表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/6

乾符四(877)年②

 事の始まりは桂管觀察使けいかんかんさつし)李瓚りさん)が誤った政治を行ったことで、支使しし)薛堅石せつけんせき)は度々李瓚を(いさ)め(忠告し)たが、李瓚はそれを聞き入れなかった。


 そして※李瓚が反乱軍により桂管觀察使の地位を追われるに至って、薛堅石はその職務を代行し、近隣の節度使や觀察使等に文書で状況を伝えて応援を要請し、反乱を鎮圧して、桂管觀察使の管轄地域を安定させた。


 そこで僖宗(きそう)みことのりを下して薛堅石を抜擢ばってき)国子博士こくしはかせ)とした。


 6月、柳彦璋りゅうげんしょう)江州(こうしゅう)を襲撃して陥落させ、江州刺史こうしゅうしし)陶祥(とうしょう)を捕えると、陶祥に上表(じょうひょう)文を進上(朝廷に状況を報告)させて、柳彦璋もまた自らそれに降伏を申し入れる文書を添えて一緒に進上した。


 そこで僖宗(きそう)勅命ちょくめい)を下して柳彦璋を右監門将軍(うかんもんしょうぐん)とし、彼に軍を解散させて単独で京師(けいし)(都)に赴かせようとし、その上、左武衛将軍(さぶえいしょうぐん)劉秉仁りゅうへいじん)を江州刺史に任命した。


 しかし柳彦璋はこの決定に従わず、戦艦百隻余りを用いて湓江ほんこう)を封鎖する水上要塞を築き、そして彼が略奪する様子は以前と同じであった。


 忠武軍ちゅうぶぐん)都将(としょう)である李可封りかほうは辺境防衛の任務を終えて許州きょしゅう)に帰る途中、※邠州ひんしゅう)に至ると邠寧節度使(ひんねいせつどし)を脅迫して、以前から不足していた食糧と塩をよこすよう要求し、邠州に四日間駐留したので、邠州の全域が震撼しんかん)した。


 けれどもそのため秋、七月、李可封等が※許州(きょしゅう)に帰着すると、忠武節度使(ちゅうぶせつどし)崔安潛(さいあんせん)は彼らを全て捕えて誅殺した。


李瓚りさんが反乱軍により桂管觀察使けいかんかんさつし)の地位を追われるに至って


資治通鑑(しじつがん)』ではこの前年(乾符(けんふ)三(876)年)の12月に李瓚は桂管観察使の地位を追われたと記述している。


邠州ひんしゅう)に至ると邠寧節度使ひんねいせつどし)


邠州は邠寧節度使の政庁所在地であった。


許州きょしゅう)に帰着すると、忠武節度使(ちゅうぶせつどし)


許州は忠武節度使(忠武軍)の政庁所在地であった。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ