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乾符四(877)年(3)
7月21日、王仙芝と黄巣が宋州を攻め、三道の兵(平盧、宣武、忠武軍)は共に王仙芝等と戦って敗れ、賊軍(王仙芝等)は遂に宋州城の宋威を包囲した。
甲寅の日(日付が誤り)、右威衛上将軍である張自勉が忠武の兵七千を率いて宋州を救援し、賊兵二千人余りを殺したので、賊軍は包囲を解いて逃げ去った。
ところで宰相の王鐸と盧攜は、張自勉の率いる軍を宋威の指揮下に入らせようとしたが、宰相の鄭畋は、宋威と張自勉の間に疑念や恨みがあるため、張自勉がもし宋威の指揮下に置かれれば、必ず殺されるだろうと考え、(張自勉の率いる軍を宋威の指揮下に入らせると記した)※上奏文に署名することを拒絶した。
8月3日、王鐸と盧攜は皇帝の僖宗に訴え、鄭畋を宰相から罷免することを求めたため、8月12日、鄭畋は※滻川に帰って療養したいと請願したが、僖宗はどちらの請願も許可しなかった。
※上奏
天子(皇帝)に意見・事情等を申し上げること
※滻川
唐の都である長安の東郊にあり、京兆府の万年県に属していた。