乾符四(877)年②
事の始まりは桂管觀察使の李瓚が誤った政治を行ったことで、支使の薛堅石は度々李瓚を諫め(忠告し)たが、李瓚はそれを聞き入れなかった。
そして※李瓚が反乱軍により桂管觀察使の地位を追われるに至って、薛堅石はその職務を代行し、近隣の節度使や觀察使等に文書で状況を伝えて応援を要請し、反乱を鎮圧して、桂管觀察使の管轄地域を安定させた。
そこで僖宗は詔を下して薛堅石を抜擢し国子博士とした。
6月、柳彦璋は江州を襲撃して陥落させ、江州刺史の陶祥を捕えると、陶祥に上表文を進上(朝廷に状況を報告)させて、柳彦璋もまた自らそれに降伏を申し入れる文書を添えて一緒に進上した。
そこで僖宗は勅命を下して柳彦璋を右監門将軍とし、彼に軍を解散させて単独で京師(都)に赴かせようとし、その上、左武衛将軍の劉秉仁を江州刺史に任命した。
しかし柳彦璋はこの決定に従わず、戦艦百隻余りを用いて湓江を封鎖する水上要塞を築き、そして彼が略奪する様子は以前と同じであった。
忠武軍の都将である李可封は辺境防衛の任務を終えて許州に帰る途中、※邠州に至ると邠寧節度使を脅迫して、以前から不足していた食糧と塩をよこすよう要求し、邠州に四日間駐留したので、邠州の全域が震撼した。
けれどもそのため秋、七月、李可封等が※許州に帰着すると、忠武節度使の崔安潛は彼らを全て捕えて誅殺した。
※李瓚が反乱軍により桂管觀察使の地位を追われるに至って
『資治通鑑』ではこの前年(乾符三(876)年)の12月に李瓚は桂管観察使の地位を追われたと記述している。
※邠州に至ると邠寧節度使を
邠州は邠寧節度使の政庁所在地であった。
※許州に帰着すると、忠武節度使の
許州は忠武節度使(忠武軍)の政庁所在地であった。