西洋人形のような少女が立っていた。
白磁のような肌と、深い黒髪。琥珀にも似たその瞳は、なぜか僕の内側を覗き込むようだった。
「ええ、初めてです」
少女はしばし僕を見つめたあと、くす、と微笑んだ。
「いえ。お客様は常連でしょうに」
常連。そんなはずはない。けれど、口を開こうとした瞬間、なぜか喉がきゅっと締まる。
代わりに彼女は静かに言った。
「少々お待ちくださいませ。ビターガナッシュをご用意いたします」
その言葉に、僕はどこかで聞いたノイズのような響きを感じた。ビターガナッシュ――まただ。その単語は、僕の中にずっと以前からあったような、不自然な懐かしさを含んでいた。
彼女がカウンターの奥へ消えていくと、再び静けさが戻った。
僕は外の景色に目をやる。夜の帳がすっかり街を包み込み、窓の外にはほとんど人影もない。
だけど、ふと記憶の断片のように浮かぶのは、明るい髪の少女だった。
牧野。
そうだ。僕は彼女と話していた。学級だより。夕焼け。赤信号。……その先は?
思い出そうとしても、記憶が霧の中で迷子になっていく。
「お待たせしました」
音もなく戻ってきた彼女が、テーブルにそっと小さな皿を置く。
そこには、小ぶりなビターガナッシュがひとつ。
艶のある黒褐色のチョコレートの塊に、仄かな金色の装飾が施されている。
「ごゆっくりどうぞ」
彼女は深く頭を下げ、そのままカウンターの奥へと戻っていった。
僕はフォークを手に取り、ガナッシュを口に運ぶ。
最初に感じたのは、意外なほどの柔らかさだった。舌の上でとろけるその塊は、ただの甘さではない。奥にほろ苦さと、微かな酸味があった。
瞬間、視界がゆらぐ。
まるで、音のない地震のように。
現実がゆっくりと軋む感覚。
カフェの中に満ちていた空気が、少しずつざらつき始める。
そして、耳の奥で微かなノイズが聞こえた。
――ピリ、ピリピリ。
その音は、脳のどこかを直接叩くような、乾いた電流音だった。
視界がにじむ。椅子の脚、窓の縁、ランプの光――すべてが歪んで、溶けていくようだった。
そして、世界が反転した。
一瞬の無音。
次に目を開けたとき、僕は夜の駅前に立っていた。
さっきまでいたカフェは消えていて、足元にはくしゃくしゃになった学級だよりが転がっていた。
「……あれ?」
指先を見つめる。ビターガナッシュの欠片も、口の中の甘苦い余韻も、何ひとつ残っていなかった。
けれど、確かにあの味は、僕の中に刻まれていた。
そして、あのカフェの空気も。
まるで夢だったのか?
でも、それにしては、あまりにも生々しかった。
風がまた吹いた。街の灯が揺れる。背後で誰かの足音がする気がした。
僕は振り返った。
誰も、いない。
ただ、夜の街が、しんと音もなく僕を包んでいた。
続きをお楽しみに。