1 変態紳士の日常
※主人公がとんでもない変人です。
俺は自分が本好きの変態紳士であると自負している。誇張でも冗談でも頭がおかしいわけでもなく、真面目にそう自覚している。
物心つく頃にはすでに本の虫だった。
最初はただ絵本を見たり、母に本の読み聞かせをしてもらったりして、純粋に本の世界に触れることを楽しんでいた。
それから自発的に本を読むようになり、小学校に入学して以降はよく学校の図書室に入り浸ったものだ。
だが、いつからか本に触れることに対して、次第に不純な目的を孕むようになっていった。
はっきり言おう。俺は本を読むことと同等以上に、本そのものを五感で味わうことに大きな楽しみを見出している。味覚以外の四つの知覚で、だ。さすがにそこまでの変態に成り果ててはいない。
何せ、俺は誇りある愛書家の"変態紳士"。獣じみた本物のそれとは訳が違う。
──俺にとって本とは、いわば恋人のような存在だ。
一冊の本に触れるだけで、視覚、聴覚、嗅覚、触覚の四つの感覚が生き生きと躍り出す。ひとたび読み進めれば、狭苦しい世界がどこまでも広がって、色褪せた心に彩りを与えてくれる。
そよぐように感情を揺さぶり、触れる度に新たな発見があって、俺の心を掴んで離さない存在。
良き本との出会いは、良き恋人との出会い同然であると言えよう。
我ながら結構いいこと言っていると思うが、なぜか俺のこういう考えはちっとも理解されない。
「いや、当たり前だろ。お前の中ですげえ補正入って美化してるけど、端から見たらただの変態だぞ」
青空の沁みるような清々しい夏の日。
前の席に座る友人と冷房の効いた教室で、俺は何度目かわからないほど話題にした話をして放課の時間を潰していた。
「そんなわけあるか。何度も言ってるけど、俺は本に性的興奮を覚えてるわけじゃない。背表紙にキスしたり、ページを舐め回すような低俗な行為とももちろん無縁。俺の姿勢は、あくまで変態紳士としての美学に基づいている」
「そもそも変態紳士ってなんだよ。紳士って申し分程度に付けてるだけで同じだろうが」
「どこをどう見たら同じに見えるんだ? ──いいか、変態は獣。これはシャーペン。あれはカーテン。夏はそうめん。謝罪はごめん。そして俺は人間。ほら、全然違う」
「意味わかんねえよ! 急に適当すぎだろ! ……読書家のくせに知性が毛ほども感じられないって致命的だぞ」
友人に思い切りツッコまれた。どうしようもない馬鹿を見るような目を向けられる。そもそも俺は読書家というよりは愛書家、ビブリオフィルだ。
なんだか腹が立ったので、変態と変態紳士の違いについて懇切丁寧に語ってやることにする。
「そもそも、 ただの変態というのは、衝動に流されて欲の対象を消費するだけの獣だ。三流変態なんて檻の中がお似合いの単なる変質者にすぎない」
「は? 三流変態……?」
「でも変態紳士は違う!」
「うおっ」
「紳士と付くからには、変態紳士には独自の哲学性と芸術性がある。本の装丁、紙の質感、インクの香り、捲った時の音、本の内容などなど……これらすべてが織り成すシンフォニーを舐め回すように味わい、己の欲望を崇高な美学に昇華する。これぞ一流の境地! 人類の叡智! ──どうだ、これで変態との違いが理解できただろ?」
「そう、だな。……つまり、お前はまじのがちで本物の変態だったと」
「なぜだッ!」
俺は拳を机に叩きつけた。色んな衝撃のあまり眼鏡が割れるかと思った。
これだけ長尺を使って熱弁したのに、"ただの変態"から"まじのがちで本物の変態"に格下げされただけってなんなんだ?
つくづく理解不能だった。だって俺はどこからどう見ても人間だ。檻の中は似合わないし、今後入る予定もない。当たり前だ。
握り拳を震わせて思考の海に浸っていると、「……あのさ」と友人の呆れたような声が降ってくる。
「人には思考の癖みたいなのがあって、経験とか感情とか、そういう自分の信じたいものに無意識的に影響されるから認知が歪むんだって、この前自分で言ってただろ。それってお前ちゃんと意識してんの?」
「ああ、もちろん」
「即答かよ」
「特に、揺るぎない変態紳士道を確立するためにも、確証バイアス、自己奉仕バイアス、自信過剰バイアスには気をつけてるな。ああ、あと選択的知覚とかアンカリング効果、ダニング・クルーガー効果とかにもわりと注意してる」
「いや全部お前に当てはまってんじゃん……。なんで意識しててそれなんだよ。……そもそも、なんで俺たち朝から学校でこんな話してんの? これ高二の会話か?」
盛大に呆れています、そしてお前のせいで朝から疲れました、みたいな顔を向けられる。
だったら、エロ本読んでるお前だって何を根拠に自分が健全だと宣えるんだよ、と俺は心の中で毒を吐いた。
まあ、友人だからといって必ずしも全部を理解し合えるわけではない。
そもそも、付かず離れずの関係こそが友人というものだから、別にそこまで気にするようなことでもないだろう。
家族ですら相互理解は難しいし、無理に理解し合う必要もない。
何より、俺にはすでに同志と呼べる存在が一人だけいる。
「あ、成瀬くん」
昼放課になり、図書室に足を運んだ。
すると、すでに来ていた女子が親しげに話しかけてくる。
彼女は田中さん。同じ図書委員で読書家の温和な女子で、五月の時に俺が図書室のカウンターで自分の本を読んでいると、「それ、わたしも今読んでるよ。その作者さんの本、どれも面白くて好きなんだ」と笑顔で話しかけてきてくれたことがきっかけで仲良くなった。
昼休みの図書室はまだ人も少なく静かな空気に包まれている。窓から射し込む陽光が整然と陳列する木製の書架を柔らかく照らし、埃がキラキラと宙を舞っているのが見えた。
俺はカウンターに座ると、田中さんが読んでいる本の表紙をちらりと覗く。
「それ、"ドン・キホーテ"?」
「あ、うん。前に本棚を整理した時に見つけてね、世界的にも有名な本だし、一度読んでみたいなってずっと気になってたの。だから借りてみちゃった」
そう言って田中さんはいたずらっぽく笑った。
"ドン・キホーテ"は、前に子供向けの抄訳版を読んだことがある。
聖書の次に読まれた歴史的名著というだけあって、ユーモアに溢れた物語と、鋭いエッジの効いた筆致が癖になる小説。有名なのは、ドン・キホーテが風車を巨人だと思い込んで戦いを挑む場面とか、農民の娘をドルシネア姫と勝手に呼んで理想化する場面とかだろうか。うん、わけがわからない。
とにかく妄想全開で滑稽だが、ドン・キホーテのただひたすらに理想を追い求める姿はどこか哀愁もあって、心を惹きつけられたのを覚えている。俺の変態紳士道にも影響を与えてくれたお気に入りの本の一つだ。
とはいえ、現代人にとってはいささか物語が長大すぎるので、田中さんが読んでいる全訳版の方には未だ手を付けていない。
物思いに耽ってドン・キホーテの本を見つめていると、田中さんが気遣うように声をかけてきた。
「ひょっとして、成瀬くんも読んでみたかったりする?」
「え? あ、いや。大丈夫。俺は持参のやつ読むよ」
「そっか。そういえば、成瀬くんって図書室の本、全然読んだり借りたりしないよね? 本好きなのに意外だな」
「ああ。実はなんとなくだけど図書室の本とか苦手でさ」
「そうなの?」
俺は固く頷いた。
というのも、変態紳士として本に新たな楽しみを見出だして以降、気づけば図書室の本や古本が苦手になっていたのだ。
だって、俺にとって本とは恋人のような存在。
それなのに、図書室の本ときたら自分だけのものには決してならないし、いわばレンタル彼女みたいなもの。
どんなに素晴らしい本に出会ったとしても、それは一時的な関係でしかない。期限が来れば返却し、別の誰かの手に渡る。
お気に入りの本が他の誰かに借りられたりでもしたら、それはもはや寝取られだ。なぜ図書室でそんなプレイをしなければならない?
古本もまた、俺にとってはハードルが高い。
かつて知らない誰かがべたべた触った本なんて、それだけで俺の愛書家としての独占欲が強い拒絶を起こす。
誰がその本を手に取り、どのくらい触れ合ったのか。どんな汚れや傷をつけられ、そもそもなぜ別れたのか。相手は何人いたのか。そんな生々しい過去の痕跡をいちいち突きつられるなんて堪ったもんじゃない。
俺は本を愛する変態紳士だ。恋人の恋愛遍歴は見ずに流したいし、ましてや他の誰かの手垢がついた本を愛でるなんて、俺の美学が許さない。
それと、現代で主流になりつつある電子書籍なんかも俺にとっては論外である。だって、そもそも五感が愉しくないからな。
「まあちょっとね。でも、図書室の古い紙や埃っぽい匂いは今でも変わらず好きだな。それに、なんであれたくさんの本に囲まれるのは本好きにとって浪漫でもあるし」
図書室内を見回しながらそう言うと、視界の隅で田中さんが嬉しそうに顔を輝かせる気配がする。
「すっごくわかる! こんなこと言ったら引かれるかもだけど、本ってさ、内容だけじゃなくて背表紙のデザインとか匂いとかの面でも楽しいなって思うんだよね。なんだか好きな人と一緒にいる時みたいに気分が高まるっていうか、幸せな気持ちになるの」
「!」
ああ、ああ! とてもよくわかる。
装丁は本の顔。粋で洒落ている装丁の本というだけで興味をそそられるし、本棚に飾ってずっと眺めていたくなる。
本の匂いは安らぎと高揚感。年季の入った古書特有の甘く柔らかな匂いや、懐かしさを感じる土やカビに近い湿気った匂い。新書特有の新鮮で清潔感のある紙とインクの匂い。
そんな独特だけど不思議とずっと嗅いでいたくなるような香りを思い切り吸い込むだけで、この上ない至福感に包まれるものだ。
俺は強く田中さんに共感した。
そして、彼女はやっぱり同志だったんだ、と感動のあまり打ち震える。自分と同じ本を恋人のように思っている人と初めて出会えた!
前からなんとなくそうなんじゃないかと勝手に親近感を抱いていたが、俺の変態紳士としての勘はすこぶる冴え渡っていたらしい。
ああ、なんて日だ。これは俺にとって世紀の大発見。ありがとう世界!
内心ひたすらに感激しながら、同志の存在にすっかり浮かれた俺は、紳士淑女としての変態談義を始めようと興奮気味に口を開く。
「わかるよ、田中さん。やっぱり恋人って思うよな。恋人っていいよな! 初めて好きだと思える存在と出会った瞬間の胸の高まり。柔らかな灯りが照らす薄暗い室内での静かな触れ合い。共にあるだけで世界がどこまでも広がったり、心を豊かに彩ってくれて、時々こう、そっと抱きしめたくなるような感じとか、本当に堪らなくてさ。先日買った本は恋愛小説だったんだけど、読んでて最高だった」
「え? あ、そ、そうなんだ。……成瀬くんって意外とロマンチストなんだね」
「そうか? 普通だと思うけど。田中さんはさ、図書室とかでも、ふとした時にレンタル恋人の甘くてカビっぼい匂いを嗅いで心が落ち着いたりとかしないの?」
「カビっぽい匂いのレンタル恋人って何!? 成瀬くんの中での私のイメージが怖いよ! ……でもまあ、確かに図書室で好きな人と一緒にみたいなのとか、好きな人の匂いに包まれるのとかも、いいなとは思うかな」
「やっぱりそうだよな! じゃあさ、田中さんの恋人は? 本命とはどんな感じ?」
「えっ!」
質問が唐突すぎたのか、田中さんは目を丸くして喫驚した。頬はなぜかほんのり赤く染まり、戸惑いの色を浮かべている。
いくら本とはいえ、恋バナじみた話は照れるものなのかもしれない。
……まあそれもそうか。よくよく考えたら、田中さんってかなり特殊な変態淑女だと思うし。
彼女もきっと、レンタル恋人たちを愛でることに複雑な心境を抱いているのだろう。寝取られを楽しんでいるのか、単に火遊びをしているのか、それとも永遠に結ばれない関係とやらに酔いしれているのかはわからないが。
いずれにせよ、俺の質問は変態淑女のセンチメンタル・パッションを無遠慮に小突き回すようなものだった。
内心色々と納得しながらじっと待っていると、目を少し泳がせながら、田中さんが小さな声で呟く。
「えっと……私はその、いない、かな」
「え、いないの!? 本当に今までまったく?」
「う、うん。これまで一度もいたことないよ。でも……す、好き、とかならなくもないけど」
ん? それってなんか普通じゃないか?
俺は違和感を覚えて首を傾げた。
だが深く考える間もなく、赤い顔のまま恐る恐るといった様子で田中さんが小さく尋ねてくる。
「成瀬くんはどうなの? 恋人とか……いたりする?」
「え? ああ、そりゃあもちろん。俺の恋人は今現在、五百超えの数いるよ」
「ご、五百!? 正気なの……?」
「うん。日々新しい子と出会うと、部屋に連れ帰ってじっくり味わいたくなるんだよな。高校入ってからそんな生活続けてたら、いつの間にか棚もいっぱいで。恋人がずらりと並んだ姿はもう圧巻の眺めだ」
「種もいっぱい!? ていうか、え、ちょっと成瀬くんの部屋どうなってるの!? まさか監禁してたりしないよね……?」
「換金? もちろんしないに決まってる。何せ、俺の夢は自分専用の文殿を築くこと。四方八方を無数の恋人に囲まれた聖域で、一日中その深みに溺れるんだ」
「夢が爛れすぎでしょ! そんなの恋人じゃなくて愛人だし、成瀬くん破廉恥くそケダモノになっちゃうよ!」
「なっ!? ち、違うって! 本は俺にとって大事な恋人なんだ。五百冊の恋人。愛人じゃないんだ。そして俺は変態紳士だよ!」
「え、本……? 変態紳士……?」
田中さんが顔を引き吊らせて固まる。
俺は力強く何度も首肯した。そして、誤解を解こうと恋人──自室の本棚に収められた五百冊の本について惚気るように熱弁を振るった。
「だから愛人とかじゃまったくないんだ。確かに好色のハーレム王みたいに思えるかもだけど、俺にとってはすべて本命の大切な恋人なんだよ」
俺はそう言い切った。最大限の誠意を込めた眼差しで、真っ直ぐ田中さんを見つめる。
しかし、なぜだか彼女は古書に潜むカビの胞子でも吸い込んだみたいに徐々に顔色を悪くしていく。
そして、「前からなんとなく思ってたんだけど……」と前置きすると、嫌そうに顔を顰めてこう言い放ったのだ。
「成瀬くんは、蛹の状態を微妙に、本当にかろうじで、なんとか保ってごまかしてるけど、変態寸前の現代版ドン・キホーテなんだよ」
「は?」
予想外の言葉に絶句した。
とんだ誤解だ。俺はとっくの昔に成虫を越えて変態紳士に進化している。だからこそ、本への想いをこれほど熱く語れるのだ。
きっと恋バナとか苦手なタイプだったんだろうけど、だからといって何も本物の変態でも見るような目を向けてこなくてもいいだろうに。女心はやっぱりよくわからない。というかその目、なんか朝にも見た気がするぞ。