4話
のそのそと、ラズベリーが脱獄し、のろのろ城の地下を徘徊し始めてから30分ほど後。
魔王城のとある一角の、かなり位が高い魔族の部屋から、悲鳴のようだが確かに怒りの色が混じった叫び声が響いた。
「はぁぁぁぁぁぁっ?!!!あの娘が逃げ出したですってっ?!」
黒い角の、血よりも暗い赤、艶のある短い髪を簪で結い上げていた女が言った。
例の、ラズベリーに食事を届けている少女である。
瞬間、ピリッと空間が震えた。
思わず、ヒュッと息を呑んだのは誰だったか。
彼女の部下の一人が跪いて、顔を青ざめさせながら口を開く。
「も、申し訳ありません、ミアージュ様。地下牢に魔法を放った痕跡はなかったのですが、壁に人間がなんとか通れそうな小さな穴が私の魔術で確認されました、あの空間の中に魔力を散らしてみても人型のモノを何も発見できず…」
「かっ、彼女は仮眠室で休憩を取っており、その間に穴が開けられました」
「……良いです、別にオゼーユを攻めているわけではありません」
そう言うと彼女の部下はあからさまに息を吐いた。
「魔法の痕跡がない……、あの女は貴族の娘でしょう、魔力を使わずに自力で魔鉱石の壁を破壊するなんて魔族でも鬼系以外、できるはずがないです」
小指を悔しそうに噛み、彼女は部下たちを連れて地下牢を見に行った。
暗い通路に、靴の音がよく反響した。
相変わらず、おどろおどろしい雰囲気の場所だと思い、彼女改めミアージュは眉を顰めた。
「……ここに、本当に忌々しい人間の娘が閉じ込められていたんですか?」
ミアージュのすぐ後ろを歩いていた一人の男の部下が怪訝な顔で言った。
眉を顰め、ミアージュは振り返って男の顔を見た。
「どう意味ですか、クドー」
「……ぬくぬくと育ってきた貴族の令嬢が、よくここまで汚れた環境で気が狂わなかったな、と」
「えぇまぁ、少し気は狂っているようでした」
気が狂っていると言っても、お前たちが見て気持ちいいものではありませんよ。
そう言って再び前を向き歩き始めた彼女を、部下たちは理解できないといった風に顔を見合わせ、次々に話し始めた。
「気が狂っているという事は、心が病んでしまっているんでしょう、……忌々しい人間のそのような姿なんて、我々が見たくないわけないじゃないですか」
「人間に散々同胞を汚され、殺されました。奴らが苦しんでいるのを見ると、胸がすく思いです」
「そうですよ、我々は人間どもに」
「いい加減になさい」
彼女の履いているヒールが、冷たい石の床を強く叩きつけた。
魔力がどろりと、鮮血のようにミアージュの体から溢れる。
彼女は眉を顰めることはなかった。ただ、氷のように冷たい無機質な瞳で部下たちを一瞥した。
ゆっくりと、赤い紅を塗った唇が開かれる。
「あの娘はどうやらレーヴェルタの姫がサキュバスも息を呑むほど執着しているそうです。今後の交渉でよい材料になります……その調子だと、お前たち娘を見つけたらそのまま殺しそうね」
ぎくりと、効果音が目で見えそうなほど、部下たちは図星をつかれた顔をする。
それを音のしない溜息を吐いたあと、ミアージュは口を開いた。
「これは仕事です」
「お前たちは私の部下であり、私の手足です。
………………煩く喚く手足は要りません」
水をうったように、静まった。
部下たちの目に恐怖の色はなかった。
ただ、恍惚とした瞳がミアージュに向けられていた。
魔族は己よりも強く、存在感があるものに崇拝する。
魔王なんていうものはもう、アレだ。カリスマの塊だ。絶対的スターってやつだ。
ミアージュは魔王不在の今、最も魔族で地位が高い四天王の一角である。
幼い頃から求心術を魔族の名家の一人娘として叩きこまれ、魔族にしては若く、119歳で四天王として絶対的な権力を握った。
力はどの種族より強いが、魔力量は少ないとされる鬼系の、純血。彼女の親はミアージュが幼い頃から徹底的に魔力を増やす方法を調べ、研究し、研究結果を血眼で彼女に叩きつけた結果、現在彼女の魔力は他の種族に比べても多い。
四天王になったことを報告した時、両親が発狂レベルで喜んでいるのを見て、ミアージュは嬉しかった。
もう十数年仕事が忙しく会ってないけれど、あの人たちは元気だろうか。
周りから見たら毒親らしいけれど、あの人たちは私に確かに愛情をもって育ててくれたのだ。
「あ、着きましたよ」
部下の一人の、クドーと呼ばれた男が言う。
長い階段を降りた先に、冷たい無機質な闇が広がっていた。
寒くないのに息が凍るような重苦しさ。
ヒールの音が一段と響くような気がする。
重苦しい霧を抜けた先に、長い鉄格子がはめ込まれた牢屋があった。
牢屋の前に立ち、鉄格子をすり抜ける。部下もそれに続いてすり抜けた。
………鉄格子をすり抜けた先には誰もいなかった。
「……本当に、逃げれたんですね」
信じられなかった。
あの女は非力な普通のご令嬢に見えた。
口から出る言葉はかなり頭がおかしいが、彼女のご飯を食べる動作は美しかった。きっと育ちが良かったのだろう。
そんな娘が、逃げ出せた?
魔力探知は例のあの優男が自ら名乗り出てやった。
あの娘、魔力は人間の中でもかなり少ないらしい。
ならなぜ。
「あっ、あれです、私の魔力をこの地下牢の壁全体に混ぜてましたが、一か所空白を感じたとこ、あれです!」
眼鏡をかけた部下の一人が指で示したものを見る。
「……っ」
なにかで、削られて開いたような穴。
その周りには、赤い血が所々染みついていた。
「まさかこれ………指で削って」
ミアージュの後ろで、口に手を当てて一人の部下が信じられないと言った風に言った。
――ああ本当、信じられない。あり得ない。
あの娘は、……………自分の指でこの固い壁を削って穴をあけたのだ。
正気の沙汰じゃない。
恐らく出血している。
魔族は、人間の血の香りに敏感だ。
唇を噛み、ミアージュは部下たちに振り向いた。
「あの娘はまだそう遠くにいないはず。速く見つけ出しましょう」
魔族は、……特にこの城にいる魔族は人間に強い憎しみを持っている。
ミアージュは人間に部下を殺されたことはまだなかった。人間への憎しみはこの城にいる魔族の中ではそう強くない方だろう。だからあの娘を見張る役を引き受けた。
だが他の連中は。
「最悪」が頭の中に浮かび、思わず歯を食いしばった。
ミアージュは駆けだした。
額を冷や汗が流れた。
他の魔族にあの子が見つかった時、あの子はどんな仕打ちを受けるだろう。
ミアージュは知らなかった。
無意識のうちに、牢に行くたび花のように笑って近寄ってくる彼女にかなり絆されていたことを。
あぁ、少しばかりあの子を見続けていたものだから、情が湧いてしまったのだ。